住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

功徳ということ

2013年08月28日 18時46分33秒 | 仏教に関する様々なお話
法事でお経を済ませた後、少し仏教の話をするようにしています。話の内容はそのときどきで様々ですが、このところよく、「功徳を積むということが私たちの第一になすべきことであって、この功徳しか死んだ後に持って行けないんですよ・・」などと話をするのですが、あるときそんな話をした後のお斎の席で、「功徳ということがどういうことなのか分かりませんが・・」との言葉を耳にいたしました。

功徳ある行為が大切だ、善行功徳を積んで下さい、などとよく話すものの、それではいったいその功徳とはどのようなことを意味するのか、ということになるとその説明はそんなに簡単ではないのかもしれません。インドなどでは、功徳を積むということは仏教徒もヒンドゥー教徒も子供のころから教えられて、ごく当たり前のことになっています。大人になって給料をもらうようになれば、そこからいくらかは当然の事として福祉施設やお寺に寄附をしたり、または路上で生活する貧困者や遊行者へ施しをすると聞いています。

そのインドで貧困者などへの施しを盛んに行うというのには理由があって、今の必ずしも恵まれているとは言えない人生、また過酷な気象環境の中で大変な生活を余儀なくされているけれども、誰もが死後再び生まれると信じている来世ではもっと恵まれた良いところに生まれ変わりたい、そのためには今生でせめてもの徳を積んでおくことが何よりも大切なのだということを実感しているからなのだと思います。このことはインドばかりのことではなく、スリランカやネパールなどインド文化圏の国々、それに南方経由で仏教が伝わっていったタイやミャンマー、ラオス、カンボジアなどの国々の共通の認識なのです。

パゴダという仏塔を崇拝供養することを熱心に行うミャンマーの仏教徒の中には、来世のために昼も夜も肉体労働をしてお金を貯めようとする貧しい家族が少なくないと言います。彼らは、貯め込んだお金で楽な生活をしようというのではなく、そのお金で大きな仏塔を造り、高僧を招き盛大な開眼供養をして、来世での安楽を願うのです。この二十一世紀の現代に、そうした来世の幸福のために真剣に生きている人々が、アジアの仏教国には大勢いるのです。

こうした来世観を当然のこととして持っている国々と違い、私たち日本人はそこまでの意識を持たずに成人し、歳を重ねていきます。「それではあなたは死後どうなるとお考えですか」と問われたとしても、自分自身の死後のことなどなるべく考えないで済ませたい、縁起でもないというのが本音ではないでしょうか。特に現代に暮らすほとんどの人が、この人生のことだけにしか関心がないというのが実情のようです。ですが、もっと先のこと次の世のことも含めて責任ある生き方をしようと考えた方がよいのではないかと思うのです。

私たちの仏教は、シルクロードを通り、中国経由で入ってまいりました。それが為にいわゆる仏教徒として当然身につけているべき常識に欠けていると、私の目には映ります。その代表的なものがこの来世観を含む輪廻という生命観だと思います。中国では「積善の家に必ず余慶あり、積不善の家に必ず余殃あり」といい、家単位の善行の報いとして楽果を説きます。が、仏教では、前世、現世、来世の三世にわたる個人単位の因果を説くのです。

いま私たちが不況とは言いながらもまずまずの恵まれた生活が送れるのは、前世を含めて過去の善い行いの結果であり、現在の瞬間瞬間の行いの結果として未来が、また来世があると考えます。そして、今何を見、何を聞き、何を思い、何を願い、何を行うかによって次の自分が造られていく、すべては自分の責任、自業自得だということ。そしてつまりは、私たちは死んでもそれで何もかも終わりとはならないということなのです。身体が物質的に寿命を迎えても、最後の心が次に引き継がれていくのです。

