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昨日ある家の法事に行ってきた。13回忌だから、本当に近い人たちだけの少人数の法事である。「田舎の方でも、だんだん法事をこまくするようになったわね」そう大阪からお越しになった方が言うように、近年益々仏事法事は質素に小規模になってきている。
それでも唱えるお経も、法話も変わらない。一家族であろうが、小規模であろうがそう簡単に済ませられるものではない。法話には、葬儀の際の引導を渡すということの意味や戒名のこと、それに戒律のことをお話しした。
戒名は戒律をいただくときの名前であって、来世に旅立っても仏教徒として、しっかり教えを受け取ってもらい、心の修行をして、心きよらかに生きてもらう、そうして何回も何回も生まれ変わって悟りに向かって精進して下さることを願うのだ、というような話をした。
近くのお墓に参る道すがら、「住職さんは若いから・・・」というようなことを盛んに言う方があった。「いやいや年なんか考えてはいけないんですよ」とその時は言うに留まったのだが、お斎の席でも年の話になり、そこで、年ということについて少しお話しした。
よく長生きをしなけりゃ嘘よ、というようなことを言う人がいるが、それは確かに、下手な生き方をして、つまり生活習慣や心の持ち方が悪くて早死にしてしまうという人には当てはまることかもしれない。しかし、ただ長生きすればいいというものでもない。若くして亡くなってもいい仕事をして、後の人たちに大きな影響を残して死んでいく人がいる。誰とは言わないが、そんな人は多く歴史にも名を残しているだろう。
スワミ・ヴィヴェカーナンダ(1863~1902)というヒンドゥー教の僧がいる。彼はラークリシュナというインドのベンガル地方に生まれ、まことに敬虔な、本当に神、カーリー神にまみえ語ったという聖人の弟子で、1893年にシカゴで開催された世界宗教会議に参加し、ヴェーダーンタ哲学の真髄を説き、普遍宗教の理想を雄弁に語った。
そして、ロマン・ロランをはじめとする欧米の知識人に深い感銘を与え、東西の精神的交流に先駆的役割を果たしたと言われているが、たった39年しか生きていない。しかし、スワミ・ヴィヴェカーナンダは、多くの講演録や著作によってその教えが未だに多くの人々の中に生きている人の一人だ。
私自身も昔あるヨーガの先生についてハタ・ヨーガを習っていた時期がある。週一回通うのだが、空中浮遊で有名になったその先生の本当の年を誰も知らなかった。すると先生がある対談でこんな事を語っていた。年というのは、この今生の身体の年数に過ぎない。しかし私たちは誰もが何回も何回も、何万回も輪廻転生してきているはずだ。その回数は人によって違う。だから今生の年だけでは本当の年などというのは計れないのだと。
確かに、今生にため込んだ知識、技術などは年相応ということもあるだろう。しかし時に、全く年数が浅いのに、すぐに理解してしまう人、すさまじく早くマスターする人がいる。語学や、書や、音楽、絵など。仏教の修行などでもそうしたことが言えるだろう。
まだ何年も修行をしていないのにすぐに悟ってしまうというお釈迦様の弟子が出たりしているから、昔からそうした事情は変わらない。これらは正に前世に修得した賜物と言うことが出来るのではないか。また、人それぞれ、思考も趣味も関心も違う。たとえ兄弟であっても。そんなところからも過去世の存在が窺い知られよう。
仏典の一つにジャータカというお釈迦様の前世譚がある。どれも過去世でどれだけお釈迦様が功徳を積んできたかを語っている。そのお蔭でルンビニーのカピラバストゥに釈迦族の王子として生まれ出家し、誰に教えられたわけでもなく自らの工夫精進によって完全に悟られ輪廻から解脱されたのであると、このように考えられている。
坊さんの世界では、本来出家してからの年数で席次を決めることになっている。1日でも、1時間でも早く出家した人が上になる。昔ネパールに巡礼したとき、若い住職さんのお寺に90過ぎのお坊さんがいて、礼拝しようとしたら、止められてしまったことがある。この人は最近出家したばかりだからと。人生経験は年数にならないということだ。
しかし、お釈迦様ご自身は、「長老とは、ただ白髪をたたえているから言うのではなく、真理、真実、不殺生と自制と節度を弁えた汚れなき者を言う」と、法句経に述べられている。長く坊さんをしているからいいということでもないということになる。勿論これは坊さんの世界の長老のことではあるけれども、どの世界でも歳を取るだけで長老とは認められないのが本来ではないだろうか。
ところで、最近ある尺八の世界的な権威である先生にお会いした。その時先生は、年は言わないことにしています。年で見たり聞いたりして欲しくない、この音で判断してもらいたい。そうはっきりと言われていた。何年修行した、何年のキャリアがあるというそれだけで人を、この場合尺八を聞いて欲しくない。尺八そのものを、またご本人の存在をそのままに感じて欲しいということであった。私はなるほどなと思った。
年で人を判断してはいけない。自分自身も年だからなどと考えてはいけない。そうあるべきなのではないか、誰もが過去から積み重ねたものをもって今を生き、未来にもそれをもたらす身であることを考えれば。そして、ただ素直に、今を大切に生きるためにも。
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日記@BlogRanking
