乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

火渡り/奈良信貴山 朝護孫子寺 ③

2006-11-04 | 神社仏閣・祭り

写真は順番

文章は①~⑨まで全て同じです。

③に説明があります。

   奈良信貴山 朝護孫子寺  

            柴燈護摩供(さいとうごまく)野外火渡り大祈願会

 

 

 11月3日、火渡りが行われた。 

 温度も高くなり過ぎないように工夫されている為に、一般の方も焚き火上を祈念しながら裸足で歩き渡ることができる。

 

 信貴山の朝護孫子寺も含めて 多くの密教寺院の大祭などで行われる『柴燈護摩(さいとうごま)』は、修験道最大の行法のひとつといってもよい。

 こんもりと覆い茂った木々の中、屋外で修される護摩。

 

 ①まず行者や修行僧たちが朝護孫子寺から行列をなして練り歩く姿に 神聖な場であるといった緊張感を憶える。

 

 ②次に山伏問答』

 この場面は内容こそ違え、カブキの『カンジンチョウ』(カブキ関係用語カタカナにて失礼します)を思い起こさせる。

 

 

  山伏問答』内容

 

他山修行僧 

 「行事に参加いたしたく候・・・」

信貴山僧侶

 「いや、よそ者は入れるわけには行かなく候・・・」

他山修行僧 

 「せっしゃ、高野山から参った修行僧にて候・・・」

信貴山僧侶

 「山伏なればその証を見せていただきたく候・・・」

他山修行僧 

 「心得て候・・・」

信貴山僧侶

 「ここの多くの行者たちが待っておるによって、それならば仕方が無し・・・」

他山修行僧

 「かたじけなく候・・・」

   (台詞あやふや、内容はざっとこんなところでした。)

 

 信貴山修行所の門を隔てての この山伏の押し問答は予想だにせず素晴らしく宗教色の効いた内容の異なる『カンジンチョウ』を目の当たりにしたようで、興奮と感動のあまりに身震いしてしまいました。

 カブキの観劇するのは単なる私事の娯楽に過ぎませんが、信貴山という山間の一角に設けられた修行に入る為の押し問答をみていると、こちらが本物なのだといった感慨深さに涙さえもにじんでまいります

 同席していた夫も同じ感覚に陥ったそうです。

 はじめてみたこの壮絶な山伏(信貴山僧侶)たちと本当の信者たち、そして一般の火渡りをすることによって五穀豊穣、無病息災、輪廻などを信じ、願っている方たちが三者一体となって祈る姿は美しいものでしたし、普段感じさせないが仏教徒の多さに日本を感じ、妙に納得してしまいました。

 

山伏問答に続き 法弓』

 ここでは四方に向かって弓を放ちます。

 四方には竹笹が立ててあり、その竹笹には文字の書いた木の札、また神社仏閣によくあるひらひらした紙がつるされています。

 おそらく四天王(多門、持国、増長、広目?)と関係してるのでしょうか?

 時計回りに天高くはなって行きます。

 

『法剣』

 これも時計回り、言葉を三度繰り返しで言い放っていきますが、言葉は忘れてしまいました。

 

⑤そして『斧』などで道場を結界して魔を払う。

 これも時計回り。調べてみると仏教では左回りというのは『天』や『男』云々の意味合いを持っているようです。

 この左周りは仏教にかかわらず他の宗教(例えばメッカを回る)でも時計回りのことが多いようです。

 

 この『斧』の意味は『道場を結界して魔を払う』意味合いだけではないように私は解釈しています。

 

 斧を掲げて時計回りに横飛びに三回

『ちょうちょうちょう』

と大きな声で司法をまわっていきます。

 この『ちょうちょうちょう』という言葉はカブキ(三度くり返し)では何度も、つい最近では能楽の『小鍛冶』(二度くり返し、三パターン台詞)で聞いておりました。

『小鍛冶』では『ちょうちょうちょう』という言葉はは剣を打つときにの言葉。

 おそらく③④⑤は真ん中にこかれて民真には見えているこれから火をつけようとする櫓はないもので、このときの一連の行動で木に拝み、少し土をくぼませ、枝をこぎ、木を切り倒して櫓を組んだといった設定のように理解しています。

 このような解釈はどこにも載っていなかったために間違いかもしれませんが、ご勘弁ください。

 

