住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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結衆布教師法話・みんなつながってる

2015年02月02日 12時25分53秒 | 仏教に関する様々なお話
今年の布教師法話を担当させて頂きます。宜しくお願いします。ところで、今年は、皆さんご存知の通り高野山開創1200年という記念すべき年に当たっています。お詣りに行こうという方もあるかと思いますが、皆さんにとって高野山の魅力と言えばなんでしょうか。沢山の大きな伽藍も言うに及ばずではありますが、お大師様の御廟・奥の院に続く戦国大名から庶民に至る多くの五輪塔群ではないかと私は思っています。

高野山は今でこそ立派な建物が林立していますが、開創当時はたいそう寒いところなので今のように暖をとれず、冬には下山したり、一山の僧がみんないない時期もありましたし、雷で建物が焼けて復興できず、荒廃したままの時期もありました。そうしたときに、もちろん貴族や有力豪族からの寄進もありましたが、高野聖と言われる半僧半俗の行者たちが全国を回り高野山、高野浄土、密厳浄土に納骨することを勧め資金を募っていきました。

平安末期から鎌倉室町には高野山でも称名念仏が行われ、念仏聖たちの別所と言われる集団が大きな勢力を持っていました。不断念仏と言って、一日中、毎日念仏を唱える別所もありました。それが江戸時代になると各国の大名が先代当主の供養のために大きな五輪塔を建てる風習となり今日に見るような沢山の五輪塔群となって、世界遺産にも登録されたわけです。

先日も神辺霊場会の納骨塔を掃除にまいりましたが、灯籠堂の脇にはお堂を作るときに下から出てきたおびただしい数の小さな一尺ほどの塔を山積みにしています。なぜそのように沢山の人たち、名も無き庶民たちまでもが高野山に納骨したのかと考えると、やはり昔の人たちは私たちよりも死が身近にあった。生と死がつながったものとしてあったのだと思うのです。

どう死ぬか、死に場所を考えることは日常のことであったと思えます。今のように長寿でもない、医療も今日のようではない、だから若いうちから死はいつも近くにあったのです。信仰に対する思いも真剣なものがあったでしょうし、いかに死ぬかそれはいかに生きるかと直結するとして捉えていたと考えられます。だからとても真剣に一日一日も生きていたでしょう。無為に一日を過ごしたらいけない、光陰矢のごとし、働かざる者食らうべからずということになります。

ですが、いまの日本人は死はずっと先のこと、豊かになって何もしなくても生きていけるから、真剣さがありません。いつまでも親の所に居てごろごろしている。結婚もしないで子供も作らないということになります。インターネットの発展に、今では携帯がパソコンになってみんな近くに居ても話もしないでスマホをつついている。人と人とのつながりも分断されています。子供たちも集まって何してるかと思えば、みんな別々にゲームをしてる時代です。

生と死は分断されて、周りの地域の人たちとのつながりもなくなり、死んでも無かったことにするかのような直葬であるとか、お墓まで捨ててしまうような乱暴なことが行われる時代になっています。高野山にまで納骨したいと思った昔の人たちとは大違いです。もちろんこの神辺の人たちは違います。いざとなれば隣保や周りの人たちの世話になるということがわかっているから、地域とのつながりを大切にしています。それに周りの人たちにお世話になって今があることがわかっているから、そんなに無茶なことはありません。

ところで、仏教の教えとは何かと申せば、実は今申し上げた、「みんなつながってる」という教えです。縁起や空などという言葉を出すまでもなく、こうして話を聞いて頂いてるのも縁ですし、他生の縁によって私たちはいろいろと便宜を図られつつ生きてますね。縁なき衆生は度しがたしとも言いますが。本当はみんなつながっている、だから、みんな影響し合い、助け合い、関係しているから私たちは生きています。

