天人五衰という言葉がある。天人とは天界にすむ住人のことで、天界とは、生きとし生けるものが死後逝かねばならない六道の一番上部に位置する世界のことである。私たちはいま恵まれた人間界に生きてはいるけれども、死後はみないかねばならない来世があると考えるのが世界の仏教徒の常識である。生きてきた善悪の業によって死ぬ瞬間の心があり、その心の次元に従って来世が決まると考える。
来世には六つの世界がある。家にある仏壇を見ると、みんな下から上にと段があり少しずつ細くなり、また最上部から下にと一段ごとに細くなっている。これは衆生世界の六道を表している。下から、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、そして一番上の天板が仏界に当たるのであろうか。とにかくそのように出来ている。人間界の部分がいわゆる仏壇の内部であり、三段ほどに分かれ、本尊を祀り、位牌を祀り、御供えをする部分となっている。
それで、沢山良いことをしてその善業の功徳によって趣く世界が天界であり、人間界よりも勝ったとても快適で、苦しみがなく、常に快楽を感じ続けられる世界でもあるという。寿命は誠に長く、短い四王天の天人でも一日は人間界の50年で寿命は500年、都卒天の一日は人間界の400年に相当し寿命は4000年と、途方もない時間を過ごす。
しかしだからといって永遠ではなくて、天界の住人ということはまだ衆生の輪廻の世界を抜け出ていないので、いずれは寿命がいたり死後は下の世界に落ちていくしかないのだという。なぜならば、苦しみがないので解脱を望むこともなく、修行をすることもないから功徳を使い果たすだけなのだから。
ところで、死後は浄土に往生したいと考える方もあるかもしれないが、それも実はこの天界の住人に過ぎない。仏教の世界観の中の浄土教なのであるから、仏国土に往生すると言っても、悟っていない限り仏界にはいけない。浄土という見事な荘厳世界も、実はそこは天界に過ぎない。お釈迦様と同じ悟りの寸前まで修行が完成に近づいた不還果を悟った段階の方のみ、天界から仏界にいけると言うが、そこまで修行するのは、それはそう簡単なことではない。だから天界にいったとしても、みんなそこからやはり一度は下の世界にいたり、また修行をして悟らない限り仏界にはいけない。
そして、天界で長く快楽の世界で悠々としていたとしても、いざそこから転落するというときにはとてつもない苦しみに襲われるのだという。そのときが近づいてきたときに現れる五つの衰亡の相のことを「天人五衰」と言う。出典によって少しずつ違いがあるが、まず、①頭の花飾りがしぼみ、②衣が汚れ、③脇の下に汗をかき、④目が眩み、⑤天界の王宮にいても楽しめない。そうなってくるとその七日目に、いよいよ地獄の十六倍もの苦しみが襲い天界から退くときがやってくるのだと言う。
そんな苦しみを味わうくらいなら、何度でもこの人間界で苦楽を味わい、少しでも功徳を重ね、一生懸命瞑想して一歩でも解脱に近づくように精進した方がよいのではないかと思えてくる。今こうして人間界にあるのは本当はとてつもなく、そのチャンスなのかもしれないと考えなくてはいけない、いやそう考えないことには誠にもったいないと言えるのかもしれない。なぜなら人間界に再生するのもそんなに簡単なことではないと言われるから。
ところで、現代に生きる私たちは今、ものすごく快適な生活をしている。昔の人が見たら、それは天人の所業のようにも見えるのではないか。どこへ行くにも車があり、新幹線に乗れば昔は何日も歩いた距離をたったの一、二時間で行けてしまう。飛脚が届けた情報の何万倍もの情報をテレビやインターネットで一瞬にして手に入れられる。まるで時空を飛び越えているかのようにいつでも誰とでもどこにいても携帯で連絡が出来る。居ながらにして音楽も舞踊も何でも楽しめる。飛行機で世界中を行き来できる。まさに天人のような生活をしているとは言えまいか。
そう考えると、私たちもこの世界から退くときには、地獄の十六倍もの苦しみを受けることになるのであろうか。頭に張り巡らしたいろいろな電波が意味をなさなくなったり、肌に心地よい服を着ても心地よさを感じず、暑くもないのに汗をかき、横になっていても目が眩み、どこにいても楽しくないということもあるであろう。まさに天人五衰のような苦しみをおぼえ現代人は最期の時を迎えるのかもしれない。
