「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

ゆうやけこやけでひがくれて Long Good-bye 2023・05・11

2023-05-11 05:11:00 | Weblog




   今日の「 お気に入り 」は 、NHK BSPのテレビドラマ「グレースの履歴 」第7話
   ( 望まざる再会 ) の中で 、流れてきた 童謡「 赤とんぼ 」のメロディー 。
   ドラマの舞台のひとつ 、愛媛県松山市の夕刻の時報曲 。
   「 赤とんぼ 」と同じように 、時報曲としてよく使われるのが「 夕焼小焼 」。
   東京都の杉並区は 、阿佐ヶ谷も 、浜田山も 、高井戸も 、みんな「 夕焼小焼 」。
   インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」で 、「 夕焼小焼 」を検索する
  と 、記事の冒頭に「 三木露風作詞・山田耕筰作曲の『 赤とんぼ ( 童謡 ) 』とは異なり
  ます 」と注釈が付いている 。間違いやすいからね 。「 夕焼小焼 」の解説記事の本文
  は 、概ね 次の通りだけれど 、ウィキペディアに 、この童謡の歌詞の紹介は 、大人の
  事情で 、ない 。

   適宜抜粋して引用します 。

   引用はじめ 。

  「 夕焼小焼( ゆうやけこやけ 、夕焼け小焼け )は 、1919年( 大正8年 )に発表された
   中村雨紅の詞に 、草川信 が 1922年( 大正11年 )に作曲 した童謡である 。1923年に
   『 文化楽譜 あたらしい童謡・その一 』に発表され 、日本の童謡としては 最も広く親し
   まれている作品の一つである 。」

  「 夕焼小焼と八王子市
   ・この歌の情景は 、雨紅の故郷である 東京府南多摩郡恩方村( 現在の東京都八王子市 )
    のものである 。彼の生家近くにある『 夕やけ小やけふれあいの里 』前には『 夕焼小
    焼 』バス停が設置され 、高尾駅と陣馬高原下を結ぶ西東京バスの路線バスが停車する 。
    2006年11月までは 、不定期にボンネットバスの『 夕やけ小やけ号 』が運行されていた 。

   ・2005年12月25日より 、JR八王子駅の発車メロディは 、各番線でアレンジは異なるものの
    全ての番線で本楽曲が使用されており 、同駅のコンコースには本楽曲をイメージした壁画
    と歌碑が 屋根の段差部分に取り付けられている 。
    八王子市の市町村防災行政無線でも 、夕方の時報曲として使用されている 。 」

  「 夕方の時報
     八王子市以外にも日本全国各地で 、市町村防災行政無線の夕方( 16時 - 18時頃 )の時
    報曲( インスト )として採用されている 。そのほか公共施設や自治会の放送設備など 、
    防災行政無線のスピーカー以外から時報曲として流される場合もある 。 」

   引用おわり 。
 
   曲については著作権保護期間が終了しているとのことで 、全国各地の多くの自治体で
  時報その他にメロディーが利用されるのは 、そんなわけ 。
   1919年 ( 大正8年 ) に発表されたという歌詞の方は 、100年 後の現在も 、「 著作権の
  保護期間中のため 、日本国著作権法第32条および米国著作権法 第107条により フェア
  ユースと認められる形式の引用を除き 、Wikipediaへの掲載は著作権 侵害となります 。
  また 、演奏などの著作隣接権についても注意ください 。 」とのことである

   本人の与かり知らぬところで 、作詞者の死後50年たっても著作権が主張されるとは 、
  何とも強欲なことである 。なんと 、音楽の著作権は70年だとさ 。
   大した議論もなく 、いつの間にか 50年から70年に延ばされてたのは 、高齢化の
  故か 。欲ボケが再延長 。
    
   因みに 、「 夕焼小焼 」と混同されやすい「 赤とんぼ 」の方は 、曲も歌詞も 、目出
  度く開放されているようだ 。

  ( ついでながらの
    筆者註:「『 赤とんぼ 』( 赤蜻蛉 、あかとんぼ )は 、三木露風の作詞 、
         山田耕筰の作曲による 、日本の代表的な童謡の一つである 。
         夕暮れ時に赤とんぼを見て 、昔を懐かしく思い出すという 、郷愁
        にあふれた歌詞である 。2007年( 平成19年 )に 日本の歌百選の
        1曲に選定された 。瀧廉太郎も携わったと言われる 。
        概 要
         三木露風が 1921年( 大正10年 )に 、故郷である兵庫県揖保郡
        龍野町( 現在の たつの市 )で過ごした子供の頃の郷愁から作った
        といわれ 、同年8月に『 樫の実 』に最初に発表した 。その後 、
        12月に童謡集『 真珠島 』で一部修正する 。この詩に 、1927年
        ( 昭和2年 )、山田耕筰が曲をつけた 。たつの市の童謡の小径に
        記念碑がある 。また 埼玉県久喜市の久喜青葉団地内に所在する
        童謡の小道に 歌碑が置かれている 。」