⑥神仏をお招き(勧請)して

「般若~は~ら~み~た~♪」

と指を組んで祈り、

山伏のほら貝の音色が

『ぅおぉおぉ~~♪ぶぅおぉおぉ~~♪』

と、いくつも高く響き渡る。

 

⑦水=お神酒(?)を撒いてから、櫓に火をつける。

 櫓に組まれた木々は高校と燃え盛る。

 炎と煙は高く、あの世或いは来世につながるかのごとく空に一直線に上りあがったのでした。

 

⑧信貴山僧侶は煮えたぎった窯の湯を笹の葉で自分に何度も何度もかける。

⑨そしていよいよ『火渡りの儀式』

 まず僧侶に続いて行者、一般信仰者といった順で歩いていきます。

 『火渡りの儀式』は無病息災という意味にとどまることなく、それはまるで『現世』から『他の世界そして輪廻』につながる試練の道或いは天高く立ち込めている煙のごとく、『天=極楽』につながる道でもあるかのように感じました。

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火渡り/奈良信貴山 朝護孫子寺②

2006-11-04 | 神社仏閣・祭り

写真は順番

文章は①~⑨まで全て同じです。

②に説明があります。

   奈良信貴山 朝護孫子寺  

            柴燈護摩供(さいとうごまく)野外火渡り大祈願会

 

 

 11月3日、火渡りが行われた。 

 温度も高くなり過ぎないように工夫されている為に、一般の方も焚き火上を祈念しながら裸足で歩き渡ることができる。

 

 信貴山の朝護孫子寺も含めて 多くの密教寺院の大祭などで行われる『柴燈護摩(さいとうごま)』は、修験道最大の行法のひとつといってもよい。

 こんもりと覆い茂った木々の中、屋外で修される護摩。

 

 ①まず行者や修行僧たちが朝護孫子寺から行列をなして練り歩く姿に 神聖な場であるといった緊張感を憶える。

 

 次に山伏問答

 この場面は内容こそ違え、カブキの『カンジンチョウ』(カブキ関係用語カタカナにて失礼します)を思い起こさせる。

 

 

  山伏問答』内容

 

他山修行僧 

 「行事に参加いたしたく候・・・」

信貴山僧侶

 「いや、よそ者は入れるわけには行かなく候・・・」

他山修行僧 

 「せっしゃ、高野山から参った修行僧にて候・・・」

信貴山僧侶

 「山伏なればその証を見せていただきたく候・・・」

他山修行僧 

 「心得て候・・・」

信貴山僧侶

 「ここの多くの行者たちが待っておるによって、それならば仕方が無し・・・」

他山修行僧

 「かたじけなく候・・・」

   (台詞あやふや、内容はざっとこんなところでした。)

 

 信貴山修行所の門を隔てての この山伏の押し問答は予想だにせず素晴らしく宗教色の効いた内容の異なる『カンジンチョウ』を目の当たりにしたようで、興奮と感動のあまりに身震いしてしまいました。

 カブキの観劇するのは単なる私事の娯楽に過ぎませんが、信貴山という山間の一角に設けられた修行に入る為の押し問答をみていると、こちらが本物なのだといった感慨深さに涙さえもにじんでまいります

 同席していた夫も同じ感覚に陥ったそうです。

 はじめてみたこの壮絶な山伏(信貴山僧侶)たちと本当の信者たち、そして一般の火渡りをすることによって五穀豊穣、無病息災、輪廻などを信じ、願っている方たちが三者一体となって祈る姿は美しいものでしたし、普段感じさせないが仏教徒の多さに日本を感じ、妙に納得してしまいました。

 

山伏問答に続き 法弓』

 ここでは四方に向かって弓を放ちます。

 四方には竹笹が立ててあり、その竹笹には文字の書いた木の札、また神社仏閣によくあるひらひらした紙がつるされています。

 おそらく四天王(多門、持国、増長、広目?)と関係してるのでしょうか?