あまりにも便利で快適な何でも出来てしまうことに何の感激もなくなった私たちの末路はやはり苦しみがつきまとうのであろう。毎日当たり前のようにこの快適な世界で暮らす私たちではあるけれども、時に、そうした現代の利器を一切放棄した生活をすることも大切なことなのではないだろうか。車に頼らず歩いてどこにでも行ってみる。携帯やインターネットを使わない。テレビを見ない。音楽や映像のない自然との語らいを味わう。そうすることで日常では味わえない、安らぎを感じるということもあるのだろうと思う。そうしてこそ解脱に至る悟りということの意味もつかめることもあるのかもしれない。
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来世には六つの世界がある。家にある仏壇を見ると、みんな下から上にと段があり少しずつ細くなり、また最上部から下にと一段ごとに細くなっている。これは衆生世界の六道を表している。下から、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、そして一番上の天板が仏界に当たるのであろうか。とにかくそのように出来ている。人間界の部分がいわゆる仏壇の内部であり、三段ほどに分かれ、本尊を祀り、位牌を祀り、御供えをする部分となっている。
それで、沢山良いことをしてその善業の功徳によって趣く世界が天界であり、人間界よりも勝ったとても快適で、苦しみがなく、常に快楽を感じ続けられる世界でもあるという。寿命は誠に長く、短い四王天の天人でも一日は人間界の50年で寿命は500年、都卒天の一日は人間界の400年に相当し寿命は4000年と、途方もない時間を過ごす。
しかしだからといって永遠ではなくて、天界の住人ということはまだ衆生の輪廻の世界を抜け出ていないので、いずれは寿命がいたり死後は下の世界に落ちていくしかないのだという。なぜならば、苦しみがないので解脱を望むこともなく、修行をすることもないから功徳を使い果たすだけなのだから。
ところで、死後は浄土に往生したいと考える方もあるかもしれないが、それも実はこの天界の住人に過ぎない。仏教の世界観の中の浄土教なのであるから、仏国土に往生すると言っても、悟っていない限り仏界にはいけない。浄土という見事な荘厳世界も、実はそこは天界に過ぎない。お釈迦様と同じ悟りの寸前まで修行が完成に近づいた不還果を悟った段階の方のみ、天界から仏界にいけると言うが、そこまで修行するのは、それはそう簡単なことではない。だから天界にいったとしても、みんなそこからやはり一度は下の世界にいたり、また修行をして悟らない限り仏界にはいけない。
そして、天界で長く快楽の世界で悠々としていたとしても、いざそこから転落するというときにはとてつもない苦しみに襲われるのだという。そのときが近づいてきたときに現れる五つの衰亡の相のことを「天人五衰」と言う。出典によって少しずつ違いがあるが、まず、①頭の花飾りがしぼみ、②衣が汚れ、③脇の下に汗をかき、④目が眩み、⑤天界の王宮にいても楽しめない。そうなってくるとその七日目に、いよいよ地獄の十六倍もの苦しみが襲い天界から退くときがやってくるのだと言う。
そんな苦しみを味わうくらいなら、何度でもこの人間界で苦楽を味わい、少しでも功徳を重ね、一生懸命瞑想して一歩でも解脱に近づくように精進した方がよいのではないかと思えてくる。今こうして人間界にあるのは本当はとてつもなく、そのチャンスなのかもしれないと考えなくてはいけない、いやそう考えないことには誠にもったいないと言えるのかもしれない。なぜなら人間界に再生するのもそんなに簡単なことではないと言われるから。
ところで、現代に生きる私たちは今、ものすごく快適な生活をしている。昔の人が見たら、それは天人の所業のようにも見えるのではないか。どこへ行くにも車があり、新幹線に乗れば昔は何日も歩いた距離をたったの一、二時間で行けてしまう。飛脚が届けた情報の何万倍もの情報をテレビやインターネットで一瞬にして手に入れられる。まるで時空を飛び越えているかのようにいつでも誰とでもどこにいても携帯で連絡が出来る。居ながらにして音楽も舞踊も何でも楽しめる。飛行機で世界中を行き来できる。まさに天人のような生活をしているとは言えまいか。