       「 歌 詞
         夕焼 、小焼の 、
         あかとんぼ 、
         負われて見たのは 、
         いつの日か 。

         山の畑の 、
         桑の実を 、
         小籠( こかご )に 、つんだは 、
         まぼろしか 。

         十五で 、姐( ねえ )やは 、
         嫁にゆき 、
         お里の 、たよりも 、
         たえはてた。

         夕やけ 、小やけの 、
         赤とんぼ 。
         とまっているよ 、
         竿の先 。            」

        以上ウィキ情報 。

        「 夕焼小焼 」の歌詞が開放されようと 、されまいと 、毎日 、全国各地で
        夕方の4時半か5時になると拡声器から流れてくるメロディーに 、
        口をついて出てくる歌詞はとめようもない 。母からの口伝で 、
         「 赤とんぼ 」も「 夕焼小焼 」も 、筆者は 、幼い頃から
        丸暗記している 。70年経った今も忘れない 。
         筆者が住む神奈川県藤沢市でも 、毎夕流れるオルゴールのメロディーは
        「 夕焼小焼 」 。ウィキペディアに歌詞の掲載はなくてもそらで覚えている 。

        「 ゆうやけこやけで ひがくれて
         やまのおてらの かねがなる
         おててつないで みなかえろ
         からすといっしょに かえりましょー

         こどもがかえった あとからは
         まーるいおおきな おつきさま
         ことりがゆめを みるころは
         そらにはきらきら きんのほしー 」 でしたっけ 。

         いい歌詞だなあ 。 (^^♪   )

  「 グレースの履歴 」第1話 ( メッセージ ) の中 、滝藤賢一さん演じる主人公
   " 希久夫 " が 、妻の急死後 、東京都杉並区の自宅で 、骨壷を抱えつつ悲嘆に
  くれている 。
   その背景に遠く静かに流れているのが 、第7話で回収される「 夕焼小焼 」
  の時報曲 。 肌理の細かい演出と編集で 、奥行きのあるドラマに仕上がって
  いる 。         



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物質と記憶 Long Good-bye 2023・05・08

2023-05-08 05:08:00 | Weblog





  今日の「 お気に入り 」は 、NHK BSPのテレビドラマ「グレースの履歴 」の
  第6話 ( 記憶のかけら ) の一場面にひょっこり出てくる「 本 」のタイトル「 物質
  と記憶 」 。
   以下に引用するのは 、その本 、ベルクソンの「 物質と記憶 」、ではなく 、内田
  樹さんのブログ 「 内田樹の研究室 」( 2004-07-18 dimanche ) に掲載された「 物質
  と記憶 」と題した小文の一節 。

  「 ベルクソンの『 物質と記憶 』を読む 。
    たいへんに面白い 。
    ベルクソンという哲学者は 、若い人たちの間ではあまり人気がないけれど 、
   それは このおじさんが徹頭徹尾『 常識の人 』だからである 。
    まことに『 常識的 』なことを 、あきれるほどに精緻な学術的論証を積み重
   ねて検証するのである。」

  「 『 物質と記憶 』は 、観念論と実在論の極端な主張をおしとどめて 、『 ま 、
   そうそうつっぱらずに 、どうです ここはひとつ ナカとって 、表象よりは現実
   的で 、事物よりは幻想的な 、事物と表象の中間にあるものを『 イマージュ 』
   と呼ぶことにしては ・・・ 』という妥協を策したものである 。
    こういう『 ナカ取って 』というようなことを なかなかここまではっきりと
   口には出す哲学者はおらない 。
    そんなベルクソン先生の面目が躍如たるのは記憶の話 。
    どうして 、大人になるとこうも物忘れが激しくなるのか 、思い悩んでいたの
   であるが 、先生によれば 、これがまるで心配には及ばなかったのである 。
    先生のご意見はこうだ。

   『 たいていの児童に 、自発的記憶が異常に発達しているのは 、まさしく彼らが
    その記憶力を行動と連携させないところからくる 。彼らは その場その場の印象
    を追うのが常であって 、彼らにあっては 行動は記憶の指示に従わないから 、
    逆に彼らの記憶は行動に制約されない 。』(『 物質と記憶 』、田島節夫訳 、
    白水社 )

