大きく東に蛇行した久慈川が造り出したシャモジ(杓文字)型の台地に築かれた頃藤(ころふじ)城(小川城)は、国道118号とJR水郡線が城域を突き抜き、中心部も道路や住宅、畑になって遺構らしきものはほとんど残っていません。
年代は不明ですが、最初は山田右近大夫道定という武将が居城したと伝わります。城跡の詳細な縄張りを推測するのは困難ですが、城址とされる平坦な一角に山田氏の子孫の方が建てた城址碑があります。
その後、建治年間(1275~78)に佐竹氏7代義胤の4男が、この小川の地に配され小川大和守義継を名乗って築城し、家老の神長氏、清水氏が城代を務めました。佐竹氏の内乱「山入の乱」の混乱の際には、白河結城氏に奪われるも佐竹氏が奪回し小川氏が城主に復帰しますが、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封に小川氏も随従し廃城となりました。
左手が城址碑の建つ一角です。台地のようになっていますが、道路などで改変されているかもしれません。
西側には明らかに分かる深い堀跡がありました。
城址碑のある所から100mくらい西側の物置のような建物の奥に小さな石の祠が建っています。
実は、ここが佐竹氏による「南方三十三館の仕置き」で嶋崎城主の嶋崎氏親子が殺された地ということが、今回訪ねた理由です。
天正18年(1890)に小田原征伐の後に秀吉より常陸国の領土を安堵された佐竹義宣は、常陸大掾一族などの鹿島、行方地方の領主たちを常陸太田城に呼び寄せて謀殺したといわれます。その詳細は、和光院(水戸市)過去帳に、「天正十九季辛卯二月九日 於佐竹太田生害衆、鹿島殿父子、カミ、嶋崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、手賀殿兄弟、3武田殿已上十六人」と書かれた2行が大元になる資料として知られています。
(和光院は康安元年(1361)開基の真言宗智山派の古刹です)
ただ嶋崎氏親子については、六地蔵寺(水戸市)の過去帳に、嶋崎安定は「上ノ小河ニテ横死」、長子徳一丸は「上ノ小川ニテ生害」という記述があり、またそれぞれの土地に残る伝承などから、三十三館の一部の領主は佐竹氏がその家臣に預けて殺させたという説が有力になってきました。
(六地蔵寺は光圀公ゆかりの真言宗の古刹で、所蔵する典籍1975冊・文書479通は県指定文化財です)
それらによると、頃藤城主小川大和守義定は嶋崎安定(義幹)、徳一丸親子を預かって居城に戻り、家臣の清水信濃守に討つように命じ、信濃守は親子を家に招き鉄砲にて討ったとされています。
嶋崎安定の妻は、小川大和守の娘なので、主君の命令とはいえ自分の婿と孫を殺させたということになります。その祟りを恐れて、討ち取った清水信濃守の屋敷に小祠を建て供養したと伝わっています。
(清水信濃守の屋敷跡付近の写真です)
なお小祠には、末裔の方が平成29年10月に建てた慰霊碑があり、「嶋崎城主安定公・長子徳一丸終焉の地」、建立者として「次子吉晴裔孫」、その方々の名前が刻まれています。
嶋崎安定の次子、吉晴は嶋崎城落城の際、幼少のため家臣佐藤豊後守に守られて逃れ、後に多賀郡に土着し、その地区に多く残る島崎氏の祖となったそうです。
城跡に咲いていた可憐な花、調べてみるとサクラタデ(桜蓼)? 頼りなさそうな姿がこの哀れな話に似合い過ぎていました。
なお、嶋崎氏の嶋崎城については、拙ブログ「嶋崎城(潮来市)…戦国期城郭の遺構がしっかり残っています!2019/12/25」「島崎城ふたたび…発掘された石塔の謎 2021.10.10」で紹介させていただきました。