(仏教総合雑誌大法輪6月号特集「知っておきたい仏教の常識」掲載)
日本仏教は、そのはじめから国家仏教であり、僧侶はもとから国の庇護と規制の下に置かれた。
七五七年、『僧尼令』二十七条が制定され、僧尼の出家には官の許可を要した。試経という試験に合格すると剃髪し、受戒(四分律二五〇戒)が行われた。律蔵に規定された通り「交淫、盗み、殺人、悟りを得たと詐称する事」が重く禁ぜられ、犯すと還俗しなければならなかったのである。
この時代にもまったく破戒僧がいなかった訳ではないだろう。しかし、官僧として大戒二五〇戒を受持する制約があった。
しかし、後に天台宗では、大乗梵網経にある十重四十八軽戒をもって僧侶の受戒と見なす大乗戒壇を比叡山に建立した。これにより大戒を受持せずとも官僧として遇されることとなった。
このことが、後生の僧侶に厳正な戒律に対する意識低下を助長することになったのである。
鎌倉時代以降、官僧を脱して自由に活動する僧侶が増えて一層戒律が軽視された。
僧兵が現れて不殺生戒を犯し、「末代には妻もたぬ上人年をおうて稀にこそ聞こえし」(沙石集)と記されるように、隠れて妻帯することも特別なことではなかったであろう。だからこそ、慚愧の念をもって公然と妻帯する僧侶も現れてくる。
江戸時代には、寺院僧侶は厳しく統制された。その一方で、幕府の官僚として人民の管理統制を担い、僧侶は堕落傲慢にふけり、社会の反発を招いた。
そして、それがために明治新政府の神道国教化政策により、一八七二年(明治五)
「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと」と太政官布告があり、それまで僧尼令で定められた肉食妻帯の禁が解かれる。
これは国家が妻帯を認めたということではなく、国家が仏教との関わりを解く一環であったに過ぎない。しかし、これを国の意向と受け取り、妻帯に踏み切る僧侶が多く現れたのである。
僧侶の妻帯問題は、明治後期まで仏教界にとって誠に重大な問題であった。各宗宗議会で公認すべきか否かで議論紛糾したが、結局自然の成り行きに順じる方向で収束し、現在に至っているのである。
今日では、このことに何の痛痒も感じない僧侶を生む時代となっている。まさに破戒ではなく無戒の時代なのだと言えよう。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
日本仏教は、そのはじめから国家仏教であり、僧侶はもとから国の庇護と規制の下に置かれた。
七五七年、『僧尼令』二十七条が制定され、僧尼の出家には官の許可を要した。試経という試験に合格すると剃髪し、受戒(四分律二五〇戒)が行われた。律蔵に規定された通り「交淫、盗み、殺人、悟りを得たと詐称する事」が重く禁ぜられ、犯すと還俗しなければならなかったのである。
この時代にもまったく破戒僧がいなかった訳ではないだろう。しかし、官僧として大戒二五〇戒を受持する制約があった。
しかし、後に天台宗では、大乗梵網経にある十重四十八軽戒をもって僧侶の受戒と見なす大乗戒壇を比叡山に建立した。これにより大戒を受持せずとも官僧として遇されることとなった。
このことが、後生の僧侶に厳正な戒律に対する意識低下を助長することになったのである。
鎌倉時代以降、官僧を脱して自由に活動する僧侶が増えて一層戒律が軽視された。
僧兵が現れて不殺生戒を犯し、「末代には妻もたぬ上人年をおうて稀にこそ聞こえし」(沙石集)と記されるように、隠れて妻帯することも特別なことではなかったであろう。だからこそ、慚愧の念をもって公然と妻帯する僧侶も現れてくる。
江戸時代には、寺院僧侶は厳しく統制された。その一方で、幕府の官僚として人民の管理統制を担い、僧侶は堕落傲慢にふけり、社会の反発を招いた。
そして、それがために明治新政府の神道国教化政策により、一八七二年(明治五)
「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと」と太政官布告があり、それまで僧尼令で定められた肉食妻帯の禁が解かれる。
これは国家が妻帯を認めたということではなく、国家が仏教との関わりを解く一環であったに過ぎない。しかし、これを国の意向と受け取り、妻帯に踏み切る僧侶が多く現れたのである。
僧侶の妻帯問題は、明治後期まで仏教界にとって誠に重大な問題であった。各宗宗議会で公認すべきか否かで議論紛糾したが、結局自然の成り行きに順じる方向で収束し、現在に至っているのである。
今日では、このことに何の痛痒も感じない僧侶を生む時代となっている。まさに破戒ではなく無戒の時代なのだと言えよう。
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破戒?無戒?
