(これは、ある仏教の冊子に掲載するために書いた試作原稿の一つです)
仏になる途上に生きる
先日遷都千三百年祭で賑わった奈良の大寺にお詣りしました。日本一の仏、しかも日本一の仏様のお堂には、さすがにたくさんの参詣人で一杯でした。しかし、耳を澄ましてみても、一つもお経の声は聞こえてこず、案内人の解説の声や学生たちの話し声ばかり。一昨年は阿修羅展の来場者が博物館の記録を塗り替えるほどの仏像ブームと言われている昨今ではありますが、仏さまとは、鑑賞するものなのでしょうか。
そのとき、私たちの団体も実は仏様の前を素通りしそうでした。そこで皆さんに声を掛け、何とか短いお経を唱えてお堂を後にしたのでしたが、あれだけ沢山の人たちがお参りしていながらほんの一握りの人しかお経を唱えないというのは、とても残念なことに思えました。
その帰りのバスの中で、綾小路きみまろさんのライブビデオを拝見しました。涙を流しながら笑い見ていたら最後にこんな話をされました。それは、知り合いのご婦人が旦那さんを亡くされて、お葬式の祭壇にご主人の好きだったバラの花を五百本お供えしたというのです。そのご婦人がさぞかし喜んでくれているだろうと言うので、きみまろさんはすかさず、「何で生きているうちに一本のバラもプレゼントしなかったのですか」と言ったという話でした。生きているときには元気で留守がいいと言っておきながら、または粗大ゴミ扱いしておきながら、亡くなったとたんに手を合わせ成仏を願う。誰でもがしがちなことではありますが、一向におかしいとは気づかないものです。
誰でもが亡くなると成仏して下さいと手を合わされるのに、生きている間には自分も周りの人たちも仏さまになるなんて考えたこともないかも知れません。ですが、やはり私たちはみんな生きている今も、仏さまとなるその途上にある、つまりは悟りということを意識して生きることが大切なのではないでしょうか。
賢者に親しむ
悟りというのはそう難しく考えることなく、みんな幸せになりたい、その究極にあるものと思ったらよいでしょう。では私たちは幸せにあるためにはどうしたらよいでしょうか。
お釈迦様は、『諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人を尊敬すること、これがこよなき幸せである』(スッタニパータ二五九)と教えられています。
ここでの愚者とは、たとえ富裕で地位があり美辞麗句を並べても、目先のおのれの利益のみを追求するような人のこと。そういう人に親近するのではなく、この世の中の摂理法則を知り、人に恨まれたり怨んだりせず、間違いをしない賢者にこそ親しみ学び、尊敬すべきなのだというのです。
賢者の生き方
『一夜賢者経』というお経には、
「過ぎされることを追うことなかれ。いまだ来たらざるをねがうことなかれ。過去、そはすでに捨てられたり。未来、そはいまだ到らざるなり。されば、ただ現在するところのものを、そのところにおいてよく観察すべし。(中略)ただ今日まさになすべきことを熱心になせ。」
と教えられています。
私たちは過去のことこ未来のことに頭悩まし、考えすぎてかえって自らを苦しめ、あれこれと迷った考えに囚われがちです。が、過去や未来に生きるのではなく今あることにしっかりと意識して自らの行いに気づきつつあるのが賢者としての生き方であるとお釈迦様は教えられているのです。
今に生きる
昔、インドのサールナートというお釈迦様の初めて法輪を転ぜられた聖地にある僧院で一年間過ごしたことがあります。そこで三ヶ月ほどした頃だったでしょうか、環境の変化や言葉の壁に周囲の人たちにうまく溶け込めず、心落ち込んだ時期がありました。何をしていても、自分は何でここに来たのだろうか、何をしているのかと悩み悶々と日を過ごしていました。
しかし、そんなある日のこと、たくさんの参詣者の残した金属の食器を一人しゃがんで黙々と砂を付け擦っているとき、気がつくと洗う行為だけに没頭して何も考えていない自分がそこにありました。悩み考え込んでいる自分はなく、器を擦る行為だけがありました。何も考えずにその時の行為に没頭する自分に気づいたとたんに、それまでずっと何をするのにも億劫で、つらい思いをひきづっていたのがウソのように身軽になり気持ちも楽になりました。ただ、その時その時のことにだけ集中していればいいのだと思えたのです。
私たちは人間は考える葦であるなどと教えられ、思考すること、様々に類推し創意することを良いことだと考えていますが、それはただ迷った妄想に過ぎないのかも知れません。
思考しないことを無念無想などと言うこともありますが、日常にあっても、常に今に生きる賢者の生き方をこそ私たちは見習うべきなのかも知れません。
そして、賢者の生き方を通して、日々仏さまへの道の途上にあることを意識しつつ、私たちの究極的な目標は悟りなのだと思い定めておくことも大切ではないでしょうか。なぜかと言えば、みんな死ねば成仏を願われる身なのですから。
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仏になる途上に生きる
先日遷都千三百年祭で賑わった奈良の大寺にお詣りしました。日本一の仏、しかも日本一の仏様のお堂には、さすがにたくさんの参詣人で一杯でした。しかし、耳を澄ましてみても、一つもお経の声は聞こえてこず、案内人の解説の声や学生たちの話し声ばかり。一昨年は阿修羅展の来場者が博物館の記録を塗り替えるほどの仏像ブームと言われている昨今ではありますが、仏さまとは、鑑賞するものなのでしょうか。
