今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん
( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公
文庫 )の中から「 シュークリーム 」と題した
小文 の一節 。
引用はじめ 。
「 私が初めてシュークリームをたべたのは 、
明治四十年頃の事であらうと思ふ 。その
当時は岡山にゐたので 、東京や大阪では 、
或はもう少し早くから有つたかも知れない 。
第六高等学校が私の生家の裏の田圃に建
つたので 、古びた私の町内にもいろいろ
新らしい商売をする家が出来た 。夜にな
ると 、暗い往来のところどころにぎらぎ
らする様な明るい電気をともしてゐる店が
あつて 、淋しい町外れの町に似合はぬハ
イカラな物を売つてゐた 。
私は明治四十年に六高に入学したのであ
るが 、その当時は私の家はもうすつかり
貧乏してしまつて父もなくなり 、もと造
り酒屋であつたがらんどうの様な広い家
の中に 、母と祖母と三人で暮らしてゐた 。
夜机に向かつて予習してゐると 、何が
食ひたいかと考へて見ると 、シユークリ
ームがほしくなつて来る 。その時分は 、
一つ四銭か五銭であつたが 、さう云ふ高
い菓子をたべると云ふ事は普通ではない 。
しかし欲しいので祖母にその事を話すので
ある 。祖母が一番私を可愛がつてゐたの
で 、高等学校の生徒になつても矢張り子
供の様に思はれたのであらう 。それなら
自分が買つて来てあげると云って暗い町
に下駄の音をさせて出かけて行く 。
六高道に曲がる角に広江と云ふ文房具屋
があつて 、その店でシユークリームを売
つてゐる 。祖母はそこまで行つて 、シユ
ークリームを一つ買つて来るのであるが 、
たつた一つ買つて来ると云ふ事を私も別に
不思議には思はなかつた 。祖母の手から
そのシユークリームを貰つて 、そつとそ
の中の汁を啜つた味は今でも忘れられな
い 。子供の玩具に本当の牛を飼つて見た
り 、いい若い者の使に年寄りがシユーク
リームを買ひに行つたりするのが 、いい
か悪いかと云ふ様な事ではないのであつて 、
こつてい牛は今では殆んど見られなくなつ
たが 、シユークリームをたべると 、いつ
でも祖母の顔がどことなく目先に浮かぶ様
に思はれるのである 。 」
引用おわり 。
文学的才能の萌芽らしきものを見せ始めた一人息子に
期待を寄せる母と祖母 、父親不在の家庭にあって 、十五 、
六歳になった ひとり息子 が 、幼い頃そのままに 、母 、
祖母に 、傍若無人で 、大人をなめきった態度 、行動を取
り続ける 。
とてもやばそう 。だけど 、現代でもありそうな家庭情況 。
( ´_ゝ`)
1889年(明治22年)生まれの「 榮造 」少年が 十五歳か
十六歳のときの 1905年(明治38年)に父親が亡くなり 、
実家の造り酒屋 志保屋が倒産 、経済的に困窮したらしい 。
それでも 、地方の旧家の常で 、恒産があったのか 、日々
の暮らしはなんとかなったらしく 、ひとり息子だった榮造
少年は 、翌 1906年(明治39年)に 、博文館発行の文芸雑
誌「 文章世界 」に小品を投稿し、「 乞食 」が 優等入選 し
たりしている 。
そして 、1907年(明治40年)には 、岡山中学校を卒業し 、
第六高等学校( 現在の岡山大学 )に入学 。三年後の1910年
(明治43年)、第六高等学校卒業 。上京し 、東京帝国大学
文科大学に入学( 文学科独逸文学専攻 )。1911年(明治44年)、
療養中の夏目漱石を見舞い 、門弟となったようである 。
( ´_ゝ`)
( ついでながらの
筆者註:この随筆の巻末に 、百閒先生の旅のお供
をされた ヒマラヤ山系君 こと 平山三郎さんが
書かれた「 解説 」があり 、その解説文の中に
百閒先生について こんな記述があります 。
「 ひとりッ子で我侭の仕放題 、おんば
日傘で育てられた 、お祖母さん子で
ある 。」
こんな場合 、大抵 ろくな大人には育たない 。
百閒先生が ろくな大人 だったのかどうかは 、
寡聞にして 筆者は存じ上げません 。それでも
お酒も 、煙草も 、若い頃から切らしたことが
ない というほど嗜まれた 百閒先生は 存外 長命
で 、81歳で 、老衰で 、亡くなったそうです 。
随筆を読みますと 、ご長命の理由が仄見えて来
ます 。そう感じられる普段の生活習慣をいくつか
挙げてみます 。
引用はじめ 。
「 朝の支度は 、起きると先づ果物を一二種食ふ 。
梨や林檎は大概半顆宛 、桃は大きくても小さく
ても一つ食べる 。桃の身は濡れてゐて辷(すべ)
り込むから食つてしまふのである 。それと同時
に葡萄酒を一杯飲む 。大変貴族的な習慣で聞き
なりはいいが 、常用の葡萄酒は日本薬局方の所
謂赤酒である 。問屋からまとめて買ふので一本
五十二銭である 。」
「 郵便や新聞を見終る前に 、ビスケットを噛つて