そう考えると、私たちもこの世界から退くときには、地獄の十六倍もの苦しみを受けることになるのであろうか。頭に張り巡らしたいろいろな電波が意味をなさなくなったり、肌に心地よい服を着ても心地よさを感じず、暑くもないのに汗をかき、横になっていても目が眩み、どこにいても楽しくないということもあるであろう。まさに天人五衰のような苦しみをおぼえ現代人は最期の時を迎えるのかもしれない。
あまりにも便利で快適な何でも出来てしまうことに何の感激もなくなった私たちの末路はやはり苦しみがつきまとうのであろう。毎日当たり前のようにこの快適な世界で暮らす私たちではあるけれども、時に、そうした現代の利器を一切放棄した生活をすることも大切なことなのではないだろうか。車に頼らず歩いてどこにでも行ってみる。携帯やインターネットを使わない。テレビを見ない。音楽や映像のない自然との語らいを味わう。そうすることで日常では味わえない、安らぎを感じるということもあるのだろうと思う。そうしてこそ解脱に至る悟りということの意味もつかめることもあるのかもしれない。
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私は自分の息子たちがすでにこの苦しみを味わい始めている気がします。
便利すぎて感動も感激もないために、学校を卒業した後にやりたいことがないといいます。
大学選びすら、わからないと。
そしてそれを教えるすべも私にはわからなくて、どうしたらいいかなといつも考えています。
確かに、何から何まで小さな時に体験し、大きくなったときには何も新しくすることがない、何もしたいと思わないということなのでしょうか。かわいそうな気がします。
私たちが生きているということはとてつもなく沢山の人や沢山の命に助けられているということにまずは気がつかねばいけないのでしょう。
自分一人で生きているのではないと。自分が生きているということはこの世界が自然が沢山の命とのつながりがあるからこそだということが分かる必要があるのではないでしょうか。
もう亡くなられてしまいましたが、タイのお坊さんで藤川さんという方が、人生の目標がない若い人たちに勧めていたのは、ミャンマーのメッティーラというところの日本語学校の生徒たちの中に生活をさせるということでした。
何もないところでただ黙々と生き日本語を勉強している現地の子供たち。その明るさに幸せな笑顔に救われて、みんな、何もなくてもいいただ生きている幸せを味わい、自分も何かしようできるんだという気になって帰ってくるのだとか。
もちろん他の場所にもそうした何かを得させられる場所はあるはずです。歩いての四国遍路もいいかもしれません。是非何かを体験させてあげて欲しいと思います。
みんな自分だけの自分にしか生きられない尊い命を生きているのですから。
いろいろ仏教について造詣が深くまたとても大切なところをきちんと抑えておられるのですね。
お若いのにたいしたものだなと思います。若い時に仏教に出会い、またその教えを自分のものに出来るというのは今の時代そうできることではありません。
どうぞこれからも幅広くいろいろなことに関心をお持ちになって学ばれていって下さい。
またこちらの記事の内容で不審に思われるようなことがありましたらご指摘下さい。改めて考えてみたいと思います。
ありがとうございました。
さっそくなのですが、
>死後は浄土に往生したいと考える方もあるかもしれないが、それも実はこの天界の住人に過ぎない。仏教の世界観の中の浄土教なのであるから、仏国土に往生すると言っても、悟っていない限り仏界にはいけない。
親鸞は「地獄は一定すみか」と言います。
往生や悟りが欲しいという心が煩悩なのだと聞きます。
であれば仰る所の「悟っていない限り仏界にはいけない。浄土という見事な荘厳世界も、実はそこは天界に過ぎない」ことは、「自分の当然の事実」だと思われます。事実を拒否し、理想を渇望する姿こそ迷いではないのでしょうか?