 時計回りに天高くはなって行きます。

 

『法剣』

 これも時計回り、言葉を三度繰り返しで言い放っていきますが、言葉は忘れてしまいました。

 

⑤そして『斧』などで道場を結界して魔を払う。

 これも時計回り。調べてみると仏教では左回りというのは『天』や『男』云々の意味合いを持っているようです。

 この左周りは仏教にかかわらず他の宗教(例えばメッカを回る)でも時計回りのことが多いようです。

 

 この『斧』の意味は『道場を結界して魔を払う』意味合いだけではないように私は解釈しています。

 

 斧を掲げて時計回りに横飛びに三回

『ちょうちょうちょう』

と大きな声で司法をまわっていきます。

 この『ちょうちょうちょう』という言葉はカブキ(三度くり返し)では何度も、つい最近では能楽の『小鍛冶』(二度くり返し、三パターン台詞)で聞いておりました。

『小鍛冶』では『ちょうちょうちょう』という言葉はは剣を打つときにの言葉。

 おそらく③④⑤は真ん中にこかれて民真には見えているこれから火をつけようとする櫓はないもので、このときの一連の行動で木に拝み、少し土をくぼませ、枝をこぎ、木を切り倒して櫓を組んだといった設定のように理解しています。

 このような解釈はどこにも載っていなかったために間違いかもしれませんが、ご勘弁ください。

 

⑥神仏をお招き(勧請)して

「般若~は~ら~み~た~♪」

と指を組んで祈り、

山伏のほら貝の音色が

『ぅおぉおぉ~~♪ぶぅおぉおぉ~~♪』

と、いくつも高く響き渡る。

 

⑦水=お神酒(?)を撒いてから、櫓に火をつける。

 櫓に組まれた木々は高校と燃え盛る。

 炎と煙は高く、あの世或いは来世につながるかのごとく空に一直線に上りあがったのでした。

 

⑧信貴山僧侶は煮えたぎった窯の湯を笹の葉で自分に何度も何度もかける。

⑨そしていよいよ『火渡りの儀式』

 まず僧侶に続いて行者、一般信仰者といった順で歩いていきます。

 『火渡りの儀式』は無病息災という意味にとどまることなく、それはまるで『現世』から『他の世界そして輪廻』につながる試練の道或いは天高く立ち込めている煙のごとく、『天=極楽』につながる道でもあるかのように感じました。

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火渡り/奈良信貴山 朝護孫子寺①

2006-11-04 | 神社仏閣・祭り

写真は順番①

文章は①~⑨まで全て同じです。

①に説明があります。

   奈良信貴山 朝護孫子寺  

            柴燈護摩供(さいとうごまく)野外火渡り大祈願会

 

 

 11月3日、火渡りが行われた。 

 温度も高くなり過ぎないように工夫されている為に、一般の方も焚き火上を祈念しながら裸足で歩き渡ることができる。

 

 信貴山の朝護孫子寺も含めて 多くの密教寺院の大祭などで行われる『柴燈護摩(さいとうごま)』は、修験道最大の行法のひとつといってもよい。

 こんもりと覆い茂った木々の中、屋外で修される護摩。

 

 まず行者や修行僧たちが朝護孫子寺から行列をなして練り歩く姿に 神聖な場であるといった緊張感を憶える。

 

 ②次に山伏問答

 この場面は内容こそ違え、カブキの『カンジンチョウ』(カブキ関係用語カタカナにて失礼します)を思い起こさせる。

 

 

  山伏問答』内容

 

他山修行僧 

 「行事に参加いたしたく候・・・」

信貴山僧侶

 「いや、よそ者は入れるわけには行かなく候・・・」

他山修行僧 

 「せっしゃ、高野山から参った修行僧にて候・・・」

信貴山僧侶

 「山伏なればその証を見せていただきたく候・・・」

他山修行僧 

 「心得て候・・・」

信貴山僧侶

 「ここの多くの行者たちが待っておるによって、それならば仕方が無し・・・」

他山修行僧

 「かたじけなく候・・・」

   (台詞あやふや、内容はざっとこんなところでした。)

 

 信貴山修行所の門を隔てての この山伏の押し問答は予想だにせず素晴らしく宗教色の効いた内容の異なる『カンジンチョウ』を目の当たりにしたようで、興奮と感動のあまりに身震いしてしまいました。

 カブキの観劇するのは単なる私事の娯楽に過ぎませんが、信貴山という山間の一角に設けられた修行に入る為の押し問答をみていると、こちらが本物なのだといった感慨深さに涙さえもにじんでまいります

 同席していた夫も同じ感覚に陥ったそうです。

 はじめてみたこの壮絶な山伏(信貴山僧侶)たちと本当の信者たち、そして一般の火渡りをすることによって五穀豊穣、無病息災、輪廻などを信じ、願っている方たちが三者一体となって祈る姿は美しいものでしたし、普段感じさせないが仏教徒の多さに日本を感じ、妙に納得してしまいました。

 

山伏問答に続き 法弓』

 ここでは四方に向かって弓を放ちます。

 四方には竹笹が立ててあり、その竹笹には文字の書いた木の札、また神社仏閣によくあるひらひらした紙がつるされています。

 おそらく四天王(多門、持国、増長、広目?)と関係してるのでしょうか?

