この漫画を最初に読んだのはちょうどアニメが放映され始めたころ、2年前の今ぐらい。きっかけはよく訪問するブログで紹介されていたから。ただ、アニメはそのときは見なかったし、単行本も1巻を買っただけでその先は読んでいなかった。全巻読んだのはつい最近で、Fire HDでプライムビデオも見るようになったのでアニメも全部見た。
さらに言うと、アニメ化されたころに発売されたアンソロジー本も読んでみた。さらにさらに、作者が影響を受けたという弐瓶勉「BLAME!」まで読んでみた。
作者つくみずさんがインタビューに答えて、いくつかの影響をうけた文学作品、漫画などを紹介しているが、そのひとつがBLAME!、ほかに村上春樹の「ノルウェイの森」「ダンス・ダンス・ダンス」江國香織「きらきらひかる」などからメッセージ性を受け継いだのだという。作品世界から見ると「世界の終わり-」のほうが近いかな、と思ったが、メッセージ性といわれるとちょっと考え込んでしまう。でもとにかく、影響は反映しているのだろう。
BLAME!との共通点は階層状になった巨大な人工建築物の描写だ。都市が縦方向に階層状に広がっていくというのは、SFのことは詳しくないけどあちらではポピュラーな設定なのだろうか。思い出すのは1980年代半ばに刊行されていた季刊「少年少女SF漫画大全集」に、やはり階段状の世界に住む人たちの物語を読んだことがある。女性たちの家族と、下からやってきた長身の紳士が、いよいよそこで暮らせなくなったので上の層に引っ越そうとする、という話で、全体の絵柄は僕は内田善美風だったような気もするし、山岸涼子という気がしないでもないが、いずれも作品リストにないので、作者は誰だかわからない。実家に行ってもしあればまた読んでみたい気がする。。
それと大事なのは、これがディストピア、人間社会の終末を描いているということだ。かつては遠い未来の、高度に管理化され自由の著しく制限された社会を描いたもの示す言葉だったが、妙なことにというか、最近は文明崩壊が進み、社会の統制が無くなった世界を描くものがそう呼ばれている感じがする。言葉の定義はどうでもよいが、本作では名前がついて会話を交わす登場人物は6巻を通じ5人であり、最終巻でまだ生きていることが判明しているのは二人だけという設定だ。
思うにこうした文明崩壊ものも、先の超管理社会を描いた作品の延長線上にあり、崩壊した社会で謳歌する自由、だれもいない世界で、かつてはそこにいた人々に思いをはせるという描写は、息詰まるような管理のもとで生きる人々を描いたかつてのディストピア小説の陰画にあたるのではないか。
もしかしたら、じゃないのかな、我々は現実社会の変化、かつてのSF社会がしだいに現実に反映されていくにしたがって、さらにその先の世界を描くようになってきたのかなとも、ちょっと考えたりはする。。
次第に人が消えていく社会という点で「ヨコハマ買い出し紀行」(この題名と「少女終末旅行」との間に何も関連性がないとはとても思えないのだが、インタビューではあれだけ他作品からの影響を語っていたつくみずさんから、本作品への言及はない)にも通じるものを感じるが、もちろん「ヨコハマ」とは想定する世界も時代も設定に対する考え方もまったく違う。
「ヨコハマ」は近未来というか、おそらく平行世界上の現在~近未来に近い時代設定で、舞台や設定などにかなり読者に解釈する余地を与えている。その作りこみが「ヨコハマ」の魅力のひとつになっていると個人的には思うが、これに対し「少女」は、そうしたものをある程度拒否することで、論点を絞り込んでいる。
1000年未来の出来事でありながら、チトとユーリの乗り物や銃、カナザワの乗っていたバイク、カメラ、イシイの作ろうとしていたプロペラ機などは、20世紀初めから21世紀ごろという、非常に限られた期間の技術で作られている(ケッテンクラートは古い技術をもとに、設定された時代に作られたものとされている)。つまり、そういうガジェットの設定は、ある意味でどうでもいいのだ。
チトとユーリの、高度に記号化された姿もそうだ。芦名野さんも「コトノバドライブ」あたりになると登場人物の描写に力が入らなくなっているけど、ヨコハマの頃はけっこう読者サービスしていたな、と改めて思ったりもする。画力としてはつくみずさん、大したものだなと思う。
ちょっと長くなってしまったので、また次回に続きます(予定)。