あのころ・・・・、そうです昭和48年の秋口でした。
第一次中東戦争が勃発して第一次オイルショックが始まりました。
当時私は25歳。
車好きの父親が道楽で作った、ド田舎で1店舗だけ運営する零細な「サブ店」の後継者でした。
学生運動で挫折して、田舎に帰り自らラリーチームを編成して熱中していた頃です。
田舎に帰って、つまらなくて、彼女とも判れて、何もすることがなくて、ゴルフとラリーに熱中していたものです。
キャロッセの故加勢裕二、現在WRCでも活躍している大島君などを輩出した『チームやまびこ』を作ったのは私です。
当時、石油ビジネスに青雲の志を持ちつつあった私は販売店会などでは何も知らずに、
元売による「業転流通」批判や系列特約店の販売店対策などについても大胆な発言をおこない、
元売担当者や特約店社長に噛みついて煙たがられていたものです。
現在では独立系COCの旗手であるS君とは、年も同じで父親同士が知り合いでしたから、
当時の販売店会では一緒に強烈な系列批判をしていました。
販売店の事を「サブ」と言われたことに腹を立て、
「誰がサブだ!、俺たちがメインなんだ!!」、「生意気言うな、サラリーマン!」罵声を浴びせて
元売の担当者をぶん殴ってしまい問題にもなったこともありました。
ちょうどその頃、その特約店が倒産しました。
その結果、私は元売所有の800坪の敷地を有する給油所の土地から全ての施設を現金で買い取りました。
その他に直営2か所持ち、サブ店まで委託されて私の石油ビジネス本格スタートしたわけです。
今になって考えれば、
私に注目していた某元売りの役員さんから「生意気な若手」に白羽の矢が立ったというわけでしょう。
チョット、自慢話になりますが、とにかく、販売力は抜群でした。
当時「100㌔SS」と云えばたいしたものでした。
洗車会員を増やし、1店舗で100万円を達成し、洗車機会社が見学者を連れてきたり、
タイヤを1か月750本も販売したり。業界で注目されたものです。
とくに、田舎ですから灯油の外販実績が凄かった。それが今日の「雪ん子」に生きています。
うるさい若手に仕事をさせてみよう」と云う事だったのでしょう。
当時、丸善石油の社員であったアニキ分の福田康夫さんの啓蒙もありました。
そして、零細なサブ店から、一転してサブ店を持つ特約店の社長へ・・
タイミング悪くその年の年末にかけて突然勃発した中東戦争、そしてオイルショックへ・・・
25歳の私にとっては直営店舗(全て自己所有)と傘下の販売店管理は大変な試練でした。
それでも、たった2社だけのサブ店の社長さんの温かい協力を頂いて
「みんなで、頑張ろう」とスタートを切っていた矢先のオイルショックでした。
ところが、突然のオイルショックで
気楽に遊びながら、SS運営していた「ドラ息子」が「玉繰り」に四苦八苦。
とても、ラリーやゴルフどころではありませんでしたね。
ラリーチームのスタッフまでSS店頭で手伝ってくれました。
その後、経営が行き詰ったサブ店の社長も自分の会社で引き取り定年まで仕事をしていただきました。
現在では、石油システムを通じて全国の石油業界の皆様と触れ合っていますが、
今でも、自分は生粋の石油業界人だと自負しています。
特約店と販売店、混乱の時期には「系列」。特に人と人との「心の絆」が問われます。
今の若い方には、判らないかもしれません。
古いと仰るかもしれませんが、ある意味、石油ビジネスは「義理と人情」の世界です。
それでも、最先端の石油流通ソリューションを開発している人間です。
今回のエジプト、リビアの紛争がどのように推移するか気になりますね。
最近では、現場で「あの頃」の事を経験した方も少なくなりました。
それでも、昨日は東北地方で私の武勇伝を知っている方との面談でした。
ここ数日「オイルショック」などと云う言葉がチラホラしています。