 時計回りに天高くはなって行きます。

 

『法剣』

 これも時計回り、言葉を三度繰り返しで言い放っていきますが、言葉は忘れてしまいました。

 

⑤そして『斧』などで道場を結界して魔を払う。

 これも時計回り。調べてみると仏教では左回りというのは『天』や『男』云々の意味合いを持っているようです。

 この左周りは仏教にかかわらず他の宗教(例えばメッカを回る)でも時計回りのことが多いようです。

 

 この『斧』の意味は『道場を結界して魔を払う』意味合いだけではないように私は解釈しています。

 

 斧を掲げて時計回りに横飛びに三回

『ちょうちょうちょう』

と大きな声で司法をまわっていきます。

 この『ちょうちょうちょう』という言葉はカブキ(三度くり返し)では何度も、つい最近では能楽の『小鍛冶』(二度くり返し、三パターン台詞)で聞いておりました。

『小鍛冶』では『ちょうちょうちょう』という言葉はは剣を打つときにの言葉。

 おそらく③④⑤は真ん中にこかれて民真には見えているこれから火をつけようとする櫓はないもので、このときの一連の行動で木に拝み、少し土をくぼませ、枝をこぎ、木を切り倒して櫓を組んだといった設定のように理解しています。

 このような解釈はどこにも載っていなかったために間違いかもしれませんが、ご勘弁ください。

 

⑥神仏をお招き(勧請)して

「般若~は~ら~み~た~♪」

と指を組んで祈り、

山伏のほら貝の音色が

『ぅおぉおぉ~~♪ぶぅおぉおぉ~~♪』

と、いくつも高く響き渡る。

 

⑦水=お神酒(?)を撒いてから、櫓に火をつける。

 櫓に組まれた木々は高校と燃え盛る。

 炎と煙は高く、あの世或いは来世につながるかのごとく空に一直線に上りあがったのでした。

 

⑧信貴山僧侶は煮えたぎった窯の湯を笹の葉で自分に何度も何度もかける。

⑨そしていよいよ『火渡りの儀式』

 まず僧侶に続いて行者、一般信仰者といった順で歩いていきます。

 『火渡りの儀式』は無病息災という意味にとどまることなく、それはまるで『現世』から『他の世界そして輪廻』につながる試練の道或いは天高く立ち込めている煙のごとく、『天=極楽』につながる道でもあるかのように感じました。

 

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グリム童話のふるさと/とんぼの本

2006-11-03 | 読書全般(古典など以外の一般書)

 記録のみ

      グリム童話のふるさと

                        とんぼの本

 

         著者   小澤 俊夫

             石川 春江

             南川 三治郎

 

      1986年 5月25日 発行

      1996年 5月25日 10刷

      株式会社 新潮社

      1500円+税  119ページ

 

 初めの95ページはグリム童話のふるさとの美しい写真や詳しい内容で楽しめる。

 

 

 96ページからは『画家 ルートヴィヒ・E・グリムの作品』で貴重な資料や挿絵本(版画やリトグラフ、鉛筆画、水彩画などが目を楽しませてくれる。

 

 

 私が何度も楽しんだページは 石川春江さんが担当された104ページからの『妖精がはじめて日本に来たころーー明治期のグリム童話の翻訳

 絵も文章もことのほか面白く、何度も読み返してしまうのだがあいにくたいへん貴重な本で、この本でも元本のみならず複製本のコピーが載せられている。

 とても詠みたい本がいくつもたったのですが、国会図書館に頼んでもらってスライドを譲り受け パソコンでみるという方法を考えると、一主婦にとっては金額もかさばり過ぎるのであきらめるほかはなさそうです。

 

 せめてもの楽しみにこの本の104ページから119ぺージの興味深い部分をコピーしておきました。

 ささやかなシアワセに満足・・・・・・

 

