冨貴寺参拝
国東半島には、六郷満山の様々な要素を複合した信仰によって、今日も多くの寺院や磨崖仏が残されているが、その一つに、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並び日本三阿弥陀堂の一つとされる冨貴寺大堂(おおどう)がある。
昔、冨貴寺のあたりの地に、高さ970丈もある榧(かや)の大木があったという。一丈は3メートルほどだから、2900メートルもの榧の木ということになる。その影は数キロにも及んだ。
仁聞菩薩が、この榧の木一本で冨貴寺大堂を造り、仏像を刻んだという。その余材で牛を刻み、それでもまだ余材があったので、刻んだ牛に乗せて熊野に運んだところ、途中で牛が動かなくなり、その地に建てたお堂が、真木大堂であると言い伝えられている。
蓮華山冨貴寺(蕗寺)は、六郷満山のなかで、満山を統括した西叡山高山寺の末寺の一つ。天台宗に属し、寺伝によれば、養老2年(718)八幡神の化身とも言われる仁聞菩薩開基とされる。
富貴寺の所在する豊後高田市大字蕗(ふき)は、古代末から中世には糸永名と呼ばれ、宇佐宮領田染荘(たしぶのしょう)に含まれ、富貴寺の創建にも宇佐八幡宮がかかわっていた。宇佐八幡宮の神職には、辛島家、大神家、宇佐家が創建当時からの祭祀を司っていた。
貞応2年(1223)、大宮司宇佐公仲(うさきみなか)が田染荘内の末久名と糸永名1町5反を蕗浦阿弥陀寺(富貴寺)に寄進したとき、同寺を「これ累代の祈願所にして、攘災招福の勤め、今に懈怠無し」と『大宮司宇佐公仲寄進状案』に記しているというから、冨貴寺は宇佐八幡宮宮司の祈願所として創建されたらしい。
大堂が建造される頃には、後に大宮司となる到津(いとうづ)家が祈願所として冨貴寺の檀那となっている。しかし、鎌倉後半期以後には新興武士層の勢力の及ぶところとなり、代々地頭職によって修理が行われ、南北朝期以後は直接的には宇佐八幡の保護からはなれ、六郷山内の一寺院として存在したようだ。
まず、冨貴寺への入り口には、山門の両端に地石ををつかった石像仁王像が祀られている。顔が平面的でレリーフの様な彫り方。国東半島の仁王像は、ほぼ全て同様な石像で、阿形の正面を向いた鼻の穴、吽形の緊張した顔と手、胸の筋肉。全部同じ特徴を持っている。
国宝・大堂は平安時代後期12世紀後半の数少ない阿弥陀堂建築であり、西国唯一の阿弥陀堂でもあり、九州最古の和様建築物。大堂は、本瓦の行基葺(ぎょうきぶき)の宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根は緩やかな反りを見せ、軒裏の垂木(たるき)が、この重厚な屋根を軽やかに支えている。行基葺きとは、本瓦葺きの丸瓦を上に重ねていく葺き方。正面三間、奥行四間のやや縦長の堂の周囲を幅広の縁が廻り、伸びのある屋根と釣合って堂全体を安定感のよい優美な姿にしている。
床板張りの堂内は、やや後方寄りに4本の丸柱で囲まれた部分を内陣とし、須弥壇が設けられ、本尊阿弥陀坐像が安置されている。低めの天井は 小組格天井(こぐみごうてんじょう)で、内陣のみは一段高く天井が貼られている。
内陣を後ろ寄りにした堂内は、礼拝者が仏前で礼拝し拝みやすい空間となっており、随所に描かれた壁画も含め阿弥陀浄土の世界をこの場に坐して観想するのに相応しい構造となっている。
富貴寺大堂にみるこの独創的な平面構成並びに外観は、構造的にも当時としては独創的なものであり、堂の柱間間隔の取り方や垂木懸(たるきがけ)に至るまで、建物の隅々まで計算されつくした制作者の卓抜した意匠力を見てとることができる。