「人々は自分のつくった業にしたがって死んでいく(経集)」「ある人は再び母胎に生まれ、悪をなせる者は地獄に生じ、善をなせる者は天界に生じ、汚れなき者は涅槃に入る(法句経)」などとお経にもあり、その人の人生で行ってきたこと、つまり業によってもたらされる死の瞬間の心に相応しい世界に転生していくと教えられているのです。そうして私たちは、生まれては死に生まれては死んで何回も輪廻転生を繰り返す存在であり、その何度も繰り返す輪廻は苦しみに他ならず、その苦しみの連続から解放されるためにお釈迦様がお説きになられた教えこそが仏教なのであります。

では、よりよい来世を迎えるために、私たちはどうしたらよいとお釈迦様は教えられているのでしょうか。

「花束をもって多くの華鬘を作るがごとく、人として生まれなば多くの善きことをなすべし(法句経)」

「善きことをなせる者は、この世にても喜び、死後にも喜び、何れにても喜ぶ、おのれの行為の浄らかなるを見て喜び楽しむ(法句経)」

「直く、正しく、言葉やさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならない、他人を欺いてはいけない、どこにあっても他人を軽んじてはならない、怒りの想いをいだいて他人に苦痛を与えてはならない、あたかも母がおのが独り子を命をかけて守るように一切の生きとし生けるものに無量の慈しみの心を起こすべし(経集)」

と、このように、人としてよい来世をもたらすようなよい死に方をしたければ、善いことをしなさい。そうして善いことをしたという満足感、喜びの中で死を迎えるように努力しなさいと教えられているのです。自分がしあわせでありたいと思うのと同じ様に、人の気持ちを尊重し、優しい言葉を語り、自分の出来ることを奉仕して周りの人たち、生きとし生けるものの幸せを願うなど善い行いを心がけねばならないのであり、そのような行為こそが功徳ある行いということになるのです。

随分と回り道をしてきましたが、つまり『功徳とは、自分自身の未来、そして来世によい結果をもたらす善い行いの果報』ということになりましょうか。そして、仏教の教えから紐解きますと、その功徳をもたらす行為は仏教の実践そのものということになります。仏教の実践には、「布施」「戒」「修習」という三つの内容があります。

「布施」は財施ばかりではなく、身体を用いてなされる奉仕行である身施、優しいまなざしや言葉、笑顔を施す心施、精神的な教えを施す法施などがあります。布施は他を直接利益する善行と言えます。

また「戒」は、在家者にあっては、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒を内容とする五戒ないしは十善戒を実践することです。なぜ戒をたもつことが功徳ある行為となるのでしょうか。それは、悪業を為さないためであり、また正しい生活を送ることで自他によい影響を与え、そうして初めて他を助けるなど善行を施すことが出来るからです。

「修習」は、専門的には止と観を内容とする瞑想行を指し、心を集中統一する止行と、いまの自分の身の動き、感覚、思い、思考、周りのものごとのあり様をありのままに観察する観行があります。ただし、坐って瞑想することばかりを意味するのではなく、日常においても心落ち着き、心静かに穏やかに生活することも含まれます。過去未来に思いをはせ欲や怒りをつのらせるなど、心ここにあらずということなく、自分が今何をし、何を思い、何を考えているのかを知り、常に冷静に自分を観察していることが求められています。

自らの振る舞い、心を知らず取り乱している人は、他の気持ちを忖度し利益することが出来ないからであり、また逆に心落ち着いた人は、それだけで周りを穏やかに治め、安らぎをもたらしてくれるからです。最後に、お寺は福田であると言われます。また袈裟は別名福田衣と申します。この場合の福とは功徳、つまりお寺は功徳を耕す場であり、僧侶は本来功徳を積ませる立場にあるということです。沢山の有縁の人たちがお寺にお越しになり、善行を施し沢山の功徳を持ってお帰りになることを願っています。