一人では生きられないし、生きてはいない、だから、みんなに優しく他を思い、生きとし生けるものたちがみんなよくあるようにと生きていかねばならないという、そういう教えですね。自分だけよければいい、俺たちはいいけど、あんたたちはどうなっても知らないという教えではありません。そこが他の宗教との違いですね。根本に縁起という考えがあるから、みんな、生きとし生けるものという発想になる。

真言宗のお経、理趣経にも清浄という言葉がたくさん使われてますが、清浄とは、自と他の垣根をなくすことだそうです。仏様の智慧によって生きるなら清浄でなくてはいけない。だから自分たちだけよければよいと他を攻撃するという発想は成り立たないし、それでは世の中うまくいかないということです。今の世界情勢もそこを考えないと大変なことになってくると言えます。

今年正月の新聞に、川田順造さんという人類学者が、このつながっているんだという発想は、人類がこの地上で生き長らえ進歩し発展する上で欠かせないものだったと書かれていました。どう猛な大きな動物たちの中にあって、ひ弱な人類が生きるためには共につながりを大切にし、他と共に危険をおかし、食を獲得し、分け合い、生き延びてきたから今の人類の発展がある。人類は、過酷な自然環境の中で、他との共存、共同の中で他との折り合いをつけ、自己を抑制して精神的な成長を経て、他と助け合いしながら、今日の繁栄を見たというのです。

ですから、このつながっているという感覚、発想をもっと大切に私たちはこれからも生きていかねばならないのだと言えます。ところで、私たちは四苦八苦の人生を生きています。私も日々四苦八苦の歩みですが、四苦ですね、生老病死もつながったものとして捉えて、いつも生きることだけでなく、老病死のことを考えて生きることが大切なのだと思っています。

アメリカには救命士という制度があって、事故や災害などによって余命幾ばくかもない人の所に駆けつけていろいろと処置する人たちだそうです。ニューヨーク州の救急救命士マシュー・オライリーさんは、死の直前、人が最後に思うことには三つあると言っています。

一つは、許しを請うことです。人にはみんな後悔することや心にやましいことの一つ二つはあるものです。それらについて謝り許しを請う気持ちが沸いてくるというのです。

二つ目には、憶えていて欲しいという気持ちです。誰にも忘れ去られていく寂しさ、悲しみがあるものですが、死に及んで死後も出来れば親しかった人、愛する人たち、誰かの心の中で生き続けていたいという思いです。

三つ目は、人生に意味があったと知りたいということ。自分の人生、一生が無意味なものではなかった、しっかり生きてきた、みんなのために役に立つ、立派な、よい人生だったと知りたいのです。

いかがでしょうか。誰しもがやはり、人とのつながりを大切に思い、また自分の歩んできたことと死の瞬間までがつながって生きているとも言えます。自分だけよければいい、今だけよければいいということではいけないということですね。自と他、生と死はだからつながっている。

皆さんの周りで身近な人が亡くなろうとしていたら、是非、この三つのこと、許し、記憶、人生の意味、と憶えておいて、後悔することはないと、しっかり憶えているよと、そして、いい立派な人生だったねと話しかけてあげて欲しいと思います。そして、生と死はつながってますから、皆さんも是非このことを自分のこととして少し考えていただけたらありがたいと思います。

つながりということをテーマに今日はお話をしてみました。長くなりましたが、ご静聴ありがとうございました。




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2 コメント

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Unknown (noriko)
2015-02-02 23:17:09
この写真、スゴーイ。ステキ!
山の上からが撮影のベストポイントなのか
雪の中ここまで登ったの?ありえない
ぜんゆーさん、いつもガンバってるね!
エライネ
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Unknown (noriko)
2015-02-02 17:43:53
しみじみした。
ぜんゆーさん、さすが話がうまいです。
つながってる。。
赤ちゃん、可愛い過ぎて産めない!
産んだら抱っこしながら、あんたもいつか死ぬんやで。死ぬって決まっとんのに産んでごめんな。って言うよ。
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