そのとき、私たちの団体も実は仏様の前を素通りしそうでした。そこで皆さんに声を掛け、何とか短いお経を唱えてお堂を後にしたのでしたが、あれだけ沢山の人たちがお参りしていながらほんの一握りの人しかお経を唱えないというのは、とても残念なことに思えました。
その帰りのバスの中で、綾小路きみまろさんのライブビデオを拝見しました。涙を流しながら笑い見ていたら最後にこんな話をされました。それは、知り合いのご婦人が旦那さんを亡くされて、お葬式の祭壇にご主人の好きだったバラの花を五百本お供えしたというのです。そのご婦人がさぞかし喜んでくれているだろうと言うので、きみまろさんはすかさず、「何で生きているうちに一本のバラもプレゼントしなかったのですか」と言ったという話でした。生きているときには元気で留守がいいと言っておきながら、または粗大ゴミ扱いしておきながら、亡くなったとたんに手を合わせ成仏を願う。誰でもがしがちなことではありますが、一向におかしいとは気づかないものです。
誰でもが亡くなると成仏して下さいと手を合わされるのに、生きている間には自分も周りの人たちも仏さまになるなんて考えたこともないかも知れません。ですが、やはり私たちはみんな生きている今も、仏さまとなるその途上にある、つまりは悟りということを意識して生きることが大切なのではないでしょうか。
賢者に親しむ
悟りというのはそう難しく考えることなく、みんな幸せになりたい、その究極にあるものと思ったらよいでしょう。では私たちは幸せにあるためにはどうしたらよいでしょうか。
お釈迦様は、『諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人を尊敬すること、これがこよなき幸せである』(スッタニパータ二五九)と教えられています。
ここでの愚者とは、たとえ富裕で地位があり美辞麗句を並べても、目先のおのれの利益のみを追求するような人のこと。そういう人に親近するのではなく、この世の中の摂理法則を知り、人に恨まれたり怨んだりせず、間違いをしない賢者にこそ親しみ学び、尊敬すべきなのだというのです。
賢者の生き方
『一夜賢者経』というお経には、
「過ぎされることを追うことなかれ。いまだ来たらざるをねがうことなかれ。過去、そはすでに捨てられたり。未来、そはいまだ到らざるなり。されば、ただ現在するところのものを、そのところにおいてよく観察すべし。(中略)ただ今日まさになすべきことを熱心になせ。」
と教えられています。
私たちは過去のことこ未来のことに頭悩まし、考えすぎてかえって自らを苦しめ、あれこれと迷った考えに囚われがちです。が、過去や未来に生きるのではなく今あることにしっかりと意識して自らの行いに気づきつつあるのが賢者としての生き方であるとお釈迦様は教えられているのです。
今に生きる
昔、インドのサールナートというお釈迦様の初めて法輪を転ぜられた聖地にある僧院で一年間過ごしたことがあります。そこで三ヶ月ほどした頃だったでしょうか、環境の変化や言葉の壁に周囲の人たちにうまく溶け込めず、心落ち込んだ時期がありました。何をしていても、自分は何でここに来たのだろうか、何をしているのかと悩み悶々と日を過ごしていました。
しかし、そんなある日のこと、たくさんの参詣者の残した金属の食器を一人しゃがんで黙々と砂を付け擦っているとき、気がつくと洗う行為だけに没頭して何も考えていない自分がそこにありました。悩み考え込んでいる自分はなく、器を擦る行為だけがありました。何も考えずにその時の行為に没頭する自分に気づいたとたんに、それまでずっと何をするのにも億劫で、つらい思いをひきづっていたのがウソのように身軽になり気持ちも楽になりました。ただ、その時その時のことにだけ集中していればいいのだと思えたのです。
私たちは人間は考える葦であるなどと教えられ、思考すること、様々に類推し創意することを良いことだと考えていますが、それはただ迷った妄想に過ぎないのかも知れません。
思考しないことを無念無想などと言うこともありますが、日常にあっても、常に今に生きる賢者の生き方をこそ私たちは見習うべきなのかも知れません。
そして、賢者の生き方を通して、日々仏さまへの道の途上にあることを意識しつつ、私たちの究極的な目標は悟りなのだと思い定めておくことも大切ではないでしょうか。なぜかと言えば、みんな死ねば成仏を願われる身なのですから。
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悩みますね。この世の中の真理がどうこの世の中に反映されるのか。真理は嘘をつかないはず。
だとすれば、行いの悪しき者はその報いを当然受けねばならない。でも、それがいつになるのかは分からない。
遙か先になるのか、来世になるのか。
この現実の世の中の動き、うごめきも全て真理の世界の一部であるはずだから。いずれ全てがその法則の下に収斂されていかねばならない。
善因善果、悪因悪果。
必ず報いが来る。貧しくも額に汗して真面目に働く人たちに日が差さずしては、この世は成り立ち得ない。
しかし、現実はその姿を現すまで今しばらくの猶予が必要なのも確か。
もどかしい現実。
それを早送りで成し遂げんとしているかに見える動きが・・・。
Wikileaks !!!
