時間が出来たらやろうと思っていた、
『ワーニャ伯父さん』の
神西清訳版とケラリーノ・サンドロヴィッチ上演台本版の読み比べ、
ようやくやることが出来た。
といっても、
二冊の本を並べて読むのは思いのほか大変で、
一幕のみ。
後半はかなり走り読み。
神西版を読んでから舞台を観たので、
神西版とKERA版がかなり違うことはわかっていたけど、
こんなに違うとは思わなかった。
もちろん、内容は同じだけど、
2017年の観客が観ても違和感のないように、
すべてセリフが書き換えられている。
他にも
長いセリフの一部がカットされている。
長いセリフの間に話相手の相槌を入れ、会話にしている。
感情の補足をするための言葉が付け加えられている・・・などなど。
それにしても、
同じ意味合いでもセリフの組み立て方で印象って変わるもんだなあ。
たとえば、
*神西版
マリーナ「たとえ人間は忘れても、神さまは覚えてくださいますよ」
*KERA版
マリーナ「人は思い出してくれないかもしれません……」
アーストロフ「……」
マリーナ「ですけどその代わり、神様が思い出してくれます」
あるいは、
*神西版
ワーニャ「ところが今じゃ、働くのはソーニャだけで、僕は寝る、食う、
飲む。……さっぱりいかん」
*KERA版
ワーニャ「それが今じゃソーニャだけが働いて、僕は飲んで食べて寝て……
で起きたら?飲んで食べて寝る……で起きたら?飲んで食べて、
寝る。で起きたら?飲んで(いきなり切り上げて)いいのかこん
なことをしてて……!」
ここまでわかりやすく「笑い」を狙った書き換えは一幕ではここだけだった
気がする。ワーニャの登場直後だから、「つかみ」なんだろう。
そういえば、1つの前の比較引用に出てくる。
アーストロフ「……」
というようなセリフ(?)もKERA版には頻繁に出てくる。
これを書き加えることの意図はなんだろう。
役者はやりやすいようにも思えるが…どうなんだろうか。
ト書きも書き直されているが、一番気になったのは冒頭の設定部分。
*神西版
午後二時すぎ。曇り日
*KERA版
曇った日の、午後三時頃。
なぜ「二時過ぎ」を「三時頃」に?
二幕を読み比べするのはお正月だなあ。
※追記
上演台本が掲載されている『悲劇喜劇』に、
ケラリーノ・サンドロヴィッチさんの『チェーホフ作品を演出すること』
というエッセイが載っているのを見落としていた。
上記の疑問が解ける内容だった。
しまった。
書き直そうかとも思ったが、
上記は読み比べ終えた時の初期衝動的な感想なので、
そのままにしておきますね。