     私も覚えがあるが 、子どものころは有用性というようなことを考えずに 、なん
    でも記憶してしまう( 私はプロ野球に興味がなかったのに 、西鉄ライオンズの
    スターティングメンバーの打率を記憶していた )。
     私たちが ぜひとも記憶されるべきものと 、どうでもいいものを差異化するのは 、
    ある種の記憶を繰り返し甦らせることが 生存戦略上 有益であることが経験的に
    確証された『 後 』になってからのことである 。

   『 子どもの方が容易におぼえるように見えるのは 、彼らの想起がそれだけ弁別を
    伴わないからにすぎない 。知能が発達するにつれて 、一見 記憶力が減退する
    のは 、したがって 、記憶と行動の組織化が増大するところから来る 。そうい
    うわけで 、意識的記憶力は鋭さにおいて得るだけ 、広さにおいて失うのである 。』

    なるほど。」

  ( ついでながらの
    筆者註:「 アンリ=ルイ・ベルクソン( Henri-Louis Bergson 、1859年10月18日 -
         1941年1月4日 )は 、フランスの哲学者 。出身はパリ 。日本語では
        『 ベルグソン 』と表記されることも多いが 、近年では原語に近い
        『 ベルクソン 』の表記が主流となっている 。」
        以上ウィキ情報 。
        そう言えば 、哲学者と呼ばれる人の著作には 、若い頃から縁がないなあ 。
        関心 、興味は 、人 さまざま 。 )



  

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死んだらどうなるか自分で決める Long Good-bye 2023・05・06

2023-05-06 05:06:00 | Weblog



  今日の「 お気に入り 」は 、橋爪大三郎著「 死の講義 」の一節 。

  「 神々を祀る神道と 、真理を覚る仏教 。そもそも互いに
   なんの関係もなく 、互いに違和感としこりのある関係だ 。
   それが平安時代も後半になると 、歩み寄りが始まった 。
    唱えられたのが 、本地垂迹 ( ほんじすいじゃく ) 説である 。
   インド ( 本地 ) から仏や菩薩がおおぜい 、日本にやっ
   てきて ( 垂迹 ) 降り立ち 、神々となった 。だから実
   体は同じものだ 、という 。仏・イコール・神である 。
   仏典のどこをさがしても 、そんなことは書いてない 。
   なんの証拠もない 。だから『 説 』なのだが 、当時
   そう思いたい人びとが多かったらしく 、それでいい
   ことになってしまった 。 」

  「 仏と神を区別するのをやめ 、同じものだと考えるよう
   になることを 、神仏習合という 。」

  「 仏と神という 、大変性質の異なったものを同一だと考
   えると 、仏教が変質する 。通常の仏教で成り立たない
   命題が成り立つようになる 。そして神道が変質する 。
   通常の神道で成り立たない命題が成り立つようになる 。
    死についてもそうである 。たとえば 、日本人は 、
   『 人間は死ぬと仏になる 』と思っているひとが多い 。
   インドや中国でこういうことを言うと 、笑われる 。
   仏教からは絶対 、この命題は出てこない 。真理を覚
   れば仏になるので 、それ以外の道はない 。人間の生
   き死にと覚りとは 、直接の関係がない

    なぜこういうことになるのか 。もともと 、人間は
   死んだら神になる ( こともある ) 、と日本人は考え
   ていたのだろう 。そこに 、神=仏を代入してみる 。
   すると 、『 人間は死ぬと仏になる 』になるのである 。」

  「 『 人間は死ぬと仏になる 』は 、仏教の正しい考え
   方ではない
。 」

  「 念仏宗は 、死後に極楽往生することを願う 。念仏宗
   の信仰は 、この命題 ( 人間は死ぬと仏になる ) とぴ
   ったり合っているような気もしてきたりする 。 」

   ( 出典:橋爪大三郎著 「 死の講義 - 死んだらどうなるか 、
        自分で決めなさい - 」ダイヤモンド社刊 所収 )

   この本の まえがき には 、こんなことも書かれていました。

   「 死んだらどうなるのか 、死んでみるまでわからない 。それなら 、
    死んだらどうなるのかは 、自分が自由に決めてよいのです 。宗教
    の数だけ 、人びとの考え方の数だけ 、死んだらどうなるのか 、の
    答えがあります 。そのどれにも 、大事な生き方が詰まっています 。
    人生の知恵がこめられています 。それは 、これまでを生きた人びと
    から 、いまを生きる人びとへのプレゼントです 。これより大きなプ
    レゼントがあるでしょうか
。 」

