「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

一に足腰 、二に文体 Long Good-bye 2024・12・26

2024-12-26 05:18:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、作家の村上春樹さんが 、

 1994年か1995年頃に書かれたエッセー「 うず

 まき猫のみつけかた 」( 新潮文庫 )の中の一節 。

  引用はじめ 。

 「 ところで 世間には作家に対するステレオタイプな
  思い込みのようなものがあって 、今でも多くの人
  は 、作家というものは毎日のように夜更かしをし
  て 、文壇バーに通って深酒を飲み 、家庭なんか
  ほとんど省みず 、持病のひとつやふたつは抱えて
  いて 、締切が近くなるとホテルで缶詰になって髪
  を振り乱している人種だと信じているみたいだ 。
  だから僕が『 夜はだいたい十時に寝て 、朝は六時
  に起きるし 、毎日ランニングをして 、一度も締切
  に遅れたことはない 』と言ったら 、しばしばがっ
  かりされる( 更に言えば 、二日酔いと便秘と頭痛
  と肩こりは生まれてからほとんど一度も経験がな
  い ) 。そんなことを言われると 、その人の中にあ
  る作家の神秘的イメージが がらがらと壊れてしまう
  らしい 。申しわけないとは思うけれど 、しかたな
  いですね 。
   でも世間に流布しているそのような破滅的作家像
  は 、『 ベレー帽をかぶった画家 』とか『 葉巻を
  くわえた資本家 』とおなじくらいのレベルの 、リ
  アリティーを欠いた幻想であって 、実際にみんな
  がそんな自堕落な生活をしていたら 、作家の平均
  年齢はたぶん五十代まで下がってしまっているはず
  だ 。まあ 中にはそういうタイプのワイルドかつカ
  ラフルな生き方を傾向的に好む方 、あるいは果敢
  に実践なさっておられる方もいらっしゃるかもしれ
  ないが 、『 私小説 』という 、実生活をいわば切
  り売りする小説スタイルが主流を占めていた昔のこ
  とはいざ知らず 、僕の知っている昨今の大方の職
  業作家はそんな荒っぽい生活は送っていない 。
  説を書くというのは 、だいたいにおいて地味で寡
  黙な仕事なのである 。」

  引用おわり 。

  ところで 、ボストンマラソンに何度も出場されている

 村上春樹さんのエッセーには 、「 ところで 」で はじ

 まるこんな文章もある 。

  引用はじめ 。

 「  ところでマラソンというのは 、ある意味ではか
  なり不思議な体験である 。これを経験するのとし
  ないのとでは 、人生そのものの色彩もいくぶん変
  わってしまうんじゃないかという気がするくらい
  である 。宗教的体験とまでは言わないけれど 、
  そこには何か深く人間存在にコミットするものが
  ある 。四十二キロを実際に走っているときは『 ま
  ったくなんで好きこのんでこんなひどい目にあわな
  くちゃいけないんだ 。こんなことをしたっていい
  ことなんか何もないじゃないか 。というか 、かえ
  って身体に悪いくらいじゃないか( 爪がはがれる 、
  まめもできる 、翌日は階段をおりるのが辛い )』
  とかなり真剣に自問するのだけれど 、それでもな
  んとかゴールに飛び込んで 、一息ついて手渡され
  た冷たい缶ビールをごくごくと飲み 、熱い風呂に
  つかりながら安全ピンの先で膨らんだまめを潰す
  頃にはもう 、『 さあ次のレースは頑張らなくち
  ゃな 』と鼻息も荒く考え始めている 。これはい
  ったいどういう作用なのだろう ? 人間には 、と
  きどき自分を極限まで痛めつけたいという潜在的な
  願望のようなものがあるのだろうか ?
   僕にはその発生理由まではよくわからないけれど 、
  いずれにせよこういう感興はフルマラソンを走った
  ときにしか感じることのできないとくべつなもので
  ある 。」