 

 

 

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タイガーと呼ばれた子/トリー・へイデン

2006-11-03 | 読書全般(古典など以外の一般書)

記録のみ

 愛に飢えたある少女の物語

        タイガーと呼ばれた子

 

         著者  トリー・へイデン

         入江 真佐子 訳

         1996年九月30日 初版発行

         1996年10月23日 4版発行

         株式会社 早川書房

          1900円+税  393ページ

 

 トリー・へイデン三冊目。

『シーラという子』という6歳の女の子と接した半年間の手記の10年後。

 読者からの要望と支持が強く、 トリー・へイデンが書き上げたとのこと。

 

 締めくくられた最後の手紙の一部、

『・・・・・・

お母さんについに私のことを知ってもらえなくて、すごく残念です。

                                     ・・・・・』

の衝撃的な言葉を選んで書いた彼女(シーラ)の気持ちを思うとショックではあるが、客観的立場から考えると理解できる用に感じる。

 

 

 トリー・へイデンの上出の『シーラという子』の記録と本の表紙 ↓

http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori/e/0b19a544987b28e52328cb5561d96ab7

 トリー・へイデンの『幽霊のような子』の記録と本の表紙 ↓

http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori/e/5953d022ad918560743fe5b5a136a625

 

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蝉しぐれ/ソメゴロウ・緒方拳

2006-11-02 | 映画

写真は先月ショウチク座『つたもようちぞめのごしゅいん』の舞台写真売り場。

ソメゴロウさんのお写真もよく売れていたようです。

 

今日はあらすじ無しで感想のみ(ちょっと長め)です

 

 

  蝉しぐれ

 

 満足度 ★★★★☆

 感動度 ★★★☆☆

 

 

 構図(A)★★★★★

    ぴったりと計算されつくした面白み。

 

 構図(B)★★★☆☆

    構図の遊びは少なめ……

    切り絵を観ているようで平面的

 

    

 色彩  ★★★★☆

    美しいが反面遊びは少なめ

 

 

 映像美(A)★★★★☆

    懐かしさを憶える風景は昔話のようで安心感がある

 

 映像美(B)★★★☆☆

    ①焦点以外の映像のぼかし方が単純

    ②遠方の景色をバックとしてとらえすぎていて、

       各場面がぼかしてあるのは意図としてはわかるが、非常に惜しい。

 

 効果音 ★★★★☆

     川のせせらぎや能の鼓の音が効果的に使われていた

 

 脇役キャスト★★★★★+おまけ★★★

     特に

      緒方拳

      三谷昇

      大滝秀治

      榎本明

      原田美枝子

      の演じ方は絶妙でした

      

 

   2005年   日本   131分

 

   原作    藤沢周平

   監督    黒土三男 

 

 

  キャスト  イチカワソメゴロウ

         木村佳乃

         石田卓也

         佐津川愛美

         緒方拳

         三谷昇

          榎本明

         大滝秀治

         原田美枝子  他

 

 

 コウシロウさんのご子息ということで、何かしら気になるソメゴロウさん。

 今回もがんばっておられました。

 

 

 この映画も先月ショウチク座で観た『つたもようちぞめのごしゅいん』 と同様で出だしから比べるとだんだんかっこよくなるソメゴロウさん・・・

 目と口が引き締まり最後にはカッコイイ。

 

 戦う場面でもキシリと額に黒い紐(?)を縛りつけ、形はカブキ。

 まるで『カンジンチョウ』の弁慶があらすじ変え 戦ってるといった具合に見えないでもない。

 

 コウシロウさんの面影が感じられて満足でした。

 

 

 『阿修羅城の瞳』ソメゴロウさんの感想です  ↓

 http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori/e/5ec07b26593b4b4c34a24a6a9c735903

 

 

 

 この映画は脇役の役者さんがしっかりした方で固められていて、安心してみていられる。

 特に上に名前を連ねた役者さんたちはなにがしら心に残る演じ方をなさっていました。

 

 

 私の大好きな緒方拳さんはとにかくうまい。

 後姿の演技がうまい。

 朴訥としたしゃべり方が心引かれる。

 ナスを取った後の朝食の食べ方もうまい。

 裃を新調してもらえなかったすね方も魅力あふれて ひょうひょうとした彼らしい演技が好きだ。

 大雨で洪水のなか交渉する姿は寒そう……わざと口を小さく、もごもごと話すところがうまい

 大雨の中息子を助けたさるっげない笑みが魅力的でうまい。

 お世継ぎ問題で罪をかぶせられ、不本意な切腹が決まる。その前に息子と対面し廊下を去り行く後ろ姿がうまい

 

 さすがに私の大好きな緒方拳さん!

