顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

予科練平和記念館と雄翔園  (阿見町)

2018年07月23日 | 日記
阿見町には大正時代に霞ヶ浦海軍航空隊が開かれ、昭和14年には飛行予科練習部(予科練)が横須賀から移転してきて、終戦までの間、全国の予科練教育訓練の中心的な役割を果たしました。

この地に当時の貴重な予科練の歴史や記録を保存展示するとともに、次の世代へ正確に伝承し命の尊さや平和の大切さを考えるために予科練平和記念館が建てられました。

昭和5年に教育を開始した予科練は、14歳半から17歳までの少年を全国から選抜し、終戦までの15年間に約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地に赴きました。特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の1万9千人にのぼりました。(手前は人間魚雷回天の実物模型です)

館内は7つボタンに因み、7つの空間で入隊から特攻までのストーリーを展開しています。館内撮影はできませんが、今の中学2年生から高校生ぐらいまでの少年が夢と希望を持って入隊したその無邪気な笑顔の写真、希望と不安の中で訓練に明け暮れた手紙や手記につい孫の顔が重なってしまします。

少年たちが実戦で飛び立つ時のあこがれのゼロ戦、零式艦上戦闘機二一型の実物大模型が展示されています。全長9.05m、全幅12m、最高時速 288ノット(533Km)、航続距離 1200海里(2222Km)とありました。

隣接した雄翔園は、予科練の戦没者約1万9千人の霊璽簿を収めた予科練の碑(予科練二人像)を正面に配した庭園です。

「若鷲の歌」の碑です。「予科練の歌」とも言われ、作詞西条八十、作曲古関裕而の二人が土浦航空隊に一日入隊して作られ、霧島昇などの歌で昭和18年に発売された「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨、今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃでっかい希望の雲が湧く」と短調ながら単純明快で暗さのない曲は大ヒットしました。

園内の雄翔館は、予科練戦没者の遺書、遺品約1500点を収蔵、展示しています。予科練出身者、遺族などで構成される公益財団法人海原会が管理しています。

特別攻撃隊で出撃する20歳前後の若者の別れの手紙や手記に心がうたれます。静かに立ちすくむ人や、思わず涙ぐむ姿も見られ、記念館よりは生々しく印象も強烈で、平和への思いがさらに強くなります。ぜひ国のリーダーを自負する人たちには見てもらいたいものです。

白雲は天上の花敗戦日  上田五千石
終戦日一機の雲のなほも伸び  鷹羽狩行


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