住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

昨日の薬師護摩供後の法話より

2018年11月22日 11時43分02秒 | 仏教に関する様々なお話
最近あったことからお話し申し上げる。先月ある高僧と話をしていましたら、真言宗は本覚思想であるから、みんな仏の命をいただき生まれてきて、死ぬるときには仏の命に還っていくのだ、自分が仏と思えないのは心がいろいろな煩悩で曇っているからであり、自分が本来仏であると気がつくことが大事なんであるといわれた。みんな死んだら仏になるんだということにもなるが、はたして弘法大師の著作の中にどのように書かれているのか、性霊集などでの大師の文章には、「輪廻に沈淪する衆生」という表現が多く、みんな死んだら仏などと受け取れる箇所はないと認識しているが、いかがなものであろかというのが率直な感想のまま帰ってきた。

大正5年に発行された『真言宗義章』という当時の真言宗の高僧方が共同で書かれた書物に、即身成仏には機根による別があり、上根上智の人は今生にて三密修行によって即身に成仏することは可能であるが、下根劣慧の人は今生では真言宗の教えに出会えれば地獄餓鬼など悪趣に堕ちることなく、一密行にて来世は浄土に往生して、二生三生のちに三密相応して成仏も適うかもしれないという書き方になっている。この場合の上根上智とは、弘法大師ほどのお方のことであるという。その他大勢の僧俗はみな下根劣慧に列するということであろう。であるが、その弘法大師にしても、自ら兜率天に転生すると言われて定に入られたのであるから、末世の私たちが簡単に成仏するなどと言えないのではないか。

お釈迦様にしても、六年もの苦行のすえ、瞑想し悟りを得られたのであり、各宗派のお祖師方にしてもみんな命をかけて修行をして、なにがしかの結果を得て自信を持って教えを説かれたものと考えられる。普通に生活していて、もちろん人生の荒波を越えてきたとは思われるが、それでもみんな死んだら仏になれると言ってしまうのは、どんなものであろうか。みんな業を相続し、今生での行いも性格も違い、それなのにみんな行き先が同じというのもむしがよ過ぎる考えではないかと思える。

なぜそのようなことになってしまったのか。人が死ぬとその遺体を仏様と言ってしまう日本人的表現をすることがあり、また死ぬことを成仏されましたと言ったりすることがあるが、そうした文化的なオブラートに包んだような表現と、本当にお釈迦様のような何回も生まれ変わり功徳を積んできて、さらに長年の修行のすえに得られた悟り、成道、解脱とを同じものと考えてしまう錯誤ということがある。

さらには、平安中期以降に末法の世が当来するという不安から、浄土信仰が全国に流行し、信仰しさえすればみんな浄土に逝けるという安易な受け取り方が蔓延した。そして、そのように言ってくれる教えがありがたい、上等な教えであるという錯覚を与え、他宗の仏教者たちもそれにならい、いつの間にか、唱えるだけでよい、信仰しさえすれば良い、みんな救われるというような安易な表現を用いて教線拡大、ないし防戦することになり、冒頭申し上げた本覚思想などというものも流行したと考えられる。そうして、益々本来の教えとはいかなるものかと解らなくなってしまったのではないかと思える。

さらに、一切衆生悉有仏性、山川草木悉皆成仏、などという言葉があるように、仏性、ないし如来蔵ともいい、みんな仏になる可能性がもともと備わっているとする思想があるが、それは単に可能性であり、だからといって、死んだらみんな仏という意味にはならない。煩悩に覆われていたら仏にはならないことは当たり前のことであろう。お釈迦様でさえ、他者を悟らせるために教えを説き、その後の本人の修行努力によってそれは実現していかれた。如来は法を説く者であるといわれる。お釈迦様でも、仏弟子たちも、拝んでその人の業を生滅させて悟らせたなどということはなされていない。

