住職のひとりごと

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永平寺・那谷寺・竹生島参拝 5

2007年06月07日 08時12分14秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
竹生島参拝
  
船着き場からの石段は、まことに急な傾斜で息を切らして登る。165の石段が続く。本尊弁財天が納められた竹生島最大の建物である本堂に参る。本尊は明治維新の際、神仏の分離があって以来七十年近くの間仮安置のままとなっていたところ、これを憂いた信者滝富一郎氏の一寄進にて、昭和12年現在の本堂に造営着手、昭和17年(1942)落成した。悲願の本堂なのである。

平安時代後期様式の本堂は屋根も総桧皮葺き。昭和の大仏堂の代表作と言える。壁画はお堂正面に諸天神の図、左右天井近くには飛天の図が描かれている。これは昭和の日本画壇の重鎮であった荒井寛方(アライカンポウ)画伯 の遺作である。寛方は、若い頃タゴールのいるインドシャンティニケタンに学んでいる。

弁財天はもともとインド古代信仰の水を司る神「サラスヴァティー神」で、インドでは「水」には汚れを洗い流す力があるというところから、智恵の神、学問の神、河の美しいせせらぎから音楽や弁舌の神、河の恩恵から、豊饒至福、河の水の強さから戦闘、増福の神であった。

日本に来ると、農業の神・宇賀御魂神(うがのみたまのみこと)や宗像三女神の一つ市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と習合して、財物富貴、名誉、福寿縁結び、子孫繁栄、芸道、商売の守り神が加わって殆どの人々の願いを叶えてくれる神として、さらに七福神の一人として民衆の信仰を集めてきた。

『和漢三才図会』によれば、竹生島の弁天様は妙音天女と記されているから、琵琶を弾じる二臂の弁天像となる。しかしお前立ちは八臂の宇賀弁財天である。因みにその特徴は、頭の宝冠の上に鳥居を乗せその後ろにとぐろを巻いた宇賀神がおり、左手は胸の前に宝珠、その他矛(ほこ)、輪宝、弓を持ち、右手は前に剣、宝杵、鍵、矢を持ち、蓮の葉座に天衣を着ている。(秘仏のご本尊は60年に一回開帳、次回の開帳は西暦2037年)

そして、本堂を出るとその前に、五層の石の仏塔がある。地・水・火・風・空の五大をかたどったものといわれ、高さ247cm。石材は滋賀郡の山中から採れる小松石。初重塔身には四仏が彫られている。初重以上の屋根はその上層軸部と一石彫成となり、上に相輪あげたての形式は鎌倉中期の石塔の特徴を示している。

それから、三重の塔が本堂より一段上東側にある。塔は本来、お釈迦様の遺灰を納めた土饅頭型の仏舎利塔であったが、所と時代により変形した。平成12年5月、江戸時代初期に焼失したと言われている「三重塔」が、約350年ぶりに復元された。

この塔は、古来の工法に基づいて建築されていて、四本柱に32体の天部の神々を描き、また、四方の壁には真言宗の八大高祖を配している。各柱や長押にはうんげん彩色や牡丹唐草紋様が描かれており、これらの装飾は、昔ながらに岩絵の具を膠水で溶いて描いているため、耐久性に欠け剥落もしやすく、新しい色合いにて見れるのもこの新築時しかないものだと言われる。

三重の塔の前に、もちの木がある。この木は、1603年、豊臣秀頼の命を受け、普請奉行の片桐且元が観音堂、唐門、渡廊下を移築したときに、記念にお手植えされたもの。片桐且元は豊臣秀頼の後見役で、賎ヶ岳合戦で七本槍の一人として名をあげ、秀吉のもとで検地・作業奉行として活躍した。

三重の塔の先には、宝物殿がある。竹生島は、滋賀県における文化財の一大宝庫といわれ、ここに宝厳寺に伝わる数々の寺宝を収蔵・保存・一般公開されている。「法華経序品(竹生島経)」(国宝)や、弘法大師直筆「御請来目録表」(重要文化財)をはじめ、数々の宝物が収蔵されています。

まず、「不動明王像」は県の指定文化財。悪魔を下し、仏道に導きがたいものを畏怖せしめ、煩悩を打ちくだく力をもち、菩提心の揺るがないことから不動という。仏や真言行者によく仕えることから、不動使者ともいい、猛々しい威力を示す怒りの表情を浮かべ、右手に剣、左手に羂索(けんさく)を持っている。

頭に蓮の皿をのせており、この特色は天台寺院に伝わる不動明王の形で(これは中世、天台宗に属していたため)天台智証大師 円珍の作と伝えられている。密教では、真言陀羅尼(呪文)を一心に唱えると、その功力は絶大であり、いろいろな祈願がかなうという信仰があり、その功力を象徴する存在が不動明王である。もとは護摩堂の本尊で、像の主要部は、頭体を通してヒノキの一材で彫刻し、両肘から先は後補のケヤキ材製でできている。十一世紀前半の作。

「釈迦三尊像」は、温雅な作風ながら精緻に描写した、重要文化財。法華経を説く釈迦を護持するように左に文殊菩薩、右に普賢菩薩を配されている。釈迦は右手を胸前に施無畏印を結び、左手をひざ前で与願に結んで結跏趺坐しておられる。文殊菩薩は右手に三鈷の利剣を、左手に蓮枝上梵篋を執って緑青の獅子の背に乗られている。普賢菩薩は合掌して白象のせに乗られ、光背(後光)は切金細工が施されている。鎌倉時代後半期の作。