個人的な見解や批判を書いた文章ではありません。そのような受け取り方をされたのであれば本意ではありません。
当然のことですが、自戒を込めて書いたものでもあります。仏教徒として、自己批判は必要なことではないでしょうか。自らを見つめることから仏教があり、出家の根本の戒律を犯していることを考えれば、本来この問題について看過することなく大いに議論されるべきではないでしょうか。
本山要職者には現状をふまえた僧制の改正について検討するべきことを上申いたしました。あなた様はこの問題についてどのような見解をお持ちでしょうか。是非、ご教示下さいますことをお願い申し上げます。
あなたが僧侶になるまでそして僧侶になった後も大変なご努力をされたのはこのアーカイブを紐解くと伝わってきます。
ただ肝心要な戒を破り妻帯に踏み切ったあたりの事が何処にも書かれていない。これでは説得力がないですよ。
戒定慧は仏教の根幹であることを考えれば、日本仏教なるものも意味をなさないことになります。その意味において日本仏教いかにあるべきかという議論がなされるべきではないかと考えております。
私個人についての身の振りについてはここでも何度か触れているかとは思いますが、今生での自分自身の人生の意味、役割というものを考えたときにこのような選択がよかろうと思ったとしか言いようがありません。
どなたの人生においても、理想通りに人生を歩める人はありません。期待通りに道は開けません。理想と現実の中で誰しもだじろぎ、思い通りにならない自分に、忸怩たる思いを重ねていくものなのではないでしょうか。
関心をお持ち下さりありがたいことだと思います。少しあなたのことを教えてください。どうしてこのブログを熱心にご覧下さり、なぜこの記事に強く思いを寄せコメントされたのか。仏教に何を求めておられますか。
私は単純になぜ肉食妻帯にいたったかを聞いているだけです。
よほど痛いところをつかれたのか文章に怒りを感じます。
答えにもなってません。
このブログにも仏教にも大した興味はありません。
たまたま見つけたお題が僧侶の妻帯というテーマだからコメントした次第です。
タバコを吸いながらタバコの害を話す医者。
陰ではとんでもない事をしているのに厚い顔無知な教師。
オフは平気で法に背く行為をしているのに人様を取締る警察。
そして自分の事はさておいて人の道を説く坊主。
等々
権力やそれに準ずるものに守られた偽聖職者(やそれに近いもの)が許せないだけです。
答えになっていますか?
