がじゅまるの樹の下で。

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解明!?大北墓の右三つ巴の謎

2017年12月01日 | ・琉球史散策/第二尚氏

 

久々に家紋ネタを書くことにします。

琉球で家紋と言えば、
尚王家の家紋「左三つ巴」
(俗に、左御紋(ひじゃいぐむん))

 

現代版組踊でも首里を現す文様としてお馴染みですね。

 

三つ巴には、

  

 

があり、

それぞれしっぽの流れる向きで
左か右かが判断できます。

詳しくは過去記事→ 

 

さて、その三つ巴について、

私がずーーーーーっと気になっていたことが
ついに解明…か!!??

 

 

問題の現場こちら。

今帰仁村運天港のすぐ近くになる
「大北墓(うふにしばか)」

第二尚家の一族であり、
代々今帰仁看守を務めた
家の墓として知られています。

 

その墓前には立派な石碑があります。

 

 

碑文には尚真様第三之御子云々と書かれています。

詳しくは過去記事→ 

 

で、この石碑の上に三つ巴が彫られているのですが…

 

 

なんと、これが

左三つ巴ではなく
右三つ巴なのです!!!

 

 

え!?なぜ!!???

 

尚家は左三つ巴だけど
派生した向家は右三つ巴なのか?

 

という疑問に関しては…

 

一応、右三つ巴、ありました。
参/「沖縄家紋集」(那覇出版社)

 

 

向家も圧倒的に左三つ巴が多いではあるけど、
右三つ巴も全くないというわけでもない。

 

では、
大北墓の今帰仁看守、
今帰仁王子朝典を祖とする
向氏具志川御殿(具志川家)の家紋が
右三つ巴なのかと調べてみると…

 

「丸に左三つ巴」なのです。

 

 

右じゃない!!

 

やっぱりこれは石工さんの間違い!?

でも王族の墓でこんな間違いってアリ!?

 

と、

依然として腑に落ちない部分がありました。

(石碑は大正期に改築されてるらしいですが、
それでも元のものと同じように作るはずだし
元のものを無視して間違えたとしたらそれこそアリエナイ)

 

 

月日が流れ、ある日の事。

 

別件で沖縄大百科事典で調べ物をしていると…

ふと目に留まった「巴紋」の項目に
こうありました。

 

 

【巴紋】

尚王家の家紋。
俗に〈左御紋〉と称されているが、
玉陵上面の瓦当に記された巴紋を見ると
三つ巴の左巻きと右巻きが
ほぼ半々になっている。

それは王家の紋は
左右どちらでもよい
ことを示すものと思われる。

 

 

……え、マジで!?

 

い、いや、個人的には
瓦の巴紋と家紋としての巴紋が
果たして一緒とみなしていいのか
という疑問はもっているのですが(→

でも、左右の差別化・固定化したのは
近世後半になってからで
それ以前の時代の巴紋は
左右の向きなど気にしていなかった
…というのはいかにもウチナーンチュっぽくて
確かにあり得そう…!

 

 

同じく沖縄大百科事典の
【家紋・紋章】の項目を見てみると

 


起源は尚家など一部の名門を除けば
諸行事などが定着する
尚穆末年から尚灝初年(18世紀末から19世紀初頭)
にかけてのことだろうと言われる。

1762年の「大島筆記」には
家紋が一般的でなかったこと、
道具紋であったことが記されている。

 

 

大北墓の建造はいつだっけ…!?

……1761年!!

琉球で家紋が意識され始める前だ…!!

 

 

なるほど…

 

琉球で家紋文化が広まっていくことで
細かいところまで差別化・固定化が
必要となってくるのは当然ですね。

その時に「王家の三つ巴」が「左オンリー」と
強く意識していったというのは確かに想像がつきます。

向きを意識した「左御紋」という俗称が
いつの文献から使われているのかを調べてみたら
また見えてくるのがあるかもしれないけど。
さすがにそこまではワタシでは調べつくせないので
(でも「球陽(1745)」では巴紋という言い方止まりっぽい?)

 

 

ということで
私なりの仮説。

 

大北墓の右三つ巴は、
間違いというわけではなく、
その当時、
左右の区別は特に意識してなかったから

 

としておこうと思います。

 

18世紀前期までの史料で
右三つ巴になっている例がもっとあれば
確信持てるんだけどね。

 

うーむ。

 

 

 

*オマケ*

 

四つ巴なんてのもある。


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