「介護録」とユルユル日記

介護終了、ブログタイトルかえました。

ご挨拶

2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。

介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。

今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。

タティング

タティングは↓こちらに 写真をアップしていくことにしました。
お暇が出来たらのぞいてやって下さい。
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しつこく、警察3

2005-12-06 | ●介護録(~2015.2月)
交番のお巡りさんがやって来て
「今日中に見つからなかったら明日改めて家出人として届けて欲しい」と言われ
今夜のうちに見つからない場合もあるんだーと思い、
「血液型はなんですか」と聞かれ、事故に巻き込まれた場合に備えてるんだなーと思った。

母を待つ三時間半の間、私の頭の中であらぬ妄想。
「もしもという場合……私の介護生活が終わるんだ。年賀状、買っちゃったけどどうしようかな。」
「楽になれる…でも、こんな死に方だと、すぐ追いかけなかったことを一生後悔するんだ。それもイヤだな」なんてね。

母が保護され、最後に交番の警官は「○○子(私)さんも大変でしようけど、我々も出来るだけのことはしますから」と言ってくれた。涙が出るほど嬉しかった。
三人の警官が来ていたんたけど、上官らしい方がこういう方だったので、他のお二人も良い感じ。上に立つ人の人格って大事だね~。

それに比べて最初に電話した警察署の警官は…思い出すと腹がたつ。
こっちは動揺しているわけで、そんなときに「えっ、家族がいたのに見逃したの」という言い方。その前に「家族はいたの?」という問に「いました」と答えた後の短い沈黙……これが全てを物語っていた。感じちやったもんねーこの人の思ってる事。それに最初からタメグチってのはどうよ?
チョイ泣きモードの私は
「認知症についてご存じないと思いますけど、言って聞いてくれるわけじゃないし、止めて止まるわけでもないんです。私にこれ以上どうしろっていうんですか」っていってしまいました。
何で一緒にいて見逃したんだーって詰められたら、ハイそうです私が悪いんです
といえば警官は納得するんだろうか。

交番の警官も同じように母が出て行ったときの様子を細かく聞いたけど、その聞き方、ニュアンスがぜんぜん違う。
で、この警官は、直接母の捜索とはあまり関係がないと思われる認知症の症状についてもくわしく聞いていった。こんな警官は初めて。
きっと、今後のためにだろう。私のあの程度の話しでも役に立つならいいな。

警察2…一夜明けて

2005-12-06 | ●介護録(~2015.2月)
なんだか体が重いわ~一応ちゃんと寝たんだけどな~。

昨日母か出て行く時の理由は「町内の人から呼ばれたけど何時にどこに行くのかわからない。教えてくれないから聞いてこなければ」というようなこと。その前からいろいろ思いこみ話はしていたので、いつものことだと生返事。
出て行った時にすぐ追わなかった理由は
「遠出するつもりなら持っていくバックを持たずに出たこと」
「理由が近所関係の場合、大抵はチラッと出てすぐの戻る。特に暗い場合」
ということがあったから。
でも、これからはこういう油断はしてはいけないということデスね。

保護された母はいたって元気です。私より元気です。
約三時間半歩いていた?ということになるのだけど、果たして、上着も着ないで歩き続けられるか、謎。
保護された場所は家からさほど遠くはなかった。

いつもそうなのだげと、こういう場合に母は、「迷子になって不安」とか「疲れ果てて弱っている」とか「逆に警官を拒否する」とか「さらに不穏がひどくなる」などということが一切ない。
丁寧にお礼をし、とてもヨイ人。こんな母を見ると「娘の言うことも聞かずに制止もきかずに出て行くのだろうか」と思うかもしれないな。
それくらい、穏やか。

本人に保護された意識はなく、かといって、ここに警官がいることをフシギに思うでもない。

そして、警官が帰った後で母が言った。
「駐在さんも大変ね」………もう、笑うしかない。