そろそろあなたのシンパが応援の横やりコメントが入る頃ですかね。
出来ればご遠慮したいものです。
私は自分の至らなさを常に思い、事あるごとに皆様にお話しもしております。破戒のこの状態をたちまちいかになしたらよろしいのでしょうか。皆様のお知恵を拝借したいところです。
いろいろとお教え下さいまして、ありがとうございました。どうぞお元気に、お幸せにお過ごし下さい。
そもそも悟りを求めて僧侶になる人が日本にはほとんど居ないかと思います。
坊主の顔をしていない坊主が最近は増えましたね。
前述されてらっしゃる方がいってますが
欲を配すべき存在がただの一つの職業に収まっていると考えていたのですがそういう傾向もやはりあるみたいですね。お墓や寺に関して否が応でも関わるこの自国の風習とはいえ外国の宗教のように現実的に思えない理由がわかりました。神信仰を押し付けるイメージがあまりないだけましでしたが、やはり妻帯者の寺は信用できそうにないですね。
>七五七年、『僧尼令』二十七条が制定され、僧尼の出家には官の許可を要した。試経という試験に合格すると剃髪し、受戒(四分律二五〇戒)が行われた。
と言う記載がありますね。
当時は僧尼と言うのは、官の決めた身分であったかと思います。
その身分には、色々の戒律があり、それを守らなかったら還俗せねばならない決まりがあったというのは、
時の政府 官が僧尼を官の推し進める宗教(仏教)の伝道師と思ってたからなのではないでしょうか?
つまり官は、国家の事業として仏教を広めていたので、
仏教の伝道師僧尼が世間からうしろ指を指されるようなことは、絶対に避けたいと言う気持から、僧侶にいろいろな戒律を定めたのだと思います。
(そんなことがあったら官の威信にかかわることですから)
だからこれらの戒律は、信仰上に必要なものであるからではなく、官の体面を傷つける恐れを排除するためであったと思います。
あれ程仏教にご熱心であられた聖武天皇が、皇后と生涯を共にされたのも、妻帯が信仰に関わるものではないと思っておられたからだと思います。
戒律があるから、破壊と言う言葉も出来るのであって、戒律がないところに破壊と言う言葉はありえませんし。
お釈迦様も、苦行は悟りの因にあらずと仰ったそうですし、肉食妻帯したからと言って、貞節を守り、肉食でも命をつなぐための食事で、節度を守ったものであるなら、それらをどうして禁じなければならないのでしょう。
宗教と言うのは生き方を教えてくださるものであると言うことを考えたなら、
宗祖の教えを奉じながらも、普通人と同じ生活をしておられる方が、よほど世情が分かった素晴らしい指導が出来られるのではないでしょうか?
私の家は浄土真宗ですが、宗祖親鸞上人はそのお師匠さんの法然上人から、妻帯したほうが悟りに届き易い者は妻帯すればよいし、妻帯しないほうが悟りに近づき易い者はしないほうが良いと言われ、
貴方は妻帯したほうが良かろうと、妻帯を薦められて、当時としては珍しい妻帯の僧侶として、一生を添い遂げられたと聞いています。
ですから、今のお坊さんが妻帯しておられようと妻帯しておられまいと、そんなことで,宗教家としての値打ちは上がりもしなければ下がりもしないと、私は思っています。
宗教家の絶対に必要な条件は、本当の悟りを得ておられるかどうかであるのですから。
戒律のないところに破壊はないと書いていましたが、
破壊→破戒
戒律(規則)のないところに破戒(規則破り)はないという意味で書きましたので、
破壊では意味を成しません。
お手を煩わせて申し訳ありませんが訂正させてください。
ですが、戒律は、本来国家とはなんの関わりもなく、サンガ(僧団)と僧侶との取り決め事項ですので、守るべきものなのです。
日本ではなぜか、元々この戒律の厳守に対する意識が低いのです。今に始まったことではありません。だから今の人たちが許されるというものではもちろんありませんが。
島国で、隔絶した中で、独自の味付けをなんにでもしたがる国柄の性なのか、とにかく、おらが村の特例の中にあって恥じ入ることがない国民性なのでしょうか。
