今日の「 お気に入り 」は 、作家の村上春樹さんが 、
1994年か1995年頃に書かれたエッセー「 うず
まき猫のみつけかた 」( 新潮文庫 )の中の一節 。
引用はじめ 。
「 ところで 世間には作家に対するステレオタイプな
思い込みのようなものがあって 、今でも多くの人
は 、作家というものは毎日のように夜更かしをし
て 、文壇バーに通って深酒を飲み 、家庭なんか
ほとんど省みず 、持病のひとつやふたつは抱えて
いて 、締切が近くなるとホテルで缶詰になって髪
を振り乱している人種だと信じているみたいだ 。
だから僕が『 夜はだいたい十時に寝て 、朝は六時
に起きるし 、毎日ランニングをして 、一度も締切
に遅れたことはない 』と言ったら 、しばしばがっ
かりされる( 更に言えば 、二日酔いと便秘と頭痛
と肩こりは生まれてからほとんど一度も経験がな
い ) 。そんなことを言われると 、その人の中にあ
る作家の神秘的イメージが がらがらと壊れてしまう
らしい 。申しわけないとは思うけれど 、しかたな
いですね 。
でも世間に流布しているそのような破滅的作家像
は 、『 ベレー帽をかぶった画家 』とか『 葉巻を
くわえた資本家 』とおなじくらいのレベルの 、リ
アリティーを欠いた幻想であって 、実際にみんな
がそんな自堕落な生活をしていたら 、作家の平均
年齢はたぶん五十代まで下がってしまっているはず
だ 。まあ 中にはそういうタイプのワイルドかつカ
ラフルな生き方を傾向的に好む方 、あるいは果敢
に実践なさっておられる方もいらっしゃるかもしれ
ないが 、『 私小説 』という 、実生活をいわば切
り売りする小説スタイルが主流を占めていた昔のこ
とはいざ知らず 、僕の知っている昨今の大方の職
業作家はそんな荒っぽい生活は送っていない 。小
説を書くというのは 、だいたいにおいて地味で寡
黙な仕事なのである 。」
引用おわり 。
ところで 、ボストンマラソンに何度も出場されている
村上春樹さんのエッセーには 、「 ところで 」で はじ
まるこんな文章もある 。
引用はじめ 。
「 ところでマラソンというのは 、ある意味ではか
なり不思議な体験である 。これを経験するのとし
ないのとでは 、人生そのものの色彩もいくぶん変
わってしまうんじゃないかという気がするくらい
である 。宗教的体験とまでは言わないけれど 、
そこには何か深く人間存在にコミットするものが
ある 。四十二キロを実際に走っているときは『 ま
ったくなんで好きこのんでこんなひどい目にあわな
くちゃいけないんだ 。こんなことをしたっていい
ことなんか何もないじゃないか 。というか 、かえ
って身体に悪いくらいじゃないか( 爪がはがれる 、
まめもできる 、翌日は階段をおりるのが辛い )』
とかなり真剣に自問するのだけれど 、それでもな
んとかゴールに飛び込んで 、一息ついて手渡され
た冷たい缶ビールをごくごくと飲み 、熱い風呂に
つかりながら安全ピンの先で膨らんだまめを潰す
頃にはもう 、『 さあ次のレースは頑張らなくち
ゃな 』と鼻息も荒く考え始めている 。これはい
ったいどういう作用なのだろう ? 人間には 、と
きどき自分を極限まで痛めつけたいという潜在的な
願望のようなものがあるのだろうか ?
僕にはその発生理由まではよくわからないけれど 、
いずれにせよこういう感興はフルマラソンを走った
ときにしか感じることのできないとくべつなもので
ある 。」
「 フル・マラソンを走り終えると 、人は( 少なく
とも僕は )簡単にのみこむことのできない こだわ
り のようなものを腹の中にがつんと残すことにな
る 。うまく説明できないのだが 、自分がつい さ
っきまでぎりぎりのところで味わっていた この
『 苦しみのようなもの 』とは 、近いうちにも
う一度対面して 、それなりの落とし前をつけな
くてはならないのだ 、と感じてしまうのだ 。
『 これはもう一度繰り返されなくてはならない 、 ( 次はもっと
それももっとうまく繰り返される必要がある 』 うまく失敗する )
という風に 。だからこそたぶん僕はそのたびに
へとへと 、くたくた になりながら めげることな
く あきらめることなく 、かれこれ十二年ものあ
いだ しつこく フル・マラソンを走り続けているの
だろう ―― もちろん 落とし前なんて まだ ぜんぜ
んついてはいないけれど 。
マゾヒスティックと人は言うかもしれないけれど 、
でも 決して それだけではないだろうと僕は思う 。
それはきっと 、むしろ好奇心に似た種類のものな
のだろう 。回数を積み重ね 、限界を 少しずつ 上
げていくことによって 、自分の中に潜んでいる自
分のまだ知らないものを もっとよく見てみたい 、
日の当たるところに ずるずる ひきずりだしてみた
い 、というような ・・・ 。
でもこれは考えてみたら 、僕が常日頃長編小説
に対して抱いている思いとほとんどそっくりです
ね 。ある日突然 、『 さあ 、これから長編小説
を書こう 』と思う 。机の前に向かう 。そして
何カ月か 何年か 息を詰めるようにして 、神経を
ぎりぎりの限界まで集中して長編をひとつ書きあ
げて 、そのたびに雑巾を絞りきったみたいに 疲
労困憊して 、『 ああ 、辛かった 。しんどかっ
た 。もうしばらくはこんなことしたくない 』と
しみじみ思うのだけれど 、少し時間がたつと
『 いや 、今度こそは 』と思ってまた懲りずに
机の前に座り 、また長編を書き始めることにな
る 。しかしどれだけ書いても 、やはりしこりが
腹の中にずしりと残る 。」
「 マラソンのあとでゴール近くのコプリー・プラザ
の中にある 、ボストンでいちばん有名なシーフー
ド・レストラン〈 リーガル・シーフード 〉に行
って 、こってりとした温かいクラム・チャウダー
を飲み 、スチームド・リトルネック( ニューイ
ングランド地方でしか採れない貝で 、これは僕の
好物 )を食べ 、シーフードのミクスト・フライ
を食べる 。ウエイトレスが僕の持ってる完走メダ
ルを見て 、『 あなたマラソン走ったの? へえ 、
勇気あるわねえ 』と誉めてくれた 。勇気がある
なんて誰かに言われたのは 、自慢じゃないけれ
ど 、生まれてからほとんど初めてのことである 。
実際の話 、僕には勇気なんてものまるでないん
だけれどな 。
しかし何はともあれ 、誰がなんといおうと 、
勇気があってもなくても 、フル・マラソンを走
り終えたあとで食べるたっぷりとした温かいディ
ナーというのは 、この世の中でいちばん素晴ら
しいもののひとつである 。
誰がなんと言おうと 。」
引用おわり 。
ながながと引用したが 、いい文章 。
マラソンとは違うかも知れないが 、登山にもフル・
マラソンと似た作用があるように思う 。同じ山に同
じコースで十数度も登る 、山小屋に一泊せずに 、夕
刻から登り始める夜行登山で 、山頂近くで御来迎を
見て 、夜が明けたら麓の景色を眺めながら一気に下
山する 、という富士登山を繰りかえしていた若いこ
ろを思いだす 。
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