  
   世の中 、〇〇一辺倒でないことは 、ありがたいことです 。
   経験上 、 〇〇一辺倒でよかった例 ( ためし ) がありません 。



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難しいことを易しく Long Good-bye 2023・05・05

2023-05-05 05:05:00 | Weblog



  今日の「 お気に入り 」 。

  「 死んだらどうなるか 、自分で決める 。自分で決めて 、
   そのつもりで生きると 、『 そのように生きて、死んだ
   ひと 』になる 。これは 、大事なことである 。
   すなわち 、

   ” 自分で決めて 、そのように生きると 、その通りに
   死んだことになる ”

    自分で思うように決めて 、思うように死ねる 、という
   ことだ 。これはすごい 。 」

    ( 出典:橋爪大三郎著 「 死の講義 」ダイヤモンド社刊 所収 )




        
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宇宙の不思議  Long Good-bye 2023・05・04

2023-05-04 05:04:00 | Weblog



   今日の「 お気に入り 」も 、 橋爪大三郎著「 死の講義 - 死んだらどうなるか 、
  自分で決めなさい - 」 。昨日の続き 。

  「 仏教の本質は 、ゴータマが真理を覚ったこと 。枝葉
   は 、輪廻である 。輪廻は 、ヒンドゥー教に妥協して 、
   仏教に入り込んだもの 。ならば 、仏教の死を考える場
   合 、輪廻と切り離したほうがよい 。 」

  「 仏教の核心は 、真理を覚るところにある 。
    ゴータマは真理を覚った 。人間ならだれでも 、真理を
   覚ることができる 。仏教は 、平等なのである 。
    ではその 、真理とはなにか 。この世界の 、ありのま
   まのこと 。世界のありのままを 、自分の欲望や主観や 、
   よけいな感情を抜きにして 、みつめる 。必要なら瞑想
   して 、ありありとみつめる 。自分が人間として存在す
   るとはどういうことかを 、理解する 。ほかの人びとも
   存在するこの社会を理解する 。世界を理解する 。人間
   の生と死を 、ありのままにみつめる 。そしてわかるの
   は 、こうしたことだ 。

   『 お釈迦さまは 、この地球も 、自然も 、人間も 、
    動物も 、この宇宙のすべてが 、すばらしく 、精
    巧に美しく 、みごとにつくられていると考えまし
    た 。その神秘 ( 宇宙の不思議 ) に感動していま
    した 。あまりにすばらしく精巧にできているから
    こそ 、ちょっとしたことで壊れてしまうのです 。
    だからすべての生命は 、死んでしまうのですし 、
    すべてのものは 、いつか壊れてしまうのです 。
    でもだから 、哀しい 、けれども美しい 。宇宙が
    このようにできている 、この神秘に感動すること
    が 、仏教にいうダールマ ( 法 ) なのです 。
     あなたも 、わたしも 、人間はみな 、ほんのた
    まさか 、宇宙の不思議によって 、炭素や水素や
    遺伝子やタンパク質の組み合わせによって 、この
    世に生まれた 。奇蹟のようなできごとです 。や
    がて 、あなたもわたしも 、死を迎えて 、この世
    界からいなくなってしまうけれども 、でもそれは
    宇宙が 、このようにできているのだから 、仕方
    がない 。この世界に生まれ 、この宇宙の不思議
    の一端に触れたことを感謝しつつ 、宇宙の不思議
    に身をまかせ 、この世界にお別れしようではない
    か 。
     人間は死んだらどうなるか 。それはわからない 。
    たぶん 、ただ存在しなくなってしまうだけで 、
    何にもならないだろう 。もとのアミノ酸や炭素に
    戻って 、宇宙ととけあってしまうだろう 。それ
    でいいのだ 。
     こんなふうに考えていたのではないでしょうか 。


    これは 、10年あまり前 、仏教の生き死にについて私が
   書いた文章だ ( 橋爪大三郎『 家庭でできる法事法要 』
   2008年 、径書房 、25頁 ) 。これ以上うまく書けるとも思
   えないので 、引用した 。
    読者の皆さんがもし 、『 自分はいちおう仏教徒のはずだ
   が 、特に熱心なわけではない 、強いて言うなら 、仏教系
   無宗派かなあ 。 』みたいに思うのなら 、ざっくりこんな
   ふうに考えてみるのもよいと思うのだが 、どうだろう 。 」

