顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

子生の弁天様…厳島神社

2019年06月21日 | 歴史散歩

文永2年(1265)に市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神とし、安芸の厳島神社より分霊を迎えたと古老の口伝に伝わる厳島神社は鉾田市(旧旭村)の子生(こなじ)にあります。

当時この一帯は平国香を祖とする常陸平氏の支配地だったので平清盛の崇敬した神社を分祀した経緯はそのへんにあるのかもしれません。さらに、平安時代の承暦2年(1078)にはこの地に弁財天が祀られていたという記述の資料もあるそうです。安芸宮島の厳島神社も市杵島姫命と弁財天が一つに習合されたように、やがてこの弁財天信仰と厳島神社信仰の二つが一緒になって近隣の崇敬をあつめるようになったといわれます。

鬱蒼とした森のなかの窪地の池は多分湧水池でしょうか、涸沼に流れ込む大谷川の水源地と出ていましたが、国土地理院の地形図では確認できませんでした。

大きさは全然違いますが水に浮かんだ様子が世界遺産の安芸の宮島の本宮を彷彿とさせる雰囲気です。

寛文12年(1672)、本殿などが焼失したため、神社の由来などの詳細な記録は残っていません。棟札によると本殿は元禄10年(1697)に再建、延享4年(1747)に改築がなされたとされます。
亨保2年(1717)領守岩田廣道奉る神鏡の刻文に「安産をこの神に祈らばすなわち安泰なり故に子生村と言う」と世々相伝で伝えられてきたそうです。江戸時代のこの地区は旗本領なので領主の旗本も崇敬して守護していたのかもしれません。

茨城県指定文化財ですが、管理は地元の氏子さん達のようなので、維持管理が大変らしく震災で倒れた拝殿前の灯籠はそのままになっていました。

裏参道脇の地層の見える切通にはたくましい根が露わに見えます。関東ローム層の中の筋状10センチ位の白い地層は火山噴火などの天変地異の跡でしょうか。

表参道は51号国道から入るようになっていますが、谷底のような窪地には急階段でおります。いつも地図上でこんなところに厳島神社が?と思っていましたが、詳しいことはよくわかりませんでした。