住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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国東半島と観世音寺1

2008年06月03日 09時32分38秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月24、25日に、朝日新聞愛読者企画「備後國分寺住職とゆく・日本の古寺巡りシリーズ番外編その2」で、国東半島の冨貴寺と熊野磨崖仏、そして太宰府の観世音寺に参詣する。国東半島は以前から一度は参詣したい霊場であった。参詣するに際して、さっそく国東半島の信仰の特徴から調べを進めていこう。

九州大分県の北東に位置する国東半島は、直径30キロほどの円形で、周防灘と伊予灘と別府湾とに、三方を海に囲まれた特異な地形をしている。中央には両子山721mがそびえ、古来瀬戸内海交通の目印になってきたという。

半島の突端には宇佐八幡がある。この宇佐八幡と国東は切っても切れない関係にあるので、まずは八幡神について少し述べておきたい。全国に神社は12万社あるが、八幡社はその三分の一を占める4万社もあり、宇佐八幡宮はその総本社である。八幡神はこれほど尊崇を集める神格ではあるけれども、その実体は謎めいていると言われている。

応神天皇を主神として神功皇后と比売神(ひめのかみ)をあわせた三神で八幡神とされる。しかし応神天皇と宇佐の地は関わりがなく、そもそもは半島からの外来神であるとも、海神(わたつみ)、鍛冶神に祖形があるとも、秦氏の氏神、畑の神、また仏教の伝来とも関係しそもそもが仏教の根本教説である八正道が神明に垂迹して、八幡は八正道の標幟であるとの説まである。

そして、神亀2年(725)、八幡神は「未来の悪世の衆生を救うために、薬師と弥勒を我が本尊とする」と託宣があり、現在地に八幡宮を造営し、同時に八幡が願主となり、勅命によって、日足(ひあし)に弥勒禅院を造り、南無江(なむえ)に、薬師勝恩寺を造ったと言われている。

そして、その13年後には両寺を宇佐八幡宮の境内に移し、弥勒寺と改め、金堂に薬師勝恩寺の薬師仏、講堂に弥勒禅院の弥勒仏を安置して、世にも稀な二寺合併寺が誕生した。これが、わが国最初の神仏習合の姿であった。

日向・大隅の隼人の鎮圧や新羅外交において朝廷に寄与するなど影響力を発揮。大仏建立時には託宣を下して、工事が殊の外順調に推移し、天平勝宝元年(749)、八幡神が手向山に勧請されて東大寺の鎮守となる。それによって全国の國分寺も鎮守として八幡神を勧請した。また神護景雲3年(769)、弓削の道鏡が天皇の位を取るか否かとの託宣によって、皇統が守られたことも有名である。

こうして中央にまで重大な影響力を持った八幡神は、天応元年(781)、光仁天皇から「護国霊験威力神通大菩薩」の位を得て、八幡大菩薩と通称されて伊勢神宮に次ぐ地位を与えられ仏教の守護神として、鎮護国家、庶民救済を担うものとなった。

そして、宇佐八幡宮弥勒寺はその後全盛期には何基もの塔がそびえ都の大寺に劣らぬ巨大寺院となっていた。そして石清水八幡宮、鶴岡八幡宮にそれぞれ八幡神は勧請されて、八幡神の尊格は肥大し、皇室、将軍家の守護神としての地位を確立し、全国各地の寺院にも分霊して、全国に広まる。

そうした八幡社の総本社として巨大な伽藍を持つ宇佐八幡には、当然のこと広大な経済基盤を要するわけで、宇佐八幡とその神宮寺であった弥勒寺は、九州一の荘園領主となり、国東半島は、ほぼ全域が宇佐八幡宮と弥勒寺の荘園であった。

半島の全域は峻険な山々がしめており、六つの郷からなっていたことから六郷満山と言われ、沢山の寺院、磨崖仏が配置されている。これらの寺院は養老2年(718)、仁聞菩薩が開基したと伝えられている。

仁聞とは奈良時代の弥勒寺の僧とも、八幡神の化身とも言われるが、当時の僧侶が神仏習合のもとで山岳修行に打ち込む中でその基点となる場をもってのちに発展させて寺院を造り、霊験を得てそこに磨崖仏を彫り上げていったのであろう。

これら六郷満山の寺院は、奈良時代から平安初期に宇佐八幡宮弥勒寺の境外寺院として成立し、後に天台宗を開く最澄が入唐の折に、乗船する前に宇佐八幡に参詣し、また帰朝の際にも参詣したことから、天台宗の僧が弥勒寺に参集した。

中世には学問寺として、真木大堂や智恩寺など本山本寺8か寺、冨貴寺など本山末寺が12か寺、修練場であった、両子寺など中山本寺10か寺、布教場としての末山本寺10か寺など、平安時代末には、65か寺も存在したという。

これら六郷満山と総称される各寺院は、宇佐八幡宮弥勒寺の境外寺として、天台宗に属しながらも、山岳修験、仏教、八幡信仰、などが混在した独自の豊かな文化を育んでいった。そうした豊かな文化を今日に伝えるものとして、六郷満山の伝統行事・修正鬼会(しゅじょうおにえ)がことに有名である。

かつては六郷満山の各寺院で行われていたが、現在では天念寺と成仏寺・岩戸寺(国東町)に残るのみとなっている。西満山に属している天念寺では毎年行われ、東満山の成仏寺と岩戸寺では隔年交代で行われる。五穀豊穣 国家安泰、無病息災、万民快楽を祈願する宗教行事で、養老年間元正(げんしょう)天皇の頃(西暦720年頃)に京都で行われたのが最初であるといわれている。

ここ国東の六郷満山ができたのも同じ時代なので、鬼会行事も1200~1300年前から伝わる行事であると考えられている。他の地域の鬼会行事の鬼は、桃太郎の鬼退治に代表されるように悪い鬼であり、「鬼を追い払う」行事だが、ここ国東の鬼は「鬼に姿を変えた御祖先様」であるとされ、良い鬼である。

そのため鬼の面には角が無い。「鬼に姿を変えた祖先を出迎える」という考え方のため、堂内を火のついた松明(たいまつ)を振り回す鬼は、見物客の背中や肩を叩き回るが、これが無病息災につながるとあって、人々は進んで鬼の前に出て行くのが特徴となっている。この考え方は平安時代以前の一般的な考え方であったようで、平安以前の習俗を今に伝える国東の修正鬼会は国指定重要無形民俗文化財に指定されている。

天念寺の修正鬼会は毎年旧正月の7日に行われる。19時頃にタイレシ(松明入れ衆)が天念寺前の長岩屋川で身を清め、鬼会が始まる。タイレシの若者達は着替えをして20時ころあらわれ、4mもある大松明に火が付けられる。そして講堂前で倒して、ゆすったり地面にぶつけたりして火の粉をちらす。

その後大松明を左右からぶつけ、大きく松明が燃え上がる。火祭りらしい光景にだんだんと気持ちが高揚してくる。まもなく僧侶が現れ講堂内で読経し、僧侶の法舞などが22時頃まで続く。22時ころに赤鬼があらわれ、松明を持って講堂内をあばれる。22時20分頃に黒鬼があらわれ、この鬼会行事のクライマックスを迎える。

堂内は松明の火の粉が飛び散り、煙が立ち込める。見物客が進んで鬼の前に行き、背中やお尻を松明で叩いてもらい、無病息災を祈願する。大衆も参加できる楽しい庶民的な行事であり、国東半島の信仰文化のダイナミックな豊かさ、混沌さ、複雑さを表しているとも言えよう。

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