大堂本尊阿弥陀如来坐像は、榧の寄木造り、二重円光を背負っている、重文。像高85.3㎝平安時代後期の作。ふっくらとした丸い顔面に切れ長の伏し目と小さめの口、なで肩で自然な体躯に、流れるような衣がゆったりと包んでいる。平安後期の定朝様の影響が表れていて、熟練した都の作風がうかがわれる。弥陀の定印を結ぶ。
また、本堂にも阿弥陀三尊像が安置される。阿弥陀如来坐像は高さ約88センチ観世音菩薩と勢至菩薩はともに立像で約108センチ。藤原時代末期の秀作で、現代は県指定有形文化財。いずれも榧材による寄木造の彫眼像で、その丸顔のふくよかな円満相、浅彫りの穏やかな衣文など、平安末期における和様彫刻の典型的作風を示している。
大堂の壁画は、天台教学、奈良仏教の影響を受けた六郷満山特有の信仰がうかがわれるものと言われ、これらは白土地に下絵を描き、岩絵の具や金銀泊で彩色し、墨や朱で輪郭線を書き起こす伝統技法により描かれた。
内陣須弥壇の仏像後ろの壁には阿弥陀浄土図が描かれ、楼閣や廻廊を四周に廻らした中に阿弥陀三尊と菩薩を中心に、その左右に楽器を演奏する音声菩薩、比丘(びく)群を配す。前方の舞台上では4体の舞踊菩薩が舞い踊る。一方画面下方の蓮池には島上に仏菩薩、池上に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟2艘が浮かび数体の菩薩が乗る。
仏後壁画の華座段を中心に虚空段、楼閣段、舞楽段、宝池段からなる画面構成は、基本的には 当麻曼荼羅などの浄土変相図の類型ではあるが、寝殿造にも似た建物や池上に舟を浮かべる光景など平安貴族の日常生活を思わせる描写がみられ、現実的要素を取り込みながら和様化がより進んでいるものといえる。
内陣四天柱の各々を大きく上中下三段に分かち、合計70体以上にのぼる仏菩薩を配す。各段を区切る装飾に宝珠型火焔や羯磨を描き、尊像が三鈷や五鈷杵を持つなど密教様式の描画と考えられる。内陣にはその他、四天柱を結ぶ長押上の小壁4面に定印の阿弥陀坐像50体が並坐する図柄が描かれ、また同長押や鴨居は、繧繝(うんげん)模様の宝相華文で彩色される。
外陣四方の長押上の小壁には、東に薬師、南に釈迦、西に阿弥陀、北に弥勒の各四仏浄土図が描かれる。各浄土図は、主尊を中心に脇侍、供養・音声・舞踊菩薩および眷属、衆生がほぼ左右対象に配され、両端に各浄土を守護する形で明王が1体づつ描かれる。
また、境内には国東塔、石殿、板碑、笠塔婆、仁王像梵字石などが多数置かれている。笠塔婆(柱上の塔身上に笠石、宝珠を置く)も五基ある。鎌倉時代の僧侶広増によって建立され、最も古いのは仁治二年(1241)造、昭和40年県指定有形文化財。国東塔は国東地方に特有の形式で、天沼博士が命名された由緒あるもの。大小二基のうち、大は無銘、小は慶長八年(1603)と墨書の銘がある。
冨貴寺大堂は、中央須弥壇の阿弥陀如来を右回りに念仏を唱える常行念仏の道場ではなかったか。ちょうど大原三千院の往生極楽院がそうであったように。浄土図の壁画が取り囲む中で、念仏を唱え、弥陀の浄土を念じつつ、常時歩き行ずる行者がおられたのではないか。そこへ大宮司も参り、攘災招福と極楽往生を願った。
鎌倉新仏教としての浄土宗浄土真宗の念仏ではなく、平安後期には源信僧都の『往生要集』が読まれ、人々の生き死にに対する関心が呼び覚まされて、輪廻転生の観念が浸透した。地獄には行きたくない、極楽に往生したいとの願いがもたれ、そこに天台宗の厳しい念仏の教えが広まった。
そうした時代に冨貴寺大堂も創建され、当時は、細かい作法に則った弥陀浄土の観想と念仏三昧の厳正なる修行の道場であったのであろう。そこでの往生は決してたやすいものではなく、念仏とは生き方そのものの転換を意味していたのであった。
