うさぎくん

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年賀状

2025年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
知人に会ったらすまなそうな顔をして、年賀状ありがとうございました、今年はさぼっちゃって・・と言われた。

言われるとちょっと困ってしまう。。出す方は筆ぐるめだかの住所録を呼び出して、無造作に印刷してるだけだ。
年賀はがきも50枚単位とか、10枚単位で買っているので、できれば買った枚数分は残さず使いきれるように、出す人を探したりしている。

古い年の年賀状は、昔なら懸賞とかラジオ番組のお便りとかに使った(やったことないけど)かもしれないが、今はそれもない。85円無駄になるだけだ(交換に出せばいいけど)。

最近は年賀状仕舞いというのある。本年を持って年賀状をお送りするのを止めさせていただきます、などと書いてくる。

かなり昔、高齢になった昔の上司がそう書いてきた。そのときはそれでもこちらからは出していたが、そのうちまた出してくれるようになった。

亡くなったことを知ったのは、年賀状の返信として頂いたご家族の寒中見舞いからだった。

最近いただく年賀状仕舞いはそれほどの年配でもない、自分と同年±のひとたちからだ。昨年は前の部下の子から、今年は二人書いてきた。

年齢とかの問題とは別に、近頃は年賀状を出さないことが一つのトレンドになっているのかもしれない。先の年賀状仕舞いというのも、流行のようになっている気がする。

読売新聞だったかで、年賀状仕舞いどう思う?と読者に問いかけた記事を読んだが、賛否がわかれるようだった。
わざわざ止めると書くことはないとか、急に来なくなると心配するので、書いてくれた方がいい、とか。

部下の子宛には今年も年賀状を出した。先方が出すのを止めたらこちらも止めるのが礼儀なのか、その辺はよくわからない。
ただ、もしかしたら、もらうと気が重く感じるのかもしれない。

今年は年賀状があまり来なかった。

高齢の親戚などは、出すのが大変という事もあるのだろう。ただ、つながりは年賀状だけ、という親族もいるので、こちらからはどうも止め難い。

冒頭にも書いたが、個人的に年賀状を出すのはさほど負担ではない。通信面の絵は毎年自分で書いているが、少し前までは水彩か色鉛筆、今はiPadで描いて、データ取込して印刷だ。
昔は宛先も裏も一枚ずつ手書きだった。

住所録は適宜更新し、喪中の先を除けばあとは印刷するだけだ。
長年お互い連絡をとらず、向こうから賀状が来ることはないのに毎年出している宛先もある。
そこにはどこかしら、自分が相手の事を考えていない、という一種の無神経さを感じないでもない。

出した方が良いのか、かえって迷惑なのか、その塩梅は微妙なものがある。

人の世は、お互いの心を推し量りながらも、どこか危ういバランスの上に成り立っているものだな、と思ったりする。
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