顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

松川藩陣屋跡(大洗町成田町)

2016年12月16日 | 歴史散歩
水戸藩の御連枝(支藩)として元禄13年(1700年)に守山藩2万石が成立、水戸藩同様定府制で参勤交代はなく、代々松平大学頭を名乗る藩主以下江戸大塚吹上の藩邸に住み、守山(郡山市)と松川の陣屋に郡奉行ほか数名の藩士が詰めていました。明治3年7代藩主松平頼之(徳川斉昭の22男))の時、藩庁を江戸藩邸からここ松川陣屋に移し松川藩と改称、藩籍奉還後一時松川県庁になりましたが、明治4年(1871)失火により陣屋は全焼し、藩士の多くは県外に去り、また一部土着した藩士もいたようです。

一帯はいま農地になっていますが、Google map上に当時の松川藩の配置図(夏海年代考(江原忠昭著)大洗アーカイブ掲載より)を重ねてみました。

藩政では水戸藩の監督を受ける立場にあり、天狗党の乱では加わった藩士がいて処罰されたり、新政府軍に早々と降伏するなど、小藩の悲哀の歴史は、いま農地の中に埋没しているようです。
(水戸の回天神社殉難志士名簿には、元治甲子事変殉難者として松川支藩林庸政義など7名の名前が記載されています)

戦いのない時代の陣屋でも、涸沼に舌状に突き出した比高20mくらいの台地の先端に位置して要害の構えが感じられます。前方に涸沼が見えます。

陣屋の一画にある豊姫稲荷神社は、この地に守山藩の松川陣屋を置いた時に、守護神として鎮座させました。たまたま開いていたので中が撮れました。

近所の方の話では、畑の中に大きな礎石があるということですが、車を停めた空き地にタイヤが埋まってJAFを呼ぶ始末になり確認できませんでした。狭い道なので車での進入はおすすめできません。

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