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国東半島には、六郷満山の様々な要素を複合した信仰によって、今日も多くの寺院や磨崖仏が残されているが、その一つに、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並び日本三阿弥陀堂の一つとされる冨貴寺大堂(おおどう)がある。
昔、冨貴寺のあたりの地に、高さ970丈もある榧(かや)の大木があったという。一丈は3メートルほどだから、2900メートルもの榧の木ということになる。その影は数キロにも及んだ。
仁聞菩薩が、この榧の木一本で冨貴寺大堂を造り、仏像を刻んだという。その余材で牛を刻み、それでもまだ余材があったので、刻んだ牛に乗せて熊野に運んだところ、途中で牛が動かなくなり、その地に建てたお堂が、真木大堂であると言い伝えられている。
蓮華山冨貴寺(蕗寺)は、六郷満山のなかで、満山を統括した西叡山高山寺の末寺の一つ。天台宗に属し、寺伝によれば、養老2年(718)八幡神の化身とも言われる仁聞菩薩開基とされる。
富貴寺の所在する豊後高田市大字蕗(ふき)は、古代末から中世には糸永名と呼ばれ、宇佐宮領田染荘(たしぶのしょう)に含まれ、富貴寺の創建にも宇佐八幡宮がかかわっていた。宇佐八幡宮の神職には、辛島家、大神家、宇佐家が創建当時からの祭祀を司っていた。
貞応2年(1223)、大宮司宇佐公仲(うさきみなか)が田染荘内の末久名と糸永名1町5反を蕗浦阿弥陀寺(富貴寺)に寄進したとき、同寺を「これ累代の祈願所にして、攘災招福の勤め、今に懈怠無し」と『大宮司宇佐公仲寄進状案』に記しているというから、冨貴寺は宇佐八幡宮宮司の祈願所として創建されたらしい。
大堂が建造される頃には、後に大宮司となる到津(いとうづ)家が祈願所として冨貴寺の檀那となっている。しかし、鎌倉後半期以後には新興武士層の勢力の及ぶところとなり、代々地頭職によって修理が行われ、南北朝期以後は直接的には宇佐八幡の保護からはなれ、六郷山内の一寺院として存在したようだ。
まず、冨貴寺への入り口には、山門の両端に地石ををつかった石像仁王像が祀られている。顔が平面的でレリーフの様な彫り方。国東半島の仁王像は、ほぼ全て同様な石像で、阿形の正面を向いた鼻の穴、吽形の緊張した顔と手、胸の筋肉。全部同じ特徴を持っている。
国宝・大堂は平安時代後期12世紀後半の数少ない阿弥陀堂建築であり、西国唯一の阿弥陀堂でもあり、九州最古の和様建築物。大堂は、本瓦の行基葺(ぎょうきぶき)の宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根は緩やかな反りを見せ、軒裏の垂木(たるき)が、この重厚な屋根を軽やかに支えている。行基葺きとは、本瓦葺きの丸瓦を上に重ねていく葺き方。正面三間、奥行四間のやや縦長の堂の周囲を幅広の縁が廻り、伸びのある屋根と釣合って堂全体を安定感のよい優美な姿にしている。
床板張りの堂内は、やや後方寄りに4本の丸柱で囲まれた部分を内陣とし、須弥壇が設けられ、本尊阿弥陀坐像が安置されている。低めの天井は 小組格天井(こぐみごうてんじょう)で、内陣のみは一段高く天井が貼られている。
内陣を後ろ寄りにした堂内は、礼拝者が仏前で礼拝し拝みやすい空間となっており、随所に描かれた壁画も含め阿弥陀浄土の世界をこの場に坐して観想するのに相応しい構造となっている。
富貴寺大堂にみるこの独創的な平面構成並びに外観は、構造的にも当時としては独創的なものであり、堂の柱間間隔の取り方や垂木懸(たるきがけ)に至るまで、建物の隅々まで計算されつくした制作者の卓抜した意匠力を見てとることができる。
