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淡い新緑に山桜の白が点在するこの時期の山里の風景に誘われて、茨城県境の山間部にある小さな中世城址を訪ねました。
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水戸から奥州棚倉を結ぶ古代の官道、棚倉街道は、戦国時代には佐竹氏が南奥羽進出の軍事道として、江戸時代には棚倉藩の参勤交代で利用された常陸国の主要街道の一つです。その路線を継承した国道349号線沿いの常陸太田市小中にある小里城は、里川と薄葉川が合流する標高250mの微高地にある平城です。
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この城の歴史についての詳細な情報は残っていないようですが、古来より磐城国との国境に位置したため、領土をめぐるいろんな勢力の攻防の歴史があったと思われます。
南北朝時代には、南朝側の北畠顕家が北朝側の佐竹氏とこの地で合戦したという小里合戦が伝わっています。その後、佐竹一族の小田野氏が領していましたが、佐竹一族の内乱時には白河の結城氏に一時支配されたともいわれます。戦国期には磐城の岩城氏が支配し、家臣の白土右馬之介が居館としたと伝わりますが、永禄年間(1558~1570)には南郷(福島県南部)への進出を図った佐竹氏がこの地を支配したようです。
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この城の特徴として県内でも珍しい石積みが数か所で見られることです。特に主郭西側にある石垣は長さ40mほどありますが、積まれた石も河原の石のような小さいもので、土留め用に積まれたという説が多いようです。
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正面の土塁で囲まれた四方60mくらいの方形の一画が主郭とされます。その周囲にも郭は配置されていたと思われますが、農地化による改変で現在ある段差が当時のものかどうかは不明です。
城域と思われる約120m四方の東側以外は、里川と薄葉川による浸食谷が天然の堀の役目を果たしています。
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西側の切岸は里川に張り出した高さ6mくらいの急斜面、蕗の葉で覆われていました。
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南側の切岸、里川の支流薄葉川が造り出した河岸段丘上にあります。
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北側も堀跡らしい窪みが急斜面に落ち込んでいます。
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陸続きの東側の防御とまたは詰城の役目でしょうか、突き出た尾根の先端に「盾の台館」、そのやや南方に「羽黒山館」があり(上記航空写真参照)、遺構が残っているそうですが、羽黒山館跡にある羽黒神社の急石段に慄き、あえなく撤退してしまいました。 ※詰城:戦の時に最後の拠点となる山城
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城跡の真ん中、主郭入り口付近に建つ案内板です。これ以外の標識などは全く見当たらず、この城跡の存在は知られないままです。
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茨城北部の中世の城館は、佐竹氏一族やその家臣の居城が多く、茨城城郭研究会発行の「佐竹氏関連城館」に記載されているだけでも119館もあります。そのほとんどが藪の中に埋もれた山城で、その歴史を明らかにする文献などもあまり残っていませんが、その分勝手に妄想の世界で遊ぶことができます。この城も、多分数十人程度の勢力での攻防ではなかったのか?などなど…
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コロナもひと段落の春、久しぶりにも萌出る景色を堪能できました。
新緑の中黄に近き緑あり 山口誓子
新緑やうつくしかりしひとの老 日野草城
新緑の山たたなはる国古く 山口青邨
※たたなはる(畳なはる)=寄り合って重なる
小里は、妻の故郷です。
実家が航空写真に写っている程です。
読みは、「おざと」だと言っています。
変わったのでしょうか?
大変失礼いたしました。城郭を紹介しているウェブ情報を
見て確認しないまま「こざと」で載せてしまいました。畑に出
てらっしゃる地元の方がいるときには挨拶かたがたお話を
伺うのですが、この日は人影も見当たりませんでした。
コメントありがとうございました。今後ともよろしくお願いいた
します。