白雲山普明院小松寺は、真言宗智山派の寺院、本尊は大日如来の古刹ですが、何より平清盛の長男、重盛の墓があることで知られています。
1180年(治承4年)平貞能が重盛の遺骨を持って、重盛夫人得律禅尼とその妹を伴い高野山にて出家後、北陸、上野を回り、平氏一族、大掾義幹の領土であるこの地の白雲山に葬り天台宗の寺院を建立し、自ら出家して以典と号したと伝わっています。その後1387年(嘉慶元年)大掾頼幹が宥尊を招いて中興し真言宗の寺となりました。
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当時源氏に負けた平家一門は、各地に逃げ延びて山中深く入り源氏方の追求を逃れた落人の伝説が全国に残っていますが、そんな中で無事にこの小松の地に平家の武将が落ち着けたのは、源頼朝から吉田資幹がこの地区の領主、常陸大掾に任ぜられた経緯、それと源氏の有力ご家人である宇都宮氏が頼朝にとりなしたという話が残っています。
なお、あじさい祭りで有名な谷中の桂岸寺は、天和2年(1682)に小松寺の末寺、普門寺を中山備前守信治が小松寺住職宥密を説いて水戸藩家老中山信正の供養のため、譲り受け現在の谷中の地に建立したという記述があります。
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長い参道を経て、本堂前の唐門は、800年前の建立との説明板があります。(以下、説明板から)
この唐門(両唐破風中爵門)は、京都小松谷に平重盛邸の勅使門を模造した建築物で、常陸大掾義幹が建久2年(1192年)に寄進したと伝える(寺伝)特徴としては本柱が円柱、控柱が角柱で、柱の下に礎盤がある。柱の上部には精巧な籠彫が施されており、扉は桟唐戸である。建築様式上からは「向う唐門」という。
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本堂横を潜ると白雲山の山腹に急な石段が4か所続きます。手前の方に散在する墓石は無縫塔と言われる卵型の石塔だから歴代住職の墓でしょうか、薄暗い杉林の中で何百年もの歴史を感じさせる重々しい雰囲気の佇まいです。
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三番目の石段を登ると、木戸で閉められた最後の石段がありその上が重盛の墓です。苔むした小さな宝篋印塔が見えます。逸話では父清盛の横暴をも戒めたという冷静で勇猛な武将、1185年の平家滅亡より6年前に42歳で病没しましたが、もし生きていたら源氏の世にはならなかったとよく言われています。約800年以上前のお話です。合掌。
須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇 芭蕉
石塔は平家の武将青葉闇 顎髭仙人
1180年(治承4年)平貞能が重盛の遺骨を持って、重盛夫人得律禅尼とその妹を伴い高野山にて出家後、北陸、上野を回り、平氏一族、大掾義幹の領土であるこの地の白雲山に葬り天台宗の寺院を建立し、自ら出家して以典と号したと伝わっています。その後1387年(嘉慶元年)大掾頼幹が宥尊を招いて中興し真言宗の寺となりました。
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当時源氏に負けた平家一門は、各地に逃げ延びて山中深く入り源氏方の追求を逃れた落人の伝説が全国に残っていますが、そんな中で無事にこの小松の地に平家の武将が落ち着けたのは、源頼朝から吉田資幹がこの地区の領主、常陸大掾に任ぜられた経緯、それと源氏の有力ご家人である宇都宮氏が頼朝にとりなしたという話が残っています。
なお、あじさい祭りで有名な谷中の桂岸寺は、天和2年(1682)に小松寺の末寺、普門寺を中山備前守信治が小松寺住職宥密を説いて水戸藩家老中山信正の供養のため、譲り受け現在の谷中の地に建立したという記述があります。
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長い参道を経て、本堂前の唐門は、800年前の建立との説明板があります。(以下、説明板から)
この唐門(両唐破風中爵門)は、京都小松谷に平重盛邸の勅使門を模造した建築物で、常陸大掾義幹が建久2年(1192年)に寄進したと伝える(寺伝)特徴としては本柱が円柱、控柱が角柱で、柱の下に礎盤がある。柱の上部には精巧な籠彫が施されており、扉は桟唐戸である。建築様式上からは「向う唐門」という。
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本堂横を潜ると白雲山の山腹に急な石段が4か所続きます。手前の方に散在する墓石は無縫塔と言われる卵型の石塔だから歴代住職の墓でしょうか、薄暗い杉林の中で何百年もの歴史を感じさせる重々しい雰囲気の佇まいです。
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三番目の石段を登ると、木戸で閉められた最後の石段がありその上が重盛の墓です。苔むした小さな宝篋印塔が見えます。逸話では父清盛の横暴をも戒めたという冷静で勇猛な武将、1185年の平家滅亡より6年前に42歳で病没しましたが、もし生きていたら源氏の世にはならなかったとよく言われています。約800年以上前のお話です。合掌。
須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇 芭蕉
石塔は平家の武将青葉闇 顎髭仙人