住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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日本の古寺巡りシリーズ番外編「永平寺・那谷寺・竹生島参拝と山代温泉」

2007年06月16日 19時09分24秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
13日午前7時、いつものように国分寺前バス停から乗車する。この日本の古寺巡りシリーズも三回目。同行29人の参拝者を乗せて、笠岡インターから山陽道へ。今回は、特にこれまでに室生寺ないし三千院の参拝にご参加されている方々ばかり。みんな知った顔ぶればかりの和やかな雰囲気だ。

恒例の道中祈願に、般若心経とこの度参るお寺の諸堂でお勤めする仏様方の真言を唱える。そして吉備から三木までの1時間少々、今回の旅のテーマである修行ということを中心に、私のこれまでの経験上の話をさせていただいた。

まず、仏教に関心を持っただけの時期、丁度、NHKの特集番組で「シルクロード」が放映されていた。毎月欠かさず見ているうちに、テーマ曲にあわせ瞑想の真似事を始めていた。曲にひたり、砂漠を駱駝の背に乗るキャラバン隊が行く映像をイメージしながら、暫し自分だけの世界に没入していた。

そして縁あって高野山に登り真言僧となるための100日間の修行をした。日に三座、108礼の礼拝行からはじめて、十八道、金剛界、胎藏界、護摩の修行を進めていく。途中から、朝昼の二食にして、三座とも水をかぶってから行にのぞんだ。はじめ三座で6時間程度の行が、最後には、10時間程度を要し、それと別に朝夕の勤行に、伽藍や奥の院への参拝があった。

途中何度も修行中に、随分昔の過去の記憶が蘇ってきた。後悔するような出来事であったり、馬鹿にされて心傷ついたこと、世話になっていた方に御礼一つ言っていなかったこと等々。そうした様々な過去の出来事に自分が影響され、感情的に不安定な状態をそれらがもたらしていたことも知ることになった。

最後の一週間、断食をした。その前に、それまでは、全くと言っていいほど、自分自身のために仏菩薩に御願いをする祈るということをしないできたのに、なぜかこの最後にきて、一人本堂に入り、仏前で、心からの祈念を施した。「この一週間なんとかよろしく御願いします」と。

そして、断食に入り、護摩を三座焚く一週間が始まった。午前1時半に起き、3時間余り護摩を焚く。朝勤後、食事となるが自分は自室で待機。それから、また護摩を焚いた。きつかったのは、3日目くらいで後は楽になった。不思議なことに、廊下の足音を聞くと、それが誰の足音かが分かるなど遠くで行われていることがみんな分かるような感覚になった。食事を消化吸収するエネルギーはすさまじい物で、そのエネルギーがみんな精神面に向かっているように感じた。

それから、高野山では、真言宗の瞑想である阿字観を実習した。下山して、東京のお寺で役僧を勤め、その間にはヨガを習い、インドに行った。仏蹟地からリシケシに入り、そこで臨済宗の雲水さんに出会い、四国遍路と坐禅について教えられた。日本に帰り、禅寺に案内され、接心と言う一週間の座禅会に参加した。

そこでは日に10時間ほども坐禅する。足ばかりか、手の先から首まで筋がはって痛んだ。その痛みを避けるように一心に数息観をした。息の数をかぞえる坐禅法で、よどみなく伸びやかな腹式呼吸に心を集中させていく。

そうして公案なども織り交ぜて、ひらめき直観による悟りを目指すのが臨済禅で、その後参った永平寺の曹洞禅は、只管打坐と言われるようにただひたすら座ることがそのまま仏の姿であり、悟りのための坐禅ではなく、仏としての坐禅であると標榜している。そして、立ち居振る舞い、日常すべてが禅であり、仏の真似をするのだと考える。だからこそ、炊事から掃除作務を細かく規定し、やかましく躾けられる。

こんな話をしながら、福井へと入り、永平寺を参拝。雲水さんの案内で諸堂を巡り、法堂でお勤め。さすがに永平寺さんだ。諸堂を廊下づたいに歩いても足袋が全く汚れなかった。

翌日は、山代温泉から加賀の那谷寺に雨の中参拝。白山信仰と仏教が融合した神仏習合の霊場だ。花山法皇ゆかりの寺であり、また前田家祈願寺としての雄大な伽藍配置。修験者の行場奇岩遊仙境、新しい丈六の千手観音も素晴らしかった。