家庭も問題ですが、教育現場の体たらく。大切なものは大切なのだという信念を教育者に持たし得ない文科省、教育委員会の責任は重いですね。
このままでは日本は崩壊してしまうのではないでしょうか。
この記事を読んでいて、私の中で自殺に関する問題が頭を過ぎったので、述べたいと思います。
ここ近年、相次いで自殺する人が増えています。報道される度、自殺者に対して物凄く複雑な気持ちになるのです。
中には、自殺者に対して『弱いからだ』とか、『自殺する人間が悪い』等と非難を浴びせる人が居たりします。しかし、そんな事を言って居る人々に対して、『生き辛い世の中にしたのは誰?』と問い掛けたくなるのです。普段、人の事無関心な癖に、自殺したら、『自殺するな』だの、『生きたくても生きられない人が居る』だの、『自殺したら、地獄に堕ちる』だのと口にする。手を差し伸べる気持ちのひと欠片すら無かった癖に…。私は、限界まで追い詰められた人間の心情を思うと、胸が締め付けれる様な気持ちになります。私も自殺者を作っている人間の1人なんだと。自殺は本人だけで完結出来る程簡単なものではない。大なり小なり、周囲にも責任があると言う事を一人一人が自覚しなくてはなりません。
自殺者に非難を浴びせる前に、自分はどうだったかを反省すべきではないでしょうか?反省し、行動を改める様心掛ければ、生きる希望を失った人間に一筋の希望の光が差し込むはずです。
私は元々感情移入し易い人間なので、自殺者に対して、ああだこうだとは言いません、いや、言えないと言うべきか。
自殺者に対してあれこれ言う暇があるのなら、自分の生き方を見直します。自分は人に冷たくしてないかとか、無責任な言葉をかけてないかとか思い巡らし、その反省を生活に生かすように心掛けています。
自殺者と向き合う事は、即ち、自分と向き合う事にも繋がると私は考えています。
死んでしまった人にどうこう言ってもしょうがない。だったら、自分が少しずつでもいいから、生きる希望を失った人が希望を取り戻せる社会を作る努力をする方が大事だと私は思います。一人の力では限界があります。皆で心掛ければ、生き辛い世の中にはならない筈だと信じています。
人をバカだと思ったら、自分もバカなのかもしれないと思わないといけないということでもある。福島から来たというと差別するともいうが、みんな被曝している。みんな程度の違いこそあれ同じように被災者でもある。
何もなくても、被害者であり、加害者でもある。日本の国を悪く言う、政治を悪く言う人もみんな自分が加害者だと気づかないといけないということでもありますね。
そうですね。皆、繋がっている。社会に必要な思想とは、『私はあなた。あなたは私』ではないでしょうか?
『自殺は本人の問題であり、他人のせいにすべきでない』と言う人がいますが、私はこの意見には賛同しかねます。自殺には、様々な要因が重なる訳ですから、一概に本人だけの問題としては片付けられません。周囲の人間も、意識には無くても、少なからず関係しているのですから、無関係と言うことは在り得ません。
現在、日本の自殺率は、世界で六番目に高いという統計が出ています。自殺が多いということは、即ち、この社会に思い遣りが無いという暗示ですらあると私は考えます。自殺を他人事と捉える事は乱暴かつ他者の生命に対する軽視であり、身勝手な考えであると私は思います。世の中、理不尽な事が沢山有るのは確かです。今ですら、また増税論がまた持ち上がっており、一部では、増税反対の声があがっている。
経済的弱者の中には、食うや食わずの生活を強いられている人がいる。好きでなった訳でもないのに…。
それでも増税を進めようとする政府。そして、『増税は仕方ない』と宣う連中。この者達の頭の中はどうなっているのかが私は知りたい。彼等からすれば、経済的弱者は、『稼げないお前達が悪い』と言っている様にすら思える。私はこの様な弱者を労わらぬ連中には酷い嫌悪を抱きます。自分が弱者の視点に立ったら分かる事。
例え他人であれ、自分の分身です。自分が他者の視点で物事を考えたら、自ずと他者に対して理解出来る筈です。そして、その者達の苦しみを和らげる為に如何に行動すべきかが考えられる筈です。
自分と他者との境界が無くなる時、自然と、自殺する者が減る筈です。
今こそ仏教の思想が反映される時ではないでしょうか?
仏教とは、ただお経を読み、戒律を守り、仏を拝むのではない。自他の境界を無くし、お互いに慈しみ合う生き方を実践するのが本当の仏教の在り方ではないでしょうか?極楽浄土はあの世の話ではない。六道輪廻は死後の事に限った事ではない。実は、今生きている現実にこそ、これらが存在している事に気付くべきでしょう。