みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

最近クスリをまた飲み始めた

2016-05-20 16:46:35 | Weblog

一時5,6種類の薬を飲んでいた恵子。

それが、ここ半年ぐらい全く薬を飲む必要がなくなっていた。

主治医もなるべく薬は処方しないタイプの医師なので、半年ぐらい薬ゼロの日々が続いた。

しかし、つい数日前から一つだけクスリを一種類こちらから頼んで処方してもらった。

最近、麻痺のために足がツッパって固まる痙縮(けいしゅく)がひどくなっていたので以前処方してもらっていた筋弛緩剤を復活してもらったのだ。

もともと医師に勧められて飲み始めた筋弛緩剤。

でも、薬である以上副作用は避けられない。

しかも、筋弛緩剤なのだから(その量が少ないとはいえ)胃薬とはワケが違う。

これは一種の賭けに近い。

すべては彼女の「明日(復活)へのモチベーション」をあげるため、なのだ。

一年ちょっと前にある日突然杖の歩行から車椅子生活になってしまった彼女の(復活への)モチベーションは、以前ほど高くはない。

本人は「そうではない」と否定するが、突然動かなくなってしまった自分の足への(彼女自身の)信頼度はほとんどゼロに近い。

たしかに以前よりツッパリやこわばりは強い。

それが何によるものかは医師にも彼女にも、療法士にもわからない。

ただ、世の中にまったく理由がなく起こる事象はないはず(と私は思っている)。

だから、彼女自身の心の「何か」が彼女の足を動かなくしているものなのか、それとも、以前よりもつっぱってしまった身体が彼女の歩く意欲をそいでいるのか。

きっとどっちもなのだろうと思う。

心が先か身体が先かなんて「鶏が先か卵が先か」論争のようなもので、同じ事象の裏表でしかない。

でも、それがネガティブな事象である限り、この堂々巡りの「負のスパイラル」は断ち切れない。

だから、ここで「身体のこわばりが取れる」という多少のポジティブな要素が彼女の心に少しばかりのポジティブさを与えることができればという「賭け」とも言える薬の服用なのだ。

でも、とても危険な賭けには違いない。

案の定、服用を始めるとすぐに「あ、そういうことか」と思った。

少し痙縮は和らいだ(と私は思うし、療法士さんもそう感じているようだ)。

でも、やはり薬のせいで何かが起こる。

彼女は、1日中「ダルい」と訴える。

夕食の後などは、すぐに寝てしまう。

つまり、身体の力が(クスリによって)そがれてしまっているのだろうと思う。

たった一つの薬でこれだ。

介護施設でよく見てきた光景がダブる。

なにしろ、お年寄りはよく寝るし動かない。

多分、寝たいから寝ているわけではないのだと思う。

きっと、いろんな薬を飲んでいるせいに違いない。

一人で十種類以上飲んでいる人だってザラにいる。

そんなにたくさん薬飲んだら…、と思う。

若い人だって、身体の力はそがれてしまう(だって、風邪薬一つであれだけの睡魔や倦怠感に襲われるのだから)。

施設のテーブルでみんな仲良くテレビの方を眺めていながら目線もまったく動かず会話もしない。

中にはずっとひたすら寝ているだけのお年寄りたち。

でも、これってその(理由の大半は)彼ら彼女らが飲んでいる薬のせいだと私は思っている。

年寄りだから無気力なのではなく、(薬によって)無気力にさせられているだけなのだろう。

こうやって、どんどん身体や心の力を奪って一歩一歩「寝たきり」を作っている日本の介護や医療って何なのだろうと思う。

だからこそ、薬に頼らない生活、最後まで胃に穴を開けないで(普通の)食事を取っていけるように「音楽の力」を使えるケアのノウハウをしっかりと作っていかなければと思っている(別に音楽だけでなく、アロマテラピーとか絵画セラピーとかペットセラピーとか世の中にはいろんな代替療法がある)。

でも、こういう話しを始めると必ず出て来るのが「胡散臭い」「アヤシイ」…あるいは、「それって宗教?」といった反応(まあ、確かにアヤシイものもたくさんあるからナ)。

だから、私は意図的に「音楽療法」ということばを使わないようにしてきた。

この「音楽療法」ということばには偏見と誤解があるし、そして何よりも音楽家のやる「演奏によるケア」と音楽療法士のやる、いわゆる「音楽療法」の間には、とても深い溝があることをどうやって説明したらといつも頭を抱えるからだ。

なので、そんなメンドくさい説明をしなくても良いように、なるべく「音楽療法」ということばを最初から使わないようにしてきたのだ。

だから「それって宗教ですか?」と聞かれれば「ああ、またか」と思うだけ。

この「壁」を崩すのには相当時間がかかる。

 

基本的に人間にとって「生きたい」という気持以上の薬はないと私は確信している。

でも、じゃあその気持を恵子にどうやったら持ってもらえるようにできるのかをいつも考える。

恵子の今の投薬をどうするかは次の診察で医師と相談することになるだろうけど恵子の心の中に何かしらの「変化」をもたらさないといけないことに代わりはない。

 

そんなことを考えていたら、私と同じように奥さんを介護している友人から電話がかかってきた。

彼曰く「ウチのは極端に人嫌いで外に出たがらない(彼の奥さんには以前から軽い認知症の症状が出ている)。だから、みつとみさんの演奏会でもあればそれを口実に外に出したいんだけど近く何かある?」。

実は、この人の家に私の方から出向いて演奏してあげたいと話したこともある。

しかし、彼の奥さんは、彼の言うように「極端な人嫌い」らしいので(というか人見知りなのだろう)、私のような他人が家に入ることはそう簡単ではないと丁重に断られた。

 

それぞれの事情はそれぞれだけれども、問題の「根」はどこでも同じ。

基本的に人間にとって「生きたい」という気持以上の薬はないのだから、恵子も含めどうやったらその気持を持たせることができるのだろうかといつも考える。

薬に頼らずに生活しようと思っているのにあえて薬を使うのは、ある意味、自己矛盾だけれども、マイナスにマイナスをかけてプラスにしようとしている自分の心の迷い(これも多少ヤケッパチかナ?)が取れるかどうか、もうしばらく様子を見てみることにする。