それがよい面に現れることもありましょうが。ことこのことに限っては、全く弁解の余地はありません。他国のお坊さんたちには面目ない限りなのです。
ですが、坊さんが妻帯していると考えるからおかしな事になるのであって。例えば、キリスト教、プロテスタントの牧師さんのように、私たちは、このように戒律を考え、このような立場でお寺を守り、法を伝えて参りますと、立場を表明すれば、そして、それを日本の仏教徒が受け入れるならば、それはそれでよろしいのかと思います。
どっちつかずのまま、何もはっきりと言わないままにこうあるから非難の的であり、良識的な僧侶には後ろめたさがつきまとうことになります。親鸞さんの言われたように半僧半俗でいくのだとはっきり言われてなせばよいのです。
このようなことをきちんと日本仏教界全体で立場表明すべきだと、私は思っています。
和久さまの後半の、信仰の本質と戒律は関係ないかのような発言を拝見し、日本のはっきりとした宗教を持たない方々のしっかりとした原理原則の無さが理解できたように思います。非難しているわけではありません。ただ、何となく普通の善良な日本人は、神はこうあるべき、仏ならこうするはずという人間の価値観を宗教に押しつける傾向があるように感じます。またその価値観は時代とともに変更されていきます。しかし、戒律やキリスト教の神との契約などは人間の都合では変更できないのです。それが守れなければ、授戒・戒名を与えられない破戒僧として、私人の立場で信仰を追求すればいいと思うのです。
そういった意味で、苦しみ抜いて公式に妻帯を宣言した親鸞は本当に仏僧かどうかは別として、この問題を真剣に考えたかたと思いました。(浄土信仰はもはや、仏教なのか、最初勉強し時にはキリスト教ではないのかと思いました)。住職様のおっしゃるように、他の仏教の僧侶が、破戒の問題をきちんとお考えになるべきではないかと思います。国家に戒律を守らなくてもいいよなんて言われたなんて、明治の仏僧たちが怒ったのも当たり前です。妻帯するにしても、戒律をどう考えるか、なぜ肉食、妻帯、般若湯などの戒律がいらないか、仏教はキリスト教のように神との契約ではないはずなので、どのような考えで規則を変更するのかに興味があります。長々とまた、まとまりがなくてすみません。でも住職様のようにこういった問題をお考えになっているかたがいらっしゃると知り、日本の仏教に対する考えが改まりました。
私は貴方が仰るとおり、個別の宗教に対する思い入れの薄い、普通の日本人だと思います。(先祖供養については、親の意思を大事にする意味で、親の宗旨のお寺さんに、毎月きて頂いていますが)
だからと言って私が神仏を信じていないかと言うと、私流に神仏を信じているのです。
私の信仰を育ててくださったのは、各宗の宗教家が昔の宗教的偉人のお言葉を伝えてくださっているおかげだと思いますので、
仏教にしてもキリスト教にしても、教団を否定するものではありません。
でも教団の言っていることが、神仏のお言葉そのものであるとは思っていません。
戒律と言う規則は、神仏との契約ではなく、教団との契約だと言うのが私の考えです。
祖師の教えを正しく伝えるために、教団を維持していく以上、教団は規律が必要であると、教団の責任者が考えられたとしても当然のことでしょう。
戒律を神との契約と言われているのは、その規律を神仏との契約としたほうが守られやすいと考えて、厳重に守られるように先人が願って決められたのではないかと私は思います。
世界にはたくさんの宗教があり、それぞれの宗教に唯一絶対の神(仏)が設定されています。
唯一絶対のものは只一つしかない筈です。
それだけで、宗教間は争わざるを得なくなってしまうでしょう。
だから教団の言っていることは、神ご自身が言っておられることとは違うと言うことの証明になると思います。
教団維持のための決め事と、
祖師のお思い、ましてや神仏とは別物であると言うことを知る必要があると思います。
僧侶とか牧師とか言われておられる方々は、それを生業にしておられる方々なのです。(それは学校の先生と同じように)だから教団の決めた戒律は守らねばならないと思います。
