明治、大正、昭和と日本画壇で活躍した横山大観は、明治元年(1868)9月18日に水戸藩士酒井捨彦の長男として、水戸城下の下市、武家屋敷が並ぶ三ノ町に生まれました。幼名を秀蔵、のちに秀松、21歳のとき母方の水戸藩士横山家を継ぎ、名を秀麿と改めます。
出生のエピソードとして伝わるのは、幕末の水戸藩内抗争では父捨彦が諸生派に属していたため、幕府崩壊後に形勢逆転した天狗派の仕返しの勢力が押しかけ、母が逃げ込んだ裏庭の竹藪で産気づき大観を出産したという話が残っていますが、真偽のほどは不明です。
しかし2週間後の10月1日には、会津落城により水戸城に戻ってきた諸生派約500人と城を守る藩士との弘道館戦争が勃発し、双方で約200人もの藩士が命を落としています。
代々地図学者であった家系の父捨松は、その後茨城県庁を経て内務省勧農局に勤めたため、一家は東京に引っ越します。
大観は東京美術学校に第一期生として入学、岡倉天心に師事しやがて同校の助教授になり、大観という雅号を決め、師から褒められたといわれます。
校長岡倉天心の排斥運動に殉じて東京美術学校を辞職した大観は、日本美術院の創立に参画し、茨城県の五浦海岸に師岡倉天心や仲間の下村観山、菱田春草、木村武山らが家族と共に移り住んで制作に励み、近代美術史の輝かしい1ページを残した話が知られています。
生誕の地に建つ銅像は、若い大観でしょうか、彫刻は平戸司郎の作です。
やはり見慣れているのは晩年の顔…、生誕の地の案内板にある大観の肖像画は、弟子の堅山南風の筆です。
茨城県近代美術館などが建つ一画にある横山大観頌碑にも、見慣れた横顔がはめ込まれていました。レリーフ製作は小森邦夫です。
五浦には、2013年に公開された映画「天心」の撮影に使われた日本美術研究所のロケセットが崖の上に残っており、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らが制作に励んでいる様子が展示されています。横山大観役は中村獅童、岡倉天心役は竹中直人でした。
五浦の岡倉天心旧宅の庭に、大観が理事長を務めた天心偉績顕彰会が建てた石碑の「アジアは一つなり(亜細亜ハ一な里)」の文字は大観の揮毫です。
ところで大観といえば、輪郭線を極端に抑え、色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した「朦朧体」という技法で知られています。その一部を味わえる大作「生々流転」(重要文化財、東京国立近代美術館蔵)は40.7mに及ぶ画巻で、山間の雲から落ちた一滴の雫が渓流から大河となり、海へ流れ込み、やがて竜巻になって天に昇る様子が描かれています。
この作品は、文化庁の文化遺産オンラインで観賞することができます。
また大変な酒好きとして知られる大観は、米の飯をほとんど口にせず、1日に2升3合の酒と少量の肴だけで済ませていう逸話が残っています。特に広島の「醉心」の蔵元と意気投合し、一生の飲み分が毎年無償で送られ、お返しに大観は毎年一枚の絵を無償で送り続け、蔵元では「大観記念館」を創設しています。
また地元茨城の森嶋酒造(日立市川尻町)の4代目とも親しかった大観が、自らの名にちなんで命名し文字も揮毫した清酒「大観」は、仙人の愛飲銘柄のひとつです。
大観の2升3合は過大表現かもしれませんが、晩年に本人の弁解として1升の酒を朝昼晩と3回に分けて飲んでいると言っていたとか、それでも90歳まで生きたという丈夫な肝臓にあやかりたいものです。
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