今日こうして、護摩のお参りに来られ、何遍となく心経を読誦し、本尊藥師如来の真言はじめ諸真言をお唱えになられた功徳、護摩の火に日頃の様々な思い、はからい、心配ごと、悩み、わだかまり、苦しみのすべての思いを、護摩の火を一心に見て唱えることで、放下し尽くしてしまうこと、仏様に何もかもお預けしてしまう功徳は何から得られるかと言えば、それらはみんな仏教の最高価値である悟りに向かう行いだからこそであろう。そうした心浄める行が、たとえ一歩でも半歩でも、悟りに向かう善行となり、善業を積む行為であるからこそ功徳がある、だからこそその功徳によって添え護摩の木に書かれた様々な願いもかなえることもできると考えるのではないか。

みんな仏様ですよ、死ねばみんな仏ですよと、そんなことを他国の仏教徒が聞いたら、笑ってしまうか、crazy だと思われるであろう。それこそ修行も、教えも、戒も、不要。無価値であり、何をしても無駄なことになる。このあたりのことが、実は世界の仏教徒との一番の齟齬をきたす問題点であろう。著しく仏教の価値を貶めていることに気がつかないでいる。これでは、みんなただ楽しく一生過ごせたらもうそれで充分という人生観になってしまうが、だがはたしてそんなに人生は簡単なものであろうか。

何が本当のことか、何のために生きるのか解らない世の中ではないかと思う。人生とはなにか、何のためにあるのか、生きるとはなにか。自らの生きる目標、目的をかなえる、自己実現のためにあると考える人もあるかもしれない。しかしその目標が本当に自分の求めるものなのか、本当にかなえたいこととは何かと考えたとき、その先にある最高に価値あるものを目指すべきではないかと考えねばならないのではないか。

人生は一人一人みな日々向上するためにある。何に向かって向上するのか、私たちが理想とするもの、思わず礼拝してしまうような存在、本当に間違いの無い存在とは、やはりそれはお釈迦様、仏様のほかにはないのではないか。であるならば、仏教徒にとっての最高価値とは、仏様が実現された悟りということになる。毎日嫌なことが続いても、大変でも、つらいことがあっても、同じ事の繰り返しでも、私たちの行いのひとつ一つはみんなその悟りにつながるものである、そのための学びであり功徳であると思って精進せねばならない。

大乗仏教では、悟りに向かい修行する人を菩薩といい、菩薩はすべてのものを悟らせてから成仏するという誓いを立てる。大乗仏教を信奉する人はみな菩薩であるといわれる。その菩薩が死んですぐ成仏してしまってはやはりいけないのであって、何度も生まれ変わり、そのつど仏教徒となり菩薩として他者のために菩薩行を行って、世の中のために尽くす、それが本来のあり方ではないか。上求菩提・下化衆生とは菩薩の生き方であり、何度生まれ変わっても、自ら悟りを得るために精進しつつ、他者の喜びを我が喜びとする、他者が困っていたら救うために努力する、そうして功徳を積む、それがやはり私たちの理想的な生き方であろう。(本年11月4日「木村泰賢博士著『大乗仏教思想論』に現実的輪廻論を学ぶ」参照)


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8 コメント

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糞かきベラ (禅看護師)
2018-12-04 20:32:46
私は数年前になりますが1週間泊まり込みで坐禅をしたことがありまして、人が死に際して花畑を見ると言うことと禅の悟りとは同一のものではないかと思いました。
ある高僧は仏とは糞かきベラのようなものと言ったそうですが、何もわからない身ですが感銘を受けました。
修行をすれば尊いというものでもないのではないでしょうか?
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禅看護師さまへ (全雄)
2018-12-05 08:24:27
たびたびお越しをいただき、コメントを残してくれてありがとうございます。

一週間の座禅とは接心のことでしょうか。私も過去に三度ほど参加させてもらったことがあります。見性とはいかがなものか存じませんので何とも申し上げようもありません。

糞かきべら、まさに仏はそのようなものとして私たち自身にとって意味あるものと言えましょう。決して私たちが望んでいるご利益をもらうものではない。

修行をしたと、かえって自我をつのらせては修行とも言えませんでしょう。糞かきべらの役割を修行がなしてはじめて尊いものと言えるのではないでしょうか。

ありがとうございました。

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仏性とは? (禅看護師)
2018-12-05 20:07:36
私はある座禅会に所属しており、数年前接心会に参加して、見性したとして道号を頂きました。
何もわからない身で恥ずかしい限りですが、坐禅をして内に閉じこもるのではなく、心を外に開放する気持ちになったときに何ともいえず幸せな気持ちになり、お釈迦様とも対等に話をできるような気分になったことを覚えております。
ほんの一瞬だけ世界と一体になったような体験であり、その後同じ経験は一度もありません。
現在は数年間道場に足を運んでおらず、一人で坐禅をしております。