と、ふと思いましたので不躾ながら書き込みさせていただきました。
どうもすみませんでした。
追伸です。
>死後はみないかねばならない来世があると考えるのが世界の仏教徒の常識である。
輪廻転生は釈尊が最初に否定されたことだったのではないのですか?
まず、仏教はお釈迦様のお説きになられた教えです。後世の人たちがどう言われようとも、その根本の教え、その世界観、生命観から逸脱してはいけないと思っております。
仏教はよい生き方を勧めます。なぜでしょうか。良くあらねば自分も周りの人や生き物にも良くないからです。
最高の生き方を求めて生きる、その先に悟りもあるでしょう。何もせず、あるがままに愚かな生活をしていても何も良いことはありません。
私たちの理想とする最高の生き方をなされたお釈迦様の生き方に学ぶことはいけないことなのでしょうか。
なお、輪廻転生をお釈迦様が否定されたとはどこに書いてありますか。誰が言われたことですか。初期経典のどこにもお釈迦様は輪廻を生きている私たちはそれを脱するために励みなさいと書かれていますよ。
仏教を根本から学び直してみてはいかがでしょうか。
随分と激高されているようですが、私は別に喧嘩を売ったわけではないのですが・・・。
初期仏教はカーストの否定から始まりました。
「生まれ変わっても同じカースト」という迷信からの脱却は仏教の大前提です。
輪廻とは「生まれ変わり」ではないはずです。
サンスクリットに当たれば、自分には「流転」に近い意味に読めます。
仮に「生まれ変わり」と訳されていたとしても、方便と読めます。
貴方は本当に「生まれ変わる」と信じているのですか?
>仏教はよい生き方を勧めます。なぜでしょうか。良くあらねば自分も周りの人や生き物にも良くないからです。
勧めますが、それを万人に勧め、万人が実現可能だという教えではありません。
むしろ戒は、戒めを守れない自覚を促すものではないですか。
「自分は清く正しく生きている」なんて、思い上がりも甚だしいのです。
自分の浅ましさに気付かないことほど浅ましいことはありません。
>最高の生き方を求めて生きる、その先に悟りもあるでしょう。
最高とはなんでしょう。
自分が思った「最高」など、欲望の満足にすぎません。
その先にあるものは自性唯心という迷いです。しかもそれを自覚出来ないような。
>何もせず、あるがままに愚かな生活をしていても何も良いことはありません。
人生とは愚かさの自覚が出発点だと思います。
「何もいいことはありません」・・・良いこととはなんでしょうか。欲望を満たすことですか?「悟りたい」というのも欲望です。
>私たちの理想とする最高の生き方をなされたお釈迦様の生き方に学ぶことはいけないことなのでしょうか
いけないとは一言も言ってませんよ。
以上です。
他人に「仏教を根本から学び直してみてはいかがでしょうか」といえる方には釈迦に説法かと思いますが、お返事まで。
>随分と激高されているようですが、私は別に喧嘩を売ったわけではないのですが・・・。
激高などしておりませんが、そのような紋切り型の書き方になっていたとしたら失礼しました。
>初期仏教はカーストの否定から始まりました。
カーストに限らず、人は生まれによって悟りがあるないとは言わないのでカーストを否定されただけであって、初期仏教がカーストの否定から始まったというのは違うように思います。
>輪廻とは「生まれ変わり」ではないはずです。
サンスクリットに当たれば、自分には「流転」に近い意味に読めます。
仮に「生まれ変わり」と訳されていたとしても、方便と読めます。
パーリ仏典を読めばお釈迦様ご自身が生まれ変わっていくんですよと何度も言われています。そもそもお悟りになられるときにご自身の過去世をご覧になられて因果を悟り第一の明智を開かれています。
>貴方は本当に「生まれ変わる」と信じているのですか?