 「 フル・マラソンを走り終えると 、人は( 少なく
  とも僕は )簡単にのみこむことのできない こだわ
  り のようなものを腹の中にがつんと残すことにな
  る 。うまく説明できないのだが 、自分がつい さ
  っきまでぎりぎりのところで味わっていた この
  『 苦しみのようなもの 』とは 、近いうちにも
  う一度対面して 、それなりの落とし前をつけな
  くてはならないのだ 、と感じてしまうのだ 。
  『 これはもう一度繰り返されなくてはならない 、  ( 次はもっと
  それももっとうまく繰り返される必要がある 』     うまく失敗する )
  という風に 。だからこそたぶん僕はそのたびに
  へとへと 、くたくた になりながら めげることな
  く あきらめることなく 、かれこれ十二年ものあ
  いだ しつこく フル・マラソンを走り続けているの
  だろう ―― もちろん 落とし前なんて まだ ぜんぜ
  んついてはいないけれど 。
   マゾヒスティックと人は言うかもしれないけれど 、
  でも 決して それだけではないだろうと僕は思う 。
  それはきっと 、むしろ好奇心に似た種類のものな
  のだろう 。回数を積み重ね 、限界を 少しずつ 上
  げていくことによって 、自分の中に潜んでいる自
  分のまだ知らないものを もっとよく見てみたい 、
  日の当たるところに ずるずる ひきずりだしてみた
  い 、というような ・・・ 。
   でもこれは考えてみたら 、僕が常日頃長編小説
  に対して抱いている思いとほとんどそっくりです
  ね 。ある日突然 、『 さあ 、これから長編小説
  を書こう 』と思う 。机の前に向かう 。そして
  何カ月か 何年か 息を詰めるようにして 、神経を
  ぎりぎりの限界まで集中して長編をひとつ書きあ
  げて 、そのたびに雑巾を絞りきったみたいに 疲
  労困憊して 、『 ああ 、辛かった 。しんどかっ
  た 。もうしばらくはこんなことしたくない 』と
  しみじみ思うのだけれど 、少し時間がたつと
  『 いや 、今度こそは 』と思ってまた懲りずに
  机の前に座り 、また長編を書き始めることにな
  る 。しかしどれだけ書いても 、やはりしこりが
  腹の中にずしりと残る 。」

 「 マラソンのあとでゴール近くのコプリー・プラザ
  の中にある 、ボストンでいちばん有名なシーフー
  ド・レストラン〈 リーガル・シーフード 〉に行
  って 、こってりとした温かいクラム・チャウダー
  を飲み 、スチームド・リトルネック( ニューイ
  ングランド地方でしか採れない貝で 、これは僕の
  好物 )を食べ 、シーフードのミクスト・フライ
  を食べる 。ウエイトレスが僕の持ってる完走メダ
  ルを見て 、『 あなたマラソン走ったの? へえ 、
  勇気あるわねえ 』と誉めてくれた 。勇気がある
  なんて誰かに言われたのは 、自慢じゃないけれ
  ど 、生まれてからほとんど初めてのことである 。
  実際の話 、僕には勇気なんてものまるでないん
  だけれどな 。

   しかし何はともあれ 、誰がなんといおうと 、
  勇気があってもなくても 、フル・マラソンを走
  り終えたあとで食べるたっぷりとした温かいディ
  ナーというのは 、この世の中でいちばん素晴ら
  しいもののひとつである 。
   誰がなんと言おうと 。」

  引用おわり 。

  ながながと引用したが 、いい文章 。

  マラソンとは違うかも知れないが 、登山にもフル・

 マラソンと似た作用があるように思う 。同じ山に同

 じコースで十数度も登る 、山小屋に一泊せずに 、夕

 刻から登り始める夜行登山で 、山頂近くで御来迎を

 見て 、夜が明けたら麓の景色を眺めながら一気に下

 山する 、という富士登山を繰りかえしていた若いこ

 ろを思いだす 。

 

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