以上の様な理由で、戒律が無いのなら破戒も無いと私は思っているのです。
肉食妻帯だからという理由で非難するのは私は違うと思います。
肉食妻帯だけを挙げつらって、僧侶を叫弾するのは、愚か者のする事。智慧ある者なら、つぶさに僧侶の行動を見ているものです。僧侶としての態度が悪ければ、厳しく評価しますし、良ければ賞賛するものです。破戒云々ではなく、人としてどうかを見るべきかと思います。人としての行動が良ければ、それは戒を守っていると言えるのではないでしょうか?仏教とは、試行錯誤の宗教だと私は考えています。手探りで道を開き、自他両方の視点で見て正しいと思う道を見付ける。これが本来の姿なのではないかと私は思います。
戒律とは、頑に守るというより、心掛けるべき戒めと考えた方が良い様に思います。
これは日本人が「天地神明に誓って・・・・・」などという言葉で、誓いを述べることに、類することだとしたら、
その人は天(神仏)と約束(契約と言うと相互のものと言う感じがしますので、神と契約を結ぶことの出来る人はないと思いますが・・・・)した事になり、
その約束はその人の責任で、守らねばならないことだと思います。
日本のお坊さんの場合、宗派によって違うでしょうが、
僧侶になる時にその誓いをした人ならば、
その誓いは守らねばならないだろうと思います。
その所属する教団に、その戒律がなく、その誓いをする規定もない場合は、
個人的にその人がそれを誓ったのでなかったら、
そのことに反することをしたとしても、約束破りにも、破戒にもならないのではないかと、私は愚考するものです。
「分戒」というか
「すべてでなくとも、ひとつだけも、戒律を守る」という考えがあるそうですね。
「無戒」って、日本では一足飛びに行きましたが、中国の方であった考え方のそうですね。
たとえば十善戒のうち、我々凡夫は、全部守るのは無理だし、多くを守るのも、大変だが、自律と修行のために、一つでも確実に守るようにする。
とかいうことのようです。
一即全・全即一という華厳系の考え方から来ているとか。
で、今の仏教界は、せめて「分戒」をしたら良いのかも?
て思います。
まあ「親孝行は大事」と大師も言ってますし、「子孫を残さないことも、親不孝の最大のモノ」とか儒家の経書に言いますし。
まあ「禁酒」なり「不倫しない」なりとか大事かなって思います。
私は短慮・浅学ですが、そういうことで。
私の伯父は中国で僧侶しておりますが、勿論、女性とのお付き合い結婚もお酒もお肉も食べません
お肉を調理した鍋を使う事も駄目です
伯父の付き合いで中国の有名なお寺に宿泊する機会がありましたが、どの方も同じでした
日本も同じだとばかり思ってました、
だって仏教ですよね!?
本当に不思議に思います
日本は勝手な解釈の元に仏のルールを変え、それを平気な顔でいられる事に苛立ちさえ感じます
俗世の方の意見なんて関係ありませんよね!?
現代人から見れば古臭く、そんな事どうでもいいことなのでしょう
禁欲を貫いている本物の僧侶方に失礼だとは思いませんか?
私なら同じくして欲しくありません…
禁欲が出来ないなら、それは本来の事柄からかけ離れています
それは果たして仏教なのでしょうか?
仏教の名を借りた偽物としか思えません
仏の道に入るならばそれなりの覚悟を持って欲しいものです
通りすがりにすみませんでした
いや愛を通して学び、魂を磨いてゆく事が
大切なのだと私は思います。
子供を生み増やすことは無明の自己増殖以外の何者でもないと見ていたからと思う。
親鸞はそれを逆手にとって、自身の煩悩具足性を徹底して自覚すること、
無明存在としての自己=悪人としての目覚めが、真実へ至る門、正機と考え
煩悩具足と真知して 只、「南無阿弥陀仏と信じて南無阿弥陀仏と称える。」
ができれば信心が成就する。
伝統仏教的概念を使うと、そこに九識神王の都としての浄土があり、
阿摩羅識としての悟りが南無阿弥陀仏として成就する。
真宗が登場して始めて大乗という言葉が意味を持つに至ったと思う。
それまで「大衆の中で、大衆と共に」という大乗の理想は絵に描いた餅ではなかったか?