お釈迦様のおっしゃられたことですから、そのまま素直に信じています。それが世界の仏教徒の立場であり、常識です。
>勧めますが、それを万人に勧め、万人が実現可能だという教えではありません。
だから何度も生まれ変わりしながら功徳を積み、心を清らかにするために修行していくのです。
>「自分は清く正しく生きている」なんて、思い上がりも甚だしいのです。
誰も完璧でないというのは人間として生まれている者にとって当然のことです。だからこそより良くあるように努力するのです。清くない自らを知ってこそ成長があります。
>最高の生き方を求めて生きる、その先に悟りもあるでしょう。
最高とはなんでしょう。
自分が思った「最高」など、欲望の満足にすぎません。
その先にあるものは自性唯心という迷いです。しかもそれを自覚出来ないような。
最高というのはお釈迦様の生き方のことです。その生き方に学ぶということです。そんな難しい言葉を使うまでもなく、私たちは悟っていないのですから、迷いの中に生きているのです。だから、少しでも良くありたいと思うのは自然な感情ではないでしょうか。
>人生とは愚かさの自覚が出発点だと思います。
あなたはどこに向かってご出発なさるのですか。
>「悟りたい」というのも欲望です。
悟るとは何でしょう。そんなに欲を掻き立てるようなものなのでしょうか。ただこの世の真理に気づき、素直に生きていくこと、ないし生きられることではないですか。
仏教とは何か、その根本の論点が異なるように思えます。残念です。
ご丁寧にお答えいただきまして有難うございます。
>仏教とは何か、その根本の論点が異なるように思えます。残念です。
同感です。が、私は残念には思いませんよ。
ものを言えば相違も明らかになります。それはより深めあえるということですから。
もうほとんどが私が頂くものと違っていて、本当に勉強になりました。
その最たるものが
>だから何度も生まれ変わりしながら功徳を積み、心を清らかにするために修行していくのです。
この部分です。ということは、現在の人生自体を「来世」の糧にするということですよね。
「生まれ変わったらもっと良い生き方を、だから今は辛抱」ですか?
この理屈は、過去に仏教界が犯してきた差別問題を肯定することにつながる、危険な思想です。
たとえばハンセン病とかですけど。
「貴方達は過去の因縁によって現世でこの病になった」とか言いました。
人間から主体性を奪い、思想に隷属させ、人生をあきらめさせる教えです。
>あなたはどこに向かってご出発なさるのですか。
仏教は、「人生を無駄に生きたくない」という、人間の根本問題を考える教えです。
「どこに向かって」ではなく、まずは「出発点」が大事なのです。出発点を疎かにしてはあらぬ方向に行きます。
「あなたはどこに向かってご出発なさるのですか」という問いの前に、「あなたは今どこに立っているのですか」と問うべきだと思います。
>ただこの世の真理に気づき、素直に生きていくこと、ないし生きられることではないですか。
求める「真理」の対象は「この世」ではなく「自分」ではないでしょうか。
「本当に自分の人生を生きる」ことではないでしょうか。
私は「残念」ではありません。非常に有意義にお話を頂戴しております。
もし宜しければ三度お返事を頂けますと幸いです。
三世因果という言葉がありますように、前世があり今世があり、来世がある。私たちはただこの今の身体を頂いて命をつなぎ生きているだけなのです。悟り解脱しなければこの苦しみの多い輪廻から抜け出ることはできないというのが仏教の根本にあり、だからこそお釈迦様は苦行の末に禅定にはいられ悟られたのです。
ハンセン病で生まれた方がどれだけの苦しみの中で生きられておられるのかは想像すら出来ませんが、普通に生まれた人も同じように危険と苦しみの中にあるということに気がつかないだけではないですか。五体不満足の乙武氏は大変な人生ではありますが、自らの持てる力を存分に発揮されてご活躍です。
私たちも来世でどんな身体をもらえるのか分かりません。地獄かもしれないし餓鬼に行き苦しむかもしれない。誰もがそんなに恵まれているわけではないのです。あすはわが身。差別など出来る立場にはありません。
今世で過酷な人生を得た方でも、来世は素晴らしい命を得られるかもしれない。それはその方の生き方、心次第なのです。
一回きりの人生だからと言われたら、人生は諦めるしかないと思えるかもしれませんが、そんなことをお釈迦様は教えられてはいません。
あなたは今どこに立っておられるのですか。悟らぬ限り、みんな凡夫です。迷い、悩み、苦しんでいます。そこからどう生きるべきなのかを学ぶのが仏教です。
私も同じです。より良くありたいと思っています。