顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

水戸黄門のお供、「助さん」のこと

2021年09月25日 | 水戸の観光

おなじみ「水戸黄門漫遊記」は、水戸藩2代藩主徳川光圀公の晩年を描いた講談本のフィクションですが、お供の助さん格さんはモデルとなった人物がいます。光圀公が編纂を始めた「大日本史」に携わり、どちらも編纂局の彰考館総裁を務めた佐々宗淳(さっさむねきよ=通称/介(すけ)三郎)と安積澹泊(あさかたんぱく=通称/覚(かく)兵衛)の二人です。
彰考館に詰めていた安積覚兵衛に対して、佐々介三郎は史料を集めに各地をめぐり、これが漫遊記の土台になったともいわれています が、史実の光圀公は、世子時代に鎌倉を訪ねた以外は、江戸と国元との往復や領地巡察の記録しか残っていないようです。
(写真はTBS放送のものをお借りしました。黄門/西村晃 助さん/里見浩太朗 格さん/伊吹吾郎)

(JR水戸駅前に建つ黄門一行の像です。水戸出身で元芸術院会員の小森邦夫氏の作品です)

佐々介三郎は、戦国武将佐々成政の流れを引き、寛永17年(1640)瀬戸内海の小さな島に生まれて15歳の時、臨済宗妙心寺の禅僧となり、祖淳と号して修行を積みますが、延宝元年(1673)34歳のとき還俗、江戸に出て水戸藩に仕官し進物番兼史館編修となりました。介三郎の和歌「立ちよれば花の木かげも仮の宿に心とむなと吹くあらしかな」を光圀公が気に入って、召抱えたという逸話が残っています。

(水戸城二の丸跡に建つ彰考館跡の碑です)

光圀公は明暦3年(1657)駒込の水戸藩中屋敷に初めて史局を設け、寛文12年(1672)には小石川の本邸内に移して彰考館と命名しました。当時光圀公の招きに応じて全国から集まった学者が、多いときは60名を超えたといわれています。元禄11年(1698)隠居した光圀公が常陸太田の西山荘で修史の監修にあたるため、彰考館の主体は水戸城内に移され、江館と水館(江戸と水戸)の2館に分かれて編纂が進められることになりました。

(写真は元禄5年に発掘調査を行った下侍塚古墳です)

介三郎は大日本史編さんのため,畿内をはじめ北陸,中国,九州をめぐり貴重な史料を収集したほか、光圀公の命により貞享4年(1687)~元禄5年(1692)にかけて栃木県の那須国造碑の調査や保存、侍塚古墳の発掘調査も行っています。調査後に現状のまま埋め戻したことから、そこは「日本考古学発祥の地」と、また保存された那須国造り碑は「日本3古碑」といわれています。
この話は拙ブログ「日本三古碑…那須国造碑と考古学発祥の地2019.5.30」で紹介させていただきました。

(光圀公の隠居所、常陸太田の西山荘入口です)

西山荘は藩主の座を退いた光圀公が,元禄4年(1691)から元禄13年(1700)に没するまでの晩年を過ごした隠居所で、ここで光圀公は大日本史編纂の監修に当たりました。
介三郎は彰考館勤務のほかに小納戸役となり300石を給されていましたが、元禄9年(1696)彰考館を辞して西山荘に隠居した光圀公のお傍近くに仕えました。
紀州から取り寄せたという熊野杉が入口を覆っています。

(西山荘入口手前の御前田の一部です)

隠居した光圀公は御前田で家臣と共にコメ作りに汗を流しました。領民のひとりとして太田奉行所に13俵の年貢米を納めたといわれます。

(不老沢跡)

この一帯は不老沢(おいぬさわ)と呼び、西山荘の光圀公に仕えた家臣の屋敷跡ですが、今は用水池になっています。大森典膳(西山での家老職)、佐々介三郎(小姓頭)、剣持與兵衛(御納戸役)、鈴木宗與(御医者)、朝比奈半治(小納戸役)の名が案内板に書かれています。



不老沢の一番奥、長い木道を渡った先の高台が介三郎の住居跡です。元禄11年(1698)、59歳で没するまでここで過ごしました。

葬られたのは近くの正宗(しょうじゅう)寺で、自分が修行した妙心寺と同じ臨済宗のお寺です。佐竹氏の菩提寺として知られています。

墓石には「十竹居士佐佐君之墓」と号名が刻まれています。

墓碑は格さんのモデル、安積覚兵衛による碑文…、友人として「善ク酒ヲ飲ミ 家貧シクモ晏如タリ」と親しげに書かれています。

墓地の隅にオミナエシ(女郎花)が咲いていました。秋の七草で知られる小さな小花の集合体…、野山でも最近めっきり見かけなくなりました。