関東七名城の一つで、平安末期からこの地を支配した宇都宮氏22代約530年の居城、江戸時代には宇都宮藩として24代約267年の居城…と長い歴史を持ちますが、戊辰戦争で焼失し、また戦後の都市開発でほとんどの遺構は消滅してしまいました。
平成18年(2007)本丸の堀、土塁が外観復元され、櫓、土塀などが木造で復元されました。
築城したのは平安時代、藤原宗円(藤原秀郷とも?)と言われています。宗円は前九年の役に源頼義・源義家に従い奥州遠征に赴き、その功により宇都宮大明神(二荒山神社)座主の地位と一帯の支配権を与えられ、鎌倉、室町、安土桃山時代まで530年におよぶ宇都宮氏の始祖となり、宇都宮城は北関東支配の拠点となりました。
戦国時代末期には、小田原征伐に続く宇都宮仕置の舞台にもなり、宇都宮氏は秀吉から所領を安堵されましたが、慶長2年(1597)に突然改易となり、蒲生秀行が会津より18万石で入ります。
その後慶長6年(1601)に関ヶ原の戦いで功を認められた奥平家昌が10万石で入封、江戸時代になって藩主は小刻みに変わりますが、家康の懐刀と言われた本多正純の時代に、宇都宮城と城下の整備が行われ、徳川将軍の日光東照宮参拝の際の宿泊施設として城内に本丸御殿が建てられました。有名な「宇都宮釣り天井」の伝説がここから生まれました。
宇都宮城は1Km四方の規模をもち、8つの櫓、石垣で守られた門、高い土塁、大きな堀をもつ広大な城でしたが、復元されているのは本丸の一部、赤い線の部分です。
宇都宮城址公園にある現在の宇都宮城は、本丸の西側の一部で赤い線の中だけです。東側は都市防災公園を兼ねた芝生広場になっています。
門などの主要部分以外は石垣もない平城のため、水堀と高さ10mの高さをもつ土塁が防御の要でした。しかし、外観復元された土塁は、外観と規模は江戸時代のものにしたものの、その上に建築物を建てるため、法令上コンクリートで造るしかなかったようです。
土塁の真ん中に「おほり橋」が通り貫通しており、両脇に宇都宮城の歴史資料展示の「宇都宮城ものしり館」と、観光案内の「まちあるき情報館」があります。
江戸時代は天守閣の役目をしたといわれる清明台櫓です。二つの櫓は木造本瓦葺き、白漆喰総塗籠で仕上げられています。
南側の土塁に建つ富士見櫓、空気の澄んだ江戸時代、名前の通り富士山がくっきり見えたことでしょう。2階に上がることができないのは、史実に忠実に復元したため、階段が急で踏み面が小さく、建築基準法を満たしていないからだそうです。
外観復元とは鉄筋鉄骨コンクリートなどで造られ、文献、絵図、古写真を元に外観のみを復元したものなので歴史的価値はあまりなく賛否両論がありますが、歴史を感じる観光スポットの役は十分果たしていると思います。
さらに今後は本丸御成御殿、清水門、伊賀門を外観復元する計画もあるそうです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます