うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

村上春樹「一人称単数」

2020年10月11日 | 本と雑誌
刊行されたのは8月の下旬だったかな。オフィス近くの文教堂に平積みにされていた。
こういうときは地元の書店を応援したいと思い(話題の新刊なら地元でも必ず売ってるだろう)、買い物のついでに本屋に寄る。マイナーな本だと買えない時があるからね。

そこではカバーが欲しい人はカウンター前のところから勝手に取って、自分でしてくれ、という制度になっていた。・・別に構わんが、それってエコなのか、感染症対策なのか、単なる手抜きなのかよくわからない。

たしか別の店では、本のセルフレジもありました。どこも色々大変です。

さて、この「一人称単数」というタイトルを見て、村上主義者の皆さんはピンと来られる方も多いことでしょう。以下、村上春樹、川上未映子「みみずくは黄昏に飛びたつ」(2017年新潮社)より。対談は2016年秋に行われたようです;

村上「〈前略)今回はずっと一人称、あるいは三人称で書いてみようと決めるのは、一つの縛りですね・・・(中略)縛りの中でも、人称の問題は一番大きいかな。

川上「一人称から三人称に組み替わっていった村上さんの変化は、一読者としてのわたしにとっても大きなものでした。そこであえて伺いたいのですが、三人称を獲得したことによって、失われてしまったものはありますか。

村上「四十代の半ばぐらいまでは、例えば「僕」という一人称で主人公を書いていても、年齢の乖離はほとんどなかった。でもだんだん、作者の方が五十代、六十代になってくると、小説の中の三十代の「僕」とは、微妙に離れてくるんですよね。自然な一体感が失われていくというか、やっぱりそれは避けがたいことだと思う。

(途中しばらく人称についての議論を展開して)
・・ただ僕自身は、正直言って、そのうちに一人称小説をまた書いてみよう、書きたいと思っています。そろそろ新しい一人称の可能性みたいのを試してみたいですね。

少し長い引用でしたが、今回の「一人称単数」はその新しい「一人称」への挑戦ということのようです。ん、でも、「騎士団長殺し」も一人称だったな。

これを読む前に、何十回目か忘れたけど「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいたのですが、岡田亨さんは今読んでも生き生きしているというか、なにか生活のふとしたところまで、伸び伸びと描かれている感じがあります。

個人的に戸惑うのは「1Q84」の天吾です。特異な環境のもとに生まれ育ったという面はあるけれども、どうにも感情移入が難しい。あえて言えば、あの小説に出てくる主人公たちは皆不自然というか、読者が感情移入をすることを拒否しているような不自然さが感じられます。
「色彩をもたない・・」の多崎つくる君はそこまでエキセントリックではないし、「騎士団長殺し」の私も好感の持てる男なんですが。。あくまでも個人の感想です。。

話が飛躍しましたが、今回の一連の短編集ではそういう人工的な不自然さがなく、現在の生身のの村上氏とシームレスにつながっているような感じがある。なんだかエッセイのように読めてしまうところもあるが、そこはタスキに書かれている「私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく」というやつなんでしょうね。。

どの作品が好きかというと難しいが、「石のまくらに」は短辺としてひじょうにまとまりがよい、いい作品だなあとしみじみ思いました。あとはウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatlesは不思議な魅力を感じる(要するに上手く言えないが面白かった)。謝肉祭(Carnaval)は問題作、というか、なんかあまり成功してないような感じ(やばいたたかれそう。。)。

写真並べてごまかす。

台風の直撃は避けられたけど(昨年の19号は大変でした)、雨は金曜から土曜にかけて、しっかりと降りましたね。
毎週末同じこと言ってる気もしますが、疲れていたのでだいぶ寝てました。
夢から覚めると、夢の世界のほうに戻りたくなるというか。。
合間にめし、くいました。
近所にあっていつか行こうと思ってた中華屋(といっても王将だけど)、行ってみた。
あれだねえ、今月は祝日がないんだねえ。
コメント
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