そして最後に竹生島弁財天に参る。午前中は長浜からの舟が欠航との報を受け緊張するが、何とか渡航できたが、帰りの舟の乗船時間が早まり慌ただしく参拝。急な石段を登り、弁財天本堂に参り心経を唱える。さすがに音楽の神、みんなの読経も声が揃いひときわ響きわたったように感じた。

宝物館では、御請来目録、覚鑁上人阿字観本尊、弘法大師諡号授与状などを拝見する。それから唐門観音堂を参り、竹生島神社本殿に参り船着き場に。みんな満足そうな笑顔でお参りを終えた。

竹生島は周りを水深100メートルという深海に囲まれた神秘の島。舟が沈めば命がない。命がけの信仰者のみを受け入れるという神の意思を表示しているかのような孤島であった。

帰りのバスの中では、黒澤明監督第30作記念映画「まあただよ」を見た。夏目漱石門下の作家内田百間とその弟子達との交流を描いた作品。弟子達が百間に長生きしてくれることを願って、摩阿陀会という誕生会を開く、成仏は「まあだかい」と弟子達が叫ぶと、百間が「まあただよ」と言い返す。戦後間もなくの占領下にあって何とも微笑ましい仲間達のやり取りに今の私たちが見失っている心の豊かさ、たくましさ、暖かさを感じさせてくれた。

亡くなる前の摩阿陀会で弟子の孫たちに百間は、「君たちの本当にしたいことを見つけてください、そのことに真剣に打ち込んでください、そうすればそれが君たちの立派な仕事になるでしょう」こんなことを言っていた。私たちは本当にしたいことすべきことをしているだろうか。いろいろと考えさせられる映画であった。

日本の古寺巡りシリーズ番外編と称して、この度は一泊二日の盛り沢山の行程であった。これまでの室生寺、三千院の参拝のようにテーマを絞った話が出来ず申し訳なく思った。最後に慈悲の瞑想についても話したが、十分な解説もできずに終わった。次回以降にまたそのあたりも一つのテーマとして大いに語ってまいりたいと思う。

私自身が今ひとつ満足のいく話が出来ない中で、この度も企画添乗いただいた倉敷観光金森氏の紡ぎ出す和やかな雰囲気によって、参加者一同はおもしろ楽しく、まことに心地よい二日にわたる旅を満喫できたと思う。心から感謝します。次回11月には西方面に向かう古寺巡りが既に話題に上っている。是非、次回もお楽しみに、沢山の皆様のご参加をお待ちしています。

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3 コメント

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身体が「語る」 (たかひろ)
2007-06-18 07:29:34
全雄 君 へ

別のところでも、書きましたが
「本当にやりたいこと」をしている人は「犠牲」を払って
自分を「律して」、厳しく「節制」しているように「見える」
事が多いと思います

しかも、本人はまったく「我慢」や「義務感」を感じていない
(最初から、そうとは限らないと思うが)
見方を変えれば、無理は続かない、という事でしょうか?

僕らがこの「物質の身体」を離れる「瞬間」まで
全ての可能性に心を開いておくことは「大切」でしょうが
一回ごとの人生は短いもの、そう多くは「体験」できない

「本当にやりたいこと」をやっている実感をもてるのは
かなり「幸せ」なことと感じます、、、

ひとついえるのは、「身体」は正直なサインを伝えてる
気持ちがあっても「身体」がどうしても駄目と言うなら
それは「ほんとうにやりたいことではない」と思います、、、
返信する
心は語る (全雄)
2007-06-18 17:20:08
本当にやりたいことをしてるかなと思うと、私は結構他の人に比べたら、幸せなのではないかと思っている。自分の好きなことを勉強し様々なことを書いたり、語ったりということがそのまま自分の仕事に繋がっているから。それはありがたいことなのだと思う。

それを人は自分を律しているやら、他を犠牲にしているというかも知れないが、それは好きでしていることなのだから、苦行でもなんでもない。

だが、そのモチベーションを常に同じレベルで維持するということがまた一つの課題になる。興味を持つ分野も様々で、仏教というジャンルの中でそれでは本当に自分にとってすべきことは何か。本当にしたいことはどれなのか。というとこれまた難しい。心に静かに聞くことも必要なのかも知れない。心が語ることに耳を傾けることも大切なのではないか。
返信する
Unknown (noriko)
2015-02-16 01:39:44
>過去の出来事に自分が影響され、感情的に不安定な状態をそれらがもたらしていたことも知ることになった。

良かったですね…本当に。
お分かりになって、良かったですね。
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