「御請来目録」は、弘法大師が唐での密教修行を終えられ帰朝された807年、平城天皇に献じた経論疏類の目録である。重要文化財。本文にあたる料紙には薄い金箔を施し、510行にわたり新訳等経142部247巻、梵字真言讃42部44巻、論疏章等32部170巻、その他の各項目をあげ、奥書に「大同元年十月二十二日入唐学法沙門空海」とあり、平安時代中期の写本。

なおこの請来目録にはその伝来を明確にさせる文書として「禅師宗光が長年保持していたが、仏法興隆衆生利益のために、竹生島神殿に南北朝時代の観応元年(1350年)に奉納した」と記す寄進状も付属してる。

「金蒔絵小塔」は、徳川家光公の寄進で、高さ63.5cmで須弥檀上に乗る。初重は一辺12.5cmで23重は亀腹を造り円筒形軸部を載せる。全面黒漆塗で、須弥檀縁・匂欄、初重柱・斗・肘木は朱漆塗、須弥檀・軒・屋根・扉などは金蒔絵が施される飾金具を多用する。初重内に仏像台座があるが 、現在、安置仏は無い。 製作:江戸初頭か桃山期か。

「国宝・法華経序品」は、弁才天に奉納された妙法華経で、平安時代後期の作。平安後期になると料紙・装濆に美をつくした経典作りがさかんに行われた。これは鳥の子紙の料紙に金銀泥で宝相華風の唐草や蝶をあしらったもの。装飾経としては日本の代表作で、竹生島経とよばれています。現在、奈良の国立博物館に寄託されている。

「宝来亀」は、江戸時代に彦根藩より、その家系が絶えず末代までも安泰でありますよう願って奉納されたもの。彦根城は正式名を金亀城(こんきじょう)とよばれ、それを現した姿は木製で亀の背中に宝珠がのせられて、全体が金箔を施されていた。宝珠は一木でできている。亀は長寿の象徴であり宝を背負った姿は子孫繁栄、国家安泰を現している。

そこから、少し下ったところに観音堂があり、その唐門は、国宝。唐門とは唐破風をもつ門の意味で、豪華絢爛といわれた桃山様式の唐門の代表的遺構。この唐門は京都の豊国廟の正門に使用されていた極楽門が移築されたもので、桧皮葺の屋根を持つ。この移築工事は慶長八年(桃山時代)、豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行としておこなわれた。

観音堂は、重文。唐門に続いて千手観世音菩薩を納めたお御堂があり、西国三十三所の第三十番の札所で、重要文化財に指定されている。このお堂は傾城地に建てられた掛造りで、参詣する仏間は2階にあたる。天井裏にも昔の絵天井の名残が見て取れる。

西国観音の札所本尊、千手千眼観世音菩薩は、衆生(しゆじよう)の声を聞き、その求めに応じて救いの手をさしのべる慈悲深い菩薩が観世音菩薩。特にここの観世音菩薩は正式名を「千手千眼観世音菩薩」といい、各手に一眼を持つことにより少しでも多くの人を助けたいという慈悲の強さを表したお姿をしているという。

この観音様も弁財天と同様に秘仏のため、60年ごとの開帳。なお、西国三十三所観音霊場は、平安末期に始まった日本最古の霊場と言われている。

千手観世音菩薩を納めた観音堂から都久夫須麻神社に続く渡廊・舟廊下は、朝鮮出兵のおりに秀吉公のご座船として作られた日本丸の廃材を利用して作られたところから、その名がついている。これも唐門、観音堂と同時期に桃山様式で作られたもので、懸け造り。

その先に、竹生島神社本殿があり、桁行3間・梁間3間・入母屋造・檜皮葺き、周囲に庇を廻らす、1間の向拝付き、国宝。今から450年前、豊臣秀吉が寄進した伏見桃山城の束力使殿を移転したもの。

本殿内部は桃山時代を代表する、優雅できらびやかな装飾があり、天井画は60枚で狩野永徳光信の作。黒漆塗りの桂長押には金蒔絵(高台寺蒔絵)が施され要所には精巧な金の金具がうたれている。

なお、竹生島最大の行事は、蓮華会と言われ、(旧来は弁才天様を新規に作造して、家でお祭りし8月15日に竹生島に奉納する行事)浅井郡の中から選ばれた先頭・後頭の二人の頭人夫婦が、竹生島から弁才天様を預かり、再び竹生島に送り返す。

元来は天皇が頭人をつとめていたものを、一般の方に任せられるようになったもので、この選ばれた頭役を勤めることは最高の名誉とされてきた。この役目を終えた家は「蓮華の長者」「蓮華の家」と呼ばれる。

頭人は、出迎えの住職・役員・三人の稚児とともに、島の中腹の道場に入り休息、その後おねりの行列が出発。そして急な階段を一歩一歩踏みしめて登り弁天堂に入場する。その後、弁才天様を祭壇に安置し、荘厳な中で法要が行われる。

以上竹生島の参拝ルートに従って境内の様子を見てきた。竹生島弁財天は、古来琵琶湖に浮かぶ島としての様々な伝説の元に、そこに降臨して人々の願いを存分に叶えてくれる女神として信仰されてきた。時代に応じて、皇室や守護大名たちの関心を引かずにはおかない魅力があったのであろう。

加えてその島へは舟で渡らねばならず、さらに長い急な石段を登らねばお参りできないために、簡単に参れないことも、その神秘性を高め、よりありがたい存在として崇められる要因になったと考えられる。西国観音の札所として札所巡拝に訪れた観音信者にも弁天様は参拝される。それにより、より多くの人々に知られ、弁天様への信者が絶えない理由となっているのであろう。

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