   学びには始まりはありますが 、終わりはありません 。
   私生活に限って言えば 、生涯現役でいたいものです 。




    
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禅宗 Long Good-bye 2023・05・03

2023-05-03 05:03:00 | Weblog



   今日の「 お気に入り 」は 、橋爪大三郎著「 死の講義 - 死んだらどうなるか 、
  自分で決めなさい - 」 。この本を読むと 、永年 、もやもやしていたことが 、
  すっきり 、はっきり整理されること請け合いです 。
   筆者の場合 、例えば 、禅宗についての記述 。

  「 禅宗は 、中国で生まれた大乗仏教のグループである 。
    坐禅は 、ヨーガにもとづく 。ヨーガは 、インドの修
   行法で 、仏教だけでなく 、ヒンドゥー教やほかの宗教
   も行なっていた 。 」

  「 中国には 、さまざまな経典が伝わっていた 。どの経
   典にもとづくかによって さまざまな宗派ができていた 。
    これに対して禅宗は 、経典ではなく 、坐禅が基本だ
   とする 。坐禅は 、ゴータマの修行法で 、それがイン
   ドの僧 、菩提達磨によって 、中国に伝わった 。坐禅
   こそ 、覚って仏になるための必要十分条件である
。 」

  「 やがて禅宗は 、つぎのように議論を純化する 。
    坐禅は 、真理を覚り仏 ( ブッダ ) となるための修行
   ではない 。坐禅をしているとき 、修行者は仏なのであ
   る 。それならば坐禅が 、経典より重要なのは当然だ
。 」

  「 禅宗は 、歴劫成仏の考え方をとらない 。仏になろうと
   坐禅するのではない 。正しく坐禅すれば 、それが仏な
   のだ 。よって禅宗は 、輪廻を前提とせず 、輪廻を否
   定できる 。

    以上をまとめてみよう 。

    a ゴータマは坐禅し 、仏 ( ブッダ ) となった
    b ゴータマから伝わる正しい坐禅をすれば 、誰でも仏
     である
    c 坐禅すれば仏だから 、輪廻して修行を続ける必要は
     ない
    d 死ねば 、仏であってもそうでなくても 、消えて存
     在しなくなる


    禅宗は 、リアルに世界をみる 。態度はシンプルで 、
   ゴータマに忠実だとも言える
。 」



    
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選択 Long Good-bye 2023・05・02

2023-05-02 05:02:00 | Weblog



  今日の「 お気に入り 」 。また 、ひとつ いい本に 出会った
  ような気がする 。

   引用はじめ 。

  「 『 選択 』は 、不思議な出来事だ 。選択する前は 、どれ
   でもよかった 。選択した後は 、ひとつに決まっている 。
   これが 、選択する 、である 。
    誰もが 、選択しながら生きている 。
    なぜ 、それを選択するのか 。理由はあるだろう 。でも 、
   理由からストレートに選択が出てくるのなら 、それは選択
   でさえない 。ほかの選択肢があるから 、迷う 。迷ったま
   までは困るから決める 、のである 。
    つまり 、決めるけれども 、実は 、理由ははっきりしない 。
   そして 、決めることで現実が開けていく 。曲がり角を曲が
   るように 。そして新しい自分になる 。 」

  「 結婚を考えてみよう 。
    結婚する前は 、まだ結婚を決めていない 。ほかの誰かで
   もよかった 。でもこのひとに決めた 。理由ははっきり言え
   ない 。( 理由をすらすら言えるひとがいたら 、お目にか
   かりたい 。 )でも決めた 。後戻りのきかない選択である 。
   そして新しい自分になった 。
    ほかの選択も 、同じことだ 。
    さまざまな選択を重ねて 、自分は自分になり続けている 。
   学校も 、就職も 、 ・・・ 。自分が自分なのは 、確かな
   ことに思えても 、じつはあやふやな 、選択の積み重ねの
   結果だ 。 」

  「 自分を自分にしている 、選択の積み重ねは 、自分の『 運
   命 』ではないのか 。
    運命と言うのは 、自分で決めているようでいて 、実は 、
   思い通りに決めているわけではないからだ 。( ここは 、
   微妙なことを言っている 。わかります? )
    決めているのに 、決めていない 。人間のやることには 、
   こうしたことがままある 。 」

   ( 出典:橋爪大三郎著 「 死の講義 」ダイヤモンド社刊 所収 )

   人間が死んだら 、どうなるかを 、自分で決めるための本 。よりどりみどり 。
   先を 、先を 、読みたくなりますよね 。



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