少しだけ、私の経験した事を書いてみましょう。
第一次中東戦争が勃発して第一次オイルショックが始まりました。
当時私は25歳。
車好きの父親が道楽で作った、ド田舎で1店舗だけ運営する零細な「サブ店」の後継者でした。
学生運動で挫折して、田舎に帰り自らラリーチームを編成して熱中していた頃です。
田舎に帰って、つまらなくて、彼女とも判れて、何もすることがなくて、ゴルフとラリーに熱中していたものです。
キャロッセの故加勢裕二、現在WRCでも活躍している大島君などを輩出した『チームやまびこ』を作ったのは私です。
当時、石油ビジネスに青雲の志を持ちつつあった私は販売店会などでは何も知らずに、
元売による「業転流通」批判や系列特約店の販売店対策などについても大胆な発言をおこない、
元売担当者や特約店社長に噛みついて煙たがられていたものです。
現在では独立系COCの旗手であるS君とは、年も同じで父親同士が知り合いでしたから、
当時の販売店会では一緒に強烈な系列批判をしていました。
販売店の事を「サブ」と言われたことに腹を立て、
「誰がサブだ!、俺たちがメインなんだ!!」、「生意気言うな、サラリーマン!」罵声を浴びせて
元売の担当者をぶん殴ってしまい問題にもなったこともありました。
ちょうどその頃、その特約店が倒産しました。
その結果、私は元売所有の800坪の敷地を有する給油所の土地から全ての施設を現金で買い取りました。
その他に直営2か所持ち、サブ店まで委託されて私の石油ビジネス本格スタートしたわけです。
今になって考えれば、
私に注目していた某元売りの役員さんから「生意気な若手」に白羽の矢が立ったというわけでしょう。
チョット、自慢話になりますが、とにかく、販売力は抜群でした。
当時「100㌔SS」と云えばたいしたものでした。
洗車会員を増やし、1店舗で100万円を達成し、洗車機会社が見学者を連れてきたり、
タイヤを1か月750本も販売したり。業界で注目されたものです。
とくに、田舎ですから灯油の外販実績が凄かった。それが今日の「雪ん子」に生きています。
うるさい若手に仕事をさせてみよう」と云う事だったのでしょう。
当時、丸善石油の社員であったアニキ分の福田康夫さんの啓蒙もありました。
そして、零細なサブ店から、一転してサブ店を持つ特約店の社長へ・・
タイミング悪くその年の年末にかけて突然勃発した中東戦争、そしてオイルショックへ・・・
25歳の私にとっては直営店舗(全て自己所有)と傘下の販売店管理は大変な試練でした。
それでも、たった2社だけのサブ店の社長さんの温かい協力を頂いて
「みんなで、頑張ろう」とスタートを切っていた矢先のオイルショックでした。
ところが、突然のオイルショックで
気楽に遊びながら、SS運営していた「ドラ息子」が「玉繰り」に四苦八苦。
とても、ラリーやゴルフどころではありませんでしたね。
ラリーチームのスタッフまでSS店頭で手伝ってくれました。
その後、経営が行き詰ったサブ店の社長も自分の会社で引き取り定年まで仕事をしていただきました。
現在では、石油システムを通じて全国の石油業界の皆様と触れ合っていますが、
今でも、自分は生粋の石油業界人だと自負しています。
特約店と販売店、混乱の時期には「系列」。特に人と人との「心の絆」が問われます。
今の若い方には、判らないかもしれません。
古いと仰るかもしれませんが、ある意味、石油ビジネスは「義理と人情」の世界です。
それでも、最先端の石油流通ソリューションを開発している人間です。
今回のエジプト、リビアの紛争がどのように推移するか気になりますね。
最近では、現場で「あの頃」の事を経験した方も少なくなりました。
それでも、昨日は東北地方で私の武勇伝を知っている方との面談でした。
ここ数日「オイルショック」などと云う言葉がチラホラしています。
少しだけ、私の経験した事を書いてみましょう。