今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 テレビは百害あって一利ないという持論を展開して納得させることは出来ても、その家(うち)から
テレビを取上げることはできない。
二十年あまり前これからは映像の時代だ、映像は活字の百倍千倍の情報をもたらすといったが、そ
のころ韓国の情報はキーセン旅行と金大中だけだった。
浅間山荘事件の時はどのチャンネルからも同じ画面しか出なかった。あれはただダブっているだけ
で豊富ではないとその時私は書いた。固唾(かたず)をのんで何を見ているのかというと、誰かが死ぬ
のを待っているのである。過激派でも警官でもどっちでもいい。目の前で撃たれ、血を流し、もがい
て息たえるところが見たくて終日手に汗にぎっているのである。
高見のけんぶつという、安全地帯で人の死をみるほどの見ものはない。自分が手をくだすのではな
いから俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じない。その死が完了したあくる日マスコミは茶の間の見物と共
に極悪非道と罵って快をむさぼる、テレビと見物は一味でありぐるである。
それは時の古今、洋の東西を問わない。フランス革命のむかし人民は毎日ギロチンにかけられる男
女を見物して歓呼した。ことに女たちは熱狂した。
言いたくはないがこれらはスペクタクルでありスキャンダルなのである。稀にみる見世物なのであ
る。神戸の大地震に戦慄したのは東京ではその一両日だけである。ひと月以上同じ報道にあきあきし
たところへオウム真理教騒ぎがおこったのはいいタイミングだった。大地震も両信用組合も消しとん
でサリンでもちきりになったが、あれもまた重複で豊富ではない。次の大惨事がおこらないから今回
も同じ映像が出ているだけだと知るから私は見ない。一件落着してから見ようと思って、結局は見な
いで終るだろう。
人は{むろん私も}スキャンダルが大好きである。だから私は目をそむけるのである。そして出来
てしまったものは出来ない昔に返せないのである。故にテレビは百害あって一利がないといくら言っ
ても、言い甲斐はないのである。」
(山本夏彦著阿川佐和子編「『夏彦の写真コラム』傑作選2」新潮文庫 所収)