(個人研究)
その教えを子や孫が継いで拡散すれば、人間、及び人類が救済される。
真宗の坊さんの立ち位置は御同朋・御同行とと規定されており
他の信者とは同格で宗に則った儀礼を司り、信者のまとめ役、旗頭であることがその役割で
布教そのものは信心者による総布教、総勧進が基本です。
浄土真宗とはそういう教えです。
なので教えそのものの中に、結婚して子供を生み増やすことは肯定されています。
坊さんの恋愛、結婚も
他宗はしらんけど!
一首詠む
「信者みな己(オノレ)の煩悩愚足(ボンノウグソク)知り
子孫(コマゴ)が継(ツげ)ば国の和すなり」 by(Kei-Mad)
よく、ラオスの仏教は日本の仏教と違って戒律が厳しいからね。
とか、日本のお坊さんは結婚するんでしょ(笑
と言われてきてきました。
宗派によって違うとおもっていたんですが、
日蓮宗以外、結婚しているんですね。
ちょっとショックです。
これから仏教国の人と接する機会も増えてくる(すでに多いですが)と思うので、ちゃんとした回答をしたいです。
一番、誤解のない形でつたえられたらと思うのですが。
すでにたくさんの方からコメントをいただいており、それにこたえてきましたので、改めて特別に申し上げることもありませんが。
実は、最近も、ある仏教会の方と、この件につきまして、改めてきちんと日本仏教の立ち位置を海外仏教徒に向けてメッセージを発するためにも各層にわたっての意見を集約すべきであることを申し上げましたが、まったく関心もなく一方的な話で終わってしまいました。
今さらこんなことを蒸し返してどうなるものかといった感じです。ですが、海外で現地の仏教徒と出会い話す人たちは今の問題でもあり、また後ろめたい気持ちにもなる。今さらも何もなく、現実の問題としていかがすべきかと思案しています。
この問題がクリアされない限り、日本仏教は政治同様、海外にお金をばらまくだけの国際交流になる。日本仏教の国際化すら不可能と言えましょう。
坊主が差別をしてしまうからと思っているから
じゃないかな?
例えば海で自分の子供と他人の子供が 溺れていても
他人の子供のほうが助けやすかったとしても
坊主は本能で自分の子供を助けるでしょう。
これはこれでいいのでしょうか?どう説明されるので
しょうか。まだまだ 仏の道を学んでいる最中で子供を育てるなんておかしいですよ。その前にもっと学ぶ事があるんじゃないですか その道を選んだからにはそれをはっきりとしてほしいのですね。 だから
信頼されないんですよ?坊主がお経を読んだ後で
宇宙の始まりはビックバンがあってとか
まだ分からない事をいうのも変人だとおもいます。
人間で結婚でもしてたら それぞれの
欲望も一杯あるでしょう 坊主が信頼できないのは
何事も中立で考えられるか信頼されないからです。
空海も杖をついたら水が沸いてきて住民を
救ったとかありますが 作り話はもういいです。
何事も正直に話しましょう。欲だらけなんでしょ
坊さんも・・・
欲があるかないかと言われればみんなあるとしかお答えのしようもありません。人としてこの世に生まれ、お釈迦様のような悟りを得ていない大多数、ほとんどの人間は、修行をするしないにかかわらず、仏教にかかわるかにかかわらず、坊さんであろうがなかろうが関係なく、みんなたくさんの欲を抱えもって生きています。
欲がある以上様々な場面で、差別といわれるようなことがあるのは当然のことでしょう。それは結婚していようがなかろうが関係ありません。
結婚していけないのは、仏教の戒律に反しているからです。このブログの記事を読んでくださればご理解いただけるかと思います。ですから、この前に書いてあるように、日本仏教としてどういう立場であるかということをきちんと鮮明にすべきと考えています。