 彼の演技をみただけでも満足・・・

 

  『ミラーを吹く男』 緒方拳さんの感想です ↓

 http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori/e/5746246ef1c1a0ee61cda8cd3973b0da

 

 

 三谷昇さんは船頭役。

 台詞も出番も少なかったが黒澤の『どですかでん』を思わせる白熱の演技。

 といってもこの方も力を要れずに自然体で演じておられる。

 彼も作品を上等にする一役をかっておられた。

 

 

 

 榎本明さんもよかった。

 この人も演技が な~んか好き!

 ただこの作品は彼のうまさを充分には引き出せてはいなかったのが残念でした。

 

 

 

 全体を通して楽しめる作品。

 映像や音楽、話の展開も満足のいくものです。

 

 ただ最後の手紙が届いてから再開した場面は特に説明的で、くどい感じはした。

 昨日見た中国映画の『わが家の犬は世界一』の結末の潔さまでは期待しないが、もう少し省ける部分があったように思う。

 

 

 

 構図はこと細やかに場面ごとに計算され、その決まりすぎた遊びのなさが時としてくどく感じる場合も合ったが、全体を通して上質で安心してみていられる。

 色彩は統一感を無し、上品で安心感を与える。

 だがやはり遊びの部分に欠け、どことなくきりえや昔話風になってしまうのが惜しい。

 一丁一端、賛否両論といった構図のとり方。

 

 

 

 この映画の中で興味を引かれた映像は二点。

 ひとつは海岸沿いの荒々しい伝統的祭りの様子。

 もうひとつはソメゴロウさんが剣術の心(「目で見るのではなく、心でみるんだ・・・・)」を教えてもらった時のこと。

 相手は急に能面をかぶり、頭に簡易薄衣をまとい、『杜若』(能楽)を舞いだす。

 静寂の中 鼓の音と「からごろも~~~」の響きが心に響く。

 舞い扇一本で相手の心を読み取る大切さを教えた場面は、日本的で素晴らしい。

 

 

 家族とともに楽しむことのできる映画のひとつでした。

 ああ、面白かった……

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わが家の犬は世界一/ワン・チョンチュン 監督

2006-11-01 | 映画

【①写真はとてもおいしい緑豆饅頭ですが 写真の倍の量(12個入り)で120円くらいです。

 ②飼い主の責任問題とはいえ、犬の登録料(7万円)が一般労働者にとって如何に高いかが伺えます。

 ③登録料の高さや毛沢東の広場、またベランダに飾られた毛沢東の像からも、日本では計り知れない主義や理想が今も根強く残っていることを感じます。】

 

 

 

    わが家の犬は世界一

   満足度   ★★★☆☆

   感動度   ★★★☆☆

   光の使い方★★★★★

   多くのイラン映画との類似点 ★★★★★

 

   2002年  中国  100分

 

   ワン・チョンチュン 監督 

 

 キャスト  グォ・ヨウ

        ディン・ジャーリー

        リー・ビン

        リー・チンチン

        シア・ユイ

        リー・ミン

        犬のカーラー

 

 昨今の北京でのペットブームのさなか、犬にかまれるという事件が発生。

 公演には犬のウンチがありこちに残されたまま・・・だが日本人からすれば考えにくいことではあるが、中国は富裕層と貧困な弱者との差が大きく二分される。

 日本人の中流感覚で、モラルとばかりも言ってはおられない。

 狂犬病も心配されるが、中国の現状として日本円で7万円(5000元)もの登録料を支払える人間ばかりではないだろう。

 

 犬はかわいい、物理的なる金はなし。

「カーラーだけは俺を人扱いしてくれる・・・」

という台詞は重く心にのしかかる。

 ここのところを中年男のラオ(グォ・ヨウ)は 背中を丸め方を落とし、髪の毛は無造作で絶えず口を半開きにして うつろいだ眼差しで見事に演じきる。

 うまい!