牛乳を飲む 。これで朝食を終るのである 。」
「 何の邪魔も這入らない時は 、十時頃から仕事に
かかる 。さうしてお午になると蕎麦を食べる 。
大体秋の彼岸から春の彼岸までは 、盛りかけ一
つ宛を半分宛食ふ 。春の彼岸から秋までは盛り
二つを一つ半位食ふ 。夏の方が朝が早いのでそ
れ丈腹がへるらしい 。学校を止めて以来ずつと
その習慣を変へない 。」
「 午後ずっと仕事をしてゐても 、私は間食は決
してしない 。ただひたすらに 、夕食を楽しみ
にしてゐる 。」
「 私は親譲りの酒好きなのであらうと自分でも
さう思ふのは 、酒の味がうまくて堪らないの
である 。酔つた気持も悪くないが 、しかし
あまり度を過ごすのは好きではない 。それは
私が気を遣つて自制するのではなく 、いい加
減のところまで行くと 、酒の味が悪くなるの
で 、さうなると 、もうあまり飲む気がしな
い 。」 ( 専ら日本の麦酒と清酒で 、火酒は滅多に飲まれなかったらしい 。)
「 夕食の膳では酒を飲む 。酒も決して外の時間
には口にしない 。間でお行儀のわるい事をする
と 、折角の晩の酒の味が滅茶苦茶になるからで
ある 。酒は月桂冠の罎詰 、麦酒は恵比須麦酒
である 。」
「 夜は大概仕事をしない 。おなかのふくれたと
ころで寝てしまふ 。」
「 毎月八日と十七日と二十一日の三日をお精進と
定めて 、魚も肉も食べない 。野菜を煮る汁に
も鰹節をつかはない様に云ひつけてある 。味の
素は精進料理につかつて差支へない物と思ふけ
れども 、味の素を入れた料理は上つすべりがし
て 、塩梅の妙味と云ふものがなくなるから 、
ふだんから使はせない 。口先だけうまくて 、
ペンキ塗の御馳走だからいかんと申し渡してあ
る手前 、お精進の三日だけは味の素をつかつ
てもいいと云ふのも沽券にかかはるので 、昆
布のだしなどで我慢する 。それで煮物も平生
よりはうまくない様だが 、それだけ味が変は
つて 、如何にも今日はお精進であると云ふ様
な気がする 。 」
「 いつでもその翌日は精進落ちを布令する 。
牛肉の網焼をさせたり 、蒲焼を取つたり 、
四谷見附の三河屋から牛の舌を持つて来させ
たりする 。それで一月に三日は大つぴらに
御馳走を食ひ散らす口実が出来てゐるが 、
更にその機会をふやすために 、謝肉祭の故
智に祖(なら)つて 、お精進の前晩にも 、
平生あまり食はない様な御馳走を要求する事
にしようかと考へついた 。この次の十七日
のその前の晩は 、うつかり過ごさないやう
にしようと心掛けてゐる 。 」
引用おわり 。
バランスよく 、規則正しく食べていらっしゃる 。
理にかなった 食生活 。
へべれけ になるまでは 、のまない 。
筆者の想像するところ 、百閒先生 何よりの健康法は 、
ストレスを内に溜め込まず 、爆発させて発散するか 、
ひとにストレスを転嫁することにあった と思います。
随筆の中に 、次のような記述があり 、老衰 という
より 、年来の痼疾から来る 心不全 で亡くなったよう
にも思えます 。ご寿命だったのでしょう 。
「 私の動悸と云ふのは 、普通の人の動悸とは
大分違ふのであつて 、もう二十年来の持病
である 。発作が起こると脈搏は二百位にな
るが 、しかし呼吸は普通であつて 、煙草を
吸ひながら 、話しをする事が出来る 。すぐ
治まれば何でもないが 、長く続くと変な気持
になつて 、死にさうに思はれる 。それで夜
なかでも夜明けでも小林博士の許へ行く様な
事になるのだが 、診察室で苦しい胸を押さへ
て 、待つてゐるところへ 、外の廊下に小林
博士の足音が聞こえると 、その拍子になほ
つてしまつたと云ふ様な事が何度もある 。
発作だから 、なほつたら後は何ともない 。
よる夜中お騒がせしてすみませんでしたと
お詫びして帰つて来る 。小林博士の玄関ま
で来てなほつた事もあり 、自動車がその近
所へ曲がつた時になほつた事もあり 、苦し
くなつて 、小林博士の許へ行かうと思つて 、
自動車に乗つた途端になほつた事もある 。
普通の心臓病ではないのださうであつて 、
病名は Paroxysmale Tachykardie 発作性
心臓収縮異常疾速症と云ふのである 。
しかしさう云ふ風にうまい工合になほら
ぬ時もあつて 、二百前後の脈搏が何時間
も続き 、十何時間も続き 、二十何時間も
続き 、一番長かつた時は 、三十六時間半
続いた事がある 。 」
( 文中に出てくる小林博士は 、百閒先生の掛りつけのお医者さんで 、医学博士の小林安宅先生 のこと )
晩年の 1967年 (昭和42年)、芸術院会員に推薦される
も固辞 。
辞退の弁は「 イヤだから 、イヤだ 」だそうです 。)
毛に覆われた実を 、悪魔を追い払う髭の生えた神様「 鍾馗 」の
顎ひげになぞらえたことから、ショウキウツギという和名がついたそうです 。
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