それでも唱えるお経も、法話も変わらない。一家族であろうが、小規模であろうがそう簡単に済ませられるものではない。法話には、葬儀の際の引導を渡すということの意味や戒名のこと、それに戒律のことをお話しした。
戒名は戒律をいただくときの名前であって、来世に旅立っても仏教徒として、しっかり教えを受け取ってもらい、心の修行をして、心きよらかに生きてもらう、そうして何回も何回も生まれ変わって悟りに向かって精進して下さることを願うのだ、というような話をした。
近くのお墓に参る道すがら、「住職さんは若いから・・・」というようなことを盛んに言う方があった。「いやいや年なんか考えてはいけないんですよ」とその時は言うに留まったのだが、お斎の席でも年の話になり、そこで、年ということについて少しお話しした。
よく長生きをしなけりゃ嘘よ、というようなことを言う人がいるが、それは確かに、下手な生き方をして、つまり生活習慣や心の持ち方が悪くて早死にしてしまうという人には当てはまることかもしれない。しかし、ただ長生きすればいいというものでもない。若くして亡くなってもいい仕事をして、後の人たちに大きな影響を残して死んでいく人がいる。誰とは言わないが、そんな人は多く歴史にも名を残しているだろう。
スワミ・ヴィヴェカーナンダ(1863~1902)というヒンドゥー教の僧がいる。彼はラークリシュナというインドのベンガル地方に生まれ、まことに敬虔な、本当に神、カーリー神にまみえ語ったという聖人の弟子で、1893年にシカゴで開催された世界宗教会議に参加し、ヴェーダーンタ哲学の真髄を説き、普遍宗教の理想を雄弁に語った。
そして、ロマン・ロランをはじめとする欧米の知識人に深い感銘を与え、東西の精神的交流に先駆的役割を果たしたと言われているが、たった39年しか生きていない。しかし、スワミ・ヴィヴェカーナンダは、多くの講演録や著作によってその教えが未だに多くの人々の中に生きている人の一人だ。
私自身も昔あるヨーガの先生についてハタ・ヨーガを習っていた時期がある。週一回通うのだが、空中浮遊で有名になったその先生の本当の年を誰も知らなかった。すると先生がある対談でこんな事を語っていた。年というのは、この今生の身体の年数に過ぎない。しかし私たちは誰もが何回も何回も、何万回も輪廻転生してきているはずだ。その回数は人によって違う。だから今生の年だけでは本当の年などというのは計れないのだと。
確かに、今生にため込んだ知識、技術などは年相応ということもあるだろう。しかし時に、全く年数が浅いのに、すぐに理解してしまう人、すさまじく早くマスターする人がいる。語学や、書や、音楽、絵など。仏教の修行などでもそうしたことが言えるだろう。
まだ何年も修行をしていないのにすぐに悟ってしまうというお釈迦様の弟子が出たりしているから、昔からそうした事情は変わらない。これらは正に前世に修得した賜物と言うことが出来るのではないか。また、人それぞれ、思考も趣味も関心も違う。たとえ兄弟であっても。そんなところからも過去世の存在が窺い知られよう。
仏典の一つにジャータカというお釈迦様の前世譚がある。どれも過去世でどれだけお釈迦様が功徳を積んできたかを語っている。そのお蔭でルンビニーのカピラバストゥに釈迦族の王子として生まれ出家し、誰に教えられたわけでもなく自らの工夫精進によって完全に悟られ輪廻から解脱されたのであると、このように考えられている。
坊さんの世界では、本来出家してからの年数で席次を決めることになっている。1日でも、1時間でも早く出家した人が上になる。昔ネパールに巡礼したとき、若い住職さんのお寺に90過ぎのお坊さんがいて、礼拝しようとしたら、止められてしまったことがある。この人は最近出家したばかりだからと。人生経験は年数にならないということだ。
しかし、お釈迦様ご自身は、「長老とは、ただ白髪をたたえているから言うのではなく、真理、真実、不殺生と自制と節度を弁えた汚れなき者を言う」と、法句経に述べられている。長く坊さんをしているからいいということでもないということになる。勿論これは坊さんの世界の長老のことではあるけれども、どの世界でも歳を取るだけで長老とは認められないのが本来ではないだろうか。
ところで、最近ある尺八の世界的な権威である先生にお会いした。その時先生は、年は言わないことにしています。年で見たり聞いたりして欲しくない、この音で判断してもらいたい。そうはっきりと言われていた。何年修行した、何年のキャリアがあるというそれだけで人を、この場合尺八を聞いて欲しくない。尺八そのものを、またご本人の存在をそのままに感じて欲しいということであった。私はなるほどなと思った。
年で人を判断してはいけない。自分自身も年だからなどと考えてはいけない。そうあるべきなのではないか、誰もが過去から積み重ねたものをもって今を生き、未来にもそれをもたらす身であることを考えれば。そして、ただ素直に、今を大切に生きるためにも。
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日記@BlogRanking
年齢のことは、私にも思うことがたくさんあります。
職場では、キャリアが長ければたとえ実年齢が若かろうと先輩であり、逆に年配でもキャリアが短ければ後輩になるのですから☆
しかし、キャリアに応じてスキルが優れているかと言えばそうでもなく、キャリアがなくてもスキルが優れている人もいるのでこればっかりは何を持って判断したら良いのか分かりません(^_^;)
その点、仏教的に考えると、いかに仏に帰依しているかが判断基準になるのでしょうか?