 

 

 愛犬を通しての心の格闘や巻き起こるドラマや事件を18時間の時の流れの中で記録映画のように描き進めている。

 窓から随時差し込んでくる光の量は、時間の流れとともに変化させる心憎さ。

 

 18時間後、そして霊の四時を5分過ぎたとき、買い物中の妻はカーラーの乗ったトラックを真のあたりにして、口を開けて呆然と立ち尽くす。

 

 そしてすぐにナレーション!!

 

 その晩犬のカーラーは無事に我が家に戻り、息子も次の日に保釈された。

 

 

 

 こんな簡単な結末でいいのか???

 ナレーションとその晩犬のカーラーは無事の間に接続詞や言葉がないのだ。

 あっけなく結末。

 童話や昔話だって『そして・・・・・だとさ。どんとはらい』

とか何とかあるじゃないといいながらも、このあっけらかんとした一部のイラン映画のような潔さに 結構はまりそうな私でした。

 

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至福のとき/チャン・イーモウ監督

2006-11-01 | 映画

 

  至福のとき

  満足度 ★★★★☆

  感動度 ★★★★★

  前半   ★★★☆☆

  後半   ★★★★★

  

  2002年  中国  97分

 

  監督  チャン・イーモウ

   キャスト  チャオ・ベンジャン

         ドン・ジエ

 

 前半と後半で話の内容やキャストの表情がころりと変わり、面白い

 

 

 前半は人間の本質や強欲、中国の実態をコミカルに描く。

 

 

 そして半ばからは中年労働者チャオや仲間の労働者の懇親的なまでの盲目の少女ウー・インに対する思いやりにじわりじわりと涙。

 結末で涙は大筋となって流れ出す。

 

 終始一貫して盲目の少女ウー・インはみんなの愛情を心から喜び、しばらくの間は甘んじるが、真実を知っていつことはお首にも表さない。

 

 彼女のまわりの空気だけは現実を受け止めた冷ややかさで、刻一刻と追われるように時を刻む。

 

 

 

 中年労働者チャオがトラックにひかれ危篤状態。

 しかし泥酔しながらも彼は彼女のために彼女の父に成り代わって心の温まる手紙をしたためていた。

 

 

 一方彼女はこれ以上チャオや周りのみんなに迷惑はかけられないと思い、自立の決心。

 大切なテープレコーダーに自分の思いを吹き込んで、泣き泣くチャオのアパートを出る。

 

 

 チャオが危篤状態の中、仲間はテープに吹き込まれた彼女のメッセージに向かって、チャオの変わりにチャオの制作した手紙を読み上げる。

 このテープの声と仲間の声がカブキの掛け合いのようでタイミングが良いのですが、それだけではなくなんともいえないくらいに心が揺れ動かされる。

 私はこのシーンが好きでやはりチャン・イーモウ監督の作品なのだと痛感させられる。

 

 

 ただ驚いたのはチャン・イーモウ監督にしては他の女優群に比べ、 女優のドン・ジエにあまり愛情を感じていなかったように感じるのは私だけでしょうか・・・。

 

 しかし役柄云々から考えると、女としては描いてはこの作品の後に続くべき出来事とつじつまが合わなくなってしまう。

 彼女を下着姿にして二度ばかり描き出したが、まだ青い硬い果実といった被写体を客観的に冷静に描くい外になかったのでしょう。

 

 家族や親族から冷たく扱われ、皆に捨てられた盲目の少女がきっかけはともあれ途中からは労働者みんなでシアワセに騙されていた・・・まさしく『至福のとき』だったのである。

 

 少女期から大人の女性に成長する転換期を考えると、盲目の少女が今後待ち受ける過酷な運命は想像を絶するくらいにつらいものでしょう・・・

 

 チャン・イーモウ監督は彼女を大人になる前の子どもとして扱うことにろり、この作品は出来上がったように思われます。

 

 

 

 最後になりましたが、 チャオ・ベンジャンという役者さんの優しく深みのある演じ方は気持ちの良いものでした。

 

  『最後の恋、初めての恋』(中国・日本)ドンジェ出演の感想です  ↓

http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori/e/2a257ecab99c9a189f9a9da0a767ac39

      至福の時 ↓

http://www.foxjapan.com/movies/happytimes/story/index.html 

 

 

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