乏しい知識で恥ずかしいのですが、最近手塚治虫の「ブッダ」を読み返しまして、「ずっとたどっていけば誰も彼も一人残らずみんな不幸なのだ。この世に幸せな人間などありはしない」という言葉に感銘を受けました。
「人生は苦なり」と言いますが、生きることそのものが修行と言っても良いのではないでしょうか?
その意味で、死ねば仏、全ての人だけでなく、動植物、道端の石ころにさえも仏性があるというのは正しいのではないかと思っております。

唯識では、「あの人は嫌な人だ」と思うことは幻想であり、自分すら存在しないと説くそうです。また、道元禅師は悟ろうと思う心も煩悩と説いているように思えます。
禅は実践が全てであり、禅学にとどまってはいけないとの戒めもありますが、今後も坐禅とともに少しずつ禅や仏教を学んで行きたいと思っております。
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禅看護師さまへ (全雄)
2018-12-06 08:02:40
さとりと見性とは違うものだと思いますが、貴重な体験ですから、是非今後ともそのことを捨てて坐禅を続けられますことをお勧めいたします。

生きること自体が修行と、もちろん言えるのかと思いますが、だからといって、死ねばみんな仏とはならないように思います。悟りとは修行したら簡単に得られるものでしょうか。

草木国土悉皆成仏とか山川草木悉有仏性とかいいますが、中国でできた言葉でしょう。初期仏教では六道に輪廻する衆生であるから解脱があり、悟りがあると考えます。

あの人は嫌な人との認識も妄想でしょう。自分と思っている存在も、無我ですから、本当は存在しえないということでしょう。悟りたいと思うことは、その純粋さが問われるのではないかと思います。お釈迦さまも、この世の真実とはいかなるものかと探求され瞑想に入られたのですから。
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初期仏教、大乗仏教 (禅看護師)
2018-12-06 09:42:49
私の所属している坐禅会は在家禅ですが、見性して坐禅を辞めてしまうなら却って害になるので、一生坐禅を続けるようにと教わりました。
初期仏教は出家者の悟りを目的としており、大乗仏教では在家でも悟りを得られると教えているのではないかと思っております。
働きながら修行を続けるのは中々困難であり、そもそも仏教に関心の無い方も多いと思います。
しかし、武道者や一流のアスリートの方などは修行をしなくても見性と同じ感覚を知っているのではないかと思われます。
その意味で仏教の修行ができる恵まれた環境にある方のみが尊いというのは、傲慢のように感じられるのです。
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禅看護師さまへ (全雄)
2018-12-07 06:54:08
お釈迦さまはそもそも相手に合わせて法を説きましたが、それは出家者と在家とを分けたわけではありません。在家者も悟りの最終段階に入ると在家の生活が難しくなるということで、阿羅漢になる際にはどうしても出家をしたような生活に入るとされているだけです。

現在の日本仏教では、お寺に住んでいても修行を続けるのは難しいことです。

武道者、アスリート、それぞれに超越した精神力を得るためには特別な体験を経ておられている方も多いと思います。

仏教の修行ができる環境にある人が尊いとは思いません。逆にそうあらせられている、修行させられている環境に生まれてしまったともいえます。ただそういう場にあるように生まれた、因縁があったということにすぎないと思います。
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悟るということ (きりぎりす)
2019-01-05 01:43:07
4ヶ月で悟れるそうです。本当は人生にこぎ出す前、小学生ぐらいのうちに悟ってしまった方がいいです。妙な承認欲求で無意味な競争心に駆り立てられる人生なんか、平和の敵です
https://aishinbun.com/clm/20190104/1905/
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きりぎりすさんへ (全雄)
2019-01-05 06:39:52
おはようございます。いつも貴重な情報をありがとうございます。大変興味深い記事でした。参考にさせていただきます。ありがとうございました。
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