一般的な職場に置き換えると、実年齢より、キャリアより、どれだけ仕事がそつなくこなせるかという判断になるのでしょうか??
仏教的には、席次は出家してからの年数時間で決まるわけですが、それとは別に帰依ということではなく、やはりどれだけ悟りに近いかということが大切になってきます。
日本の仏教では曖昧ですが、南方の仏教では、きちんと悟りの階梯が決まっていて、初歩の悟りから聖者の段階に入り、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果と決まっているのです。
だから、昔は10代でも1人まいの成人した比丘でなくても沙弥として阿羅漢になってしまう人も居たと聞いています。そういう人には年上の比丘でも教えを乞いに行くわけです。
スリランカの長老がミャンマーで瞑想道場に行かれて、瞑想していますと、あなたは、どこどこの段階に来ていますと言われたといいますから、悟りの階梯に進んでいる人にはそのことがはっきりと分かるようです。
皆さんが職場にあっても色々嫌なことも見聞きするでしょう。年のこと、キャリアのこと、仕事が出来る出来ない。でも、おもしろくない思いをするのも自分の考え方次第なのかもしれません。
自分がその人たちの中で良く思われたい、評価されたい、という思いがあるからではないでしょうか。それと仕事が出来れば出来たで、それが自分だと思いがちで、おごりの原因になります。
勿論迷惑を掛けないよう、きちんと仕事が進むように仕事をしようと思うことは当然のことですが、どれだけ人に喜ばれているか、自分は幸せかという視点も必要ではないかと思います。
それから、仕事は仕事、それが出来ようができまいが、それだけが自分というものではないという思いも必要でしょう。
たとえば、仕事とは別にたとえばさんとう花さんのように立派なブログを主催していたりということもあります。地域でボランティアに励む人も居ます。
人は仕事だけで評価されるべきではないし、それが自分だと思ってしまったらいけない。だから、人は、生きるとは何かと自らに問う営みが必要になるのだと思います。
生きるとはどういうことかにつながっていくわけですね☆
仕事は利益利潤がからんでくるのでどうしてもスキルの優れている人が優位な立場になるのですが、そればかり追求していたら人間としてもっと大切なものが失われてしまうかもしれませんよね。
と言うことは、何でもそこそこ頑張るのがベターなのでしょうか?(笑)
それにしても仏の道は、近くて遠いですよねぇ・・・(^_^;)
お釈迦さまは、生老病死を四苦と表現されたといいます。老病死の苦しみはわかりやすいが、生の苦しみとは? 悩みますね。殺生をしなければ生きて(食べて)いけない身を、「しょうがない」と思うか、「申し訳ない」と感じるか等、どう自覚するかが問題ですよね。
生きること自体が苦しみだとどれだけ自覚できるか。はっきりと、生きている今が苦しみだと本当に分かっているかというと、結構怪しいですよね。
みんな割と何かに気を紛らわしてなるべく意識しないように生きてしまっている。セックスやシネマやスポーツ、そればかりではないでしょうけど。誰かを好きになったり。その人のことを思うことで本当の苦しみから解放されたいとか。見ないようにしていたり。どこか旅行に行くとか。映画を見るとか。音楽にひたるとか。そんなことに逃げ場を見出したり。
人間そんなところで生きていて、無為に生きてしまってはいませんかということかと思います。本当の自分と対面するということが大切なのでしょう。難しいですけど。