大堂本尊阿弥陀如来坐像は、榧の寄木造り、二重円光を背負っている、重文。像高85.3㎝平安時代後期の作。ふっくらとした丸い顔面に切れ長の伏し目と小さめの口、なで肩で自然な体躯に、流れるような衣がゆったりと包んでいる。平安後期の定朝様の影響が表れていて、熟練した都の作風がうかがわれる。弥陀の定印を結ぶ。
また、本堂にも阿弥陀三尊像が安置される。阿弥陀如来坐像は高さ約88センチ観世音菩薩と勢至菩薩はともに立像で約108センチ。藤原時代末期の秀作で、現代は県指定有形文化財。いずれも榧材による寄木造の彫眼像で、その丸顔のふくよかな円満相、浅彫りの穏やかな衣文など、平安末期における和様彫刻の典型的作風を示している。
大堂の壁画は、天台教学、奈良仏教の影響を受けた六郷満山特有の信仰がうかがわれるものと言われ、これらは白土地に下絵を描き、岩絵の具や金銀泊で彩色し、墨や朱で輪郭線を書き起こす伝統技法により描かれた。
内陣須弥壇の仏像後ろの壁には阿弥陀浄土図が描かれ、楼閣や廻廊を四周に廻らした中に阿弥陀三尊と菩薩を中心に、その左右に楽器を演奏する音声菩薩、比丘(びく)群を配す。前方の舞台上では4体の舞踊菩薩が舞い踊る。一方画面下方の蓮池には島上に仏菩薩、池上に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟2艘が浮かび数体の菩薩が乗る。
仏後壁画の華座段を中心に虚空段、楼閣段、舞楽段、宝池段からなる画面構成は、基本的には 当麻曼荼羅などの浄土変相図の類型ではあるが、寝殿造にも似た建物や池上に舟を浮かべる光景など平安貴族の日常生活を思わせる描写がみられ、現実的要素を取り込みながら和様化がより進んでいるものといえる。
内陣四天柱の各々を大きく上中下三段に分かち、合計70体以上にのぼる仏菩薩を配す。各段を区切る装飾に宝珠型火焔や羯磨を描き、尊像が三鈷や五鈷杵を持つなど密教様式の描画と考えられる。内陣にはその他、四天柱を結ぶ長押上の小壁4面に定印の阿弥陀坐像50体が並坐する図柄が描かれ、また同長押や鴨居は、繧繝(うんげん)模様の宝相華文で彩色される。
外陣四方の長押上の小壁には、東に薬師、南に釈迦、西に阿弥陀、北に弥勒の各四仏浄土図が描かれる。各浄土図は、主尊を中心に脇侍、供養・音声・舞踊菩薩および眷属、衆生がほぼ左右対象に配され、両端に各浄土を守護する形で明王が1体づつ描かれる。
また、境内には国東塔、石殿、板碑、笠塔婆、仁王像梵字石などが多数置かれている。笠塔婆(柱上の塔身上に笠石、宝珠を置く)も五基ある。鎌倉時代の僧侶広増によって建立され、最も古いのは仁治二年(1241)造、昭和40年県指定有形文化財。国東塔は国東地方に特有の形式で、天沼博士が命名された由緒あるもの。大小二基のうち、大は無銘、小は慶長八年(1603)と墨書の銘がある。
冨貴寺大堂は、中央須弥壇の阿弥陀如来を右回りに念仏を唱える常行念仏の道場ではなかったか。ちょうど大原三千院の往生極楽院がそうであったように。浄土図の壁画が取り囲む中で、念仏を唱え、弥陀の浄土を念じつつ、常時歩き行ずる行者がおられたのではないか。そこへ大宮司も参り、攘災招福と極楽往生を願った。
鎌倉新仏教としての浄土宗浄土真宗の念仏ではなく、平安後期には源信僧都の『往生要集』が読まれ、人々の生き死にに対する関心が呼び覚まされて、輪廻転生の観念が浸透した。地獄には行きたくない、極楽に往生したいとの願いがもたれ、そこに天台宗の厳しい念仏の教えが広まった。
そうした時代に冨貴寺大堂も創建され、当時は、細かい作法に則った弥陀浄土の観想と念仏三昧の厳正なる修行の道場であったのであろう。そこでの往生は決してたやすいものではなく、念仏とは生き方そのものの転換を意味していたのであった。
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