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20 コメント

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分け与える精神の欠落 (茉莉花)
2013-09-10 18:26:07
最近の人は、分け与える精神が欠落していますね。
目先の利益ばかりを追い掛けていて、なんだか人参をぶら下げられて走っている馬を見ているかのよう。
兎に角『自分が、自分が…』と自分達が得する事ばかり考えている。
新興宗教が乱立しているのは、そんな現代人の心を映している様に思えます。
今の人間達は、人間とは思えない。動物並と言えば、動物に対しても失礼な程に酷い精神状態。
動物達ですら、最低限のルールは守るのです。人間達は、その最低限のルールすら守れていない。ただ本能に振り回されて居るだけ。
ただ地球を荒らす存在に成り下がっている。
『ヒト』と『人間』では、全く別物です。
『人間』というのは、理性でコントロール出来る存在です。それが出来ないのは、人間とは言いません。『ヒト』という生物です。
取り敢えず、言葉は喋れますし、道具も使えます。ある程度の知能も有りますがその程度。精神は人間と呼ぶに程遠い。
多くの人々は、その事に気付いているかどうか。
少なくとも、他者を思い遣る精神があれば、人間と呼ぶに相応しいでしょうけど。
人間とは何たるかという事をそれぞれ考えなくてはならないと思います。
人間が人間らしく在る為に宗教というものが存在している筈なのです。先ずは宗教の本来の役目を考えなくてはならないでしょう。
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仏教理解について (郷田只見)
2013-09-12 01:08:23
 仏教を輪廻説として解しておられると理解いたしました。しかし、輪廻説はインドにおいて仏教誕生より遥か以前から人々に信じられてきたものではないでしょうか?仏教がその輪廻説であるとしますと、仏教の独自性、存在意義はほとんどなくなってしまうのではないでしょうか?しかし、パーリ語原始経典を、重要経典は原文に当たりながら、長年にわたって読んできた小生の見るところでは、確かに輪廻説は原始経典でも見られますが、しかしそれはごく一部に留まっています。仏教は苦の超克を目指すものでありますが、輪廻説では天上界から地獄界までの「六道」はいずれも苦の世界とされています。したがって、仏教は何よりもこの輪廻の世界、「六道」を越えることを目指すものであると思います。その証拠はいくらでも挙げることができます(最後の引用文もその一つです)。それでは、仏教は根本的に何を説くものでありましょうか?釈尊は、出家から最初の説法までの自伝を主な内容としている『聖求経』(「中部」第一巻)において「悟り」の根本経験を「無上なる安穏・涅槃に到達した」(167頁)と表現しています。仏教が説く根本のものは「安穏」或いは「涅槃」ということになるかと思います。これは、これらの言葉の他に、「無為」、「真理」、「真如」、「不死」、「彼岸」等、様々な言葉で呼ばれています。この「涅槃」に到達することは、この後、「涅槃」を覚り見ることであると共に「涅槃」に「到り成る(upasampajjati)」ことであると言われています。「涅槃」は苦と一切のものを超越したものでありますから、「涅槃」に到り成ることは、苦と一切のものを(輪廻の世界があるのであれば、輪廻の世界をも)超越することになる訳であります。しかし、「涅槃」に到達して救われるためには難行苦行が必要なのでしょうか?釈尊は与えられた一々の生に徹すること〈自らの人生を誠実に一所懸命に生きること)を説いています。「バーヒヤよ、汝が見た時にはただ見ただけでおり、聞いた時にはただ聞いただけでおり、思った時にはただ思っただけでおり、知った時にはただ知っただけでいるならば、バーヒヤよ、汝はそこにはいないのであり、バーヒヤよ、汝がまさにそこにいないならば、バーヒヤよ、汝はこの世にも他の世にも両者の中間にもいないのであり、まさにこれこそが苦の終りなのである。」(「自説経」8頁)
 仏教の専門家としてのご発言は社会の人々に少なからざる影響を与えるものであるかと思います。もしそのご発言が間違ったものであるとしますならば、釈尊と社会の人々に大きな罪を犯されることになるかと思います。それで、原始経典をもう一度素直にお読み下さることを願っております。大変失礼いたしました。
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続仏教理解について (郷田只見)
2013-09-14 17:28:33
前回の投稿において、余りに長くなり過ぎるということもあり、ほとんど説明できていない重要な点がありましたので、補足説明をさせて頂きます。
 仏教は、苦を超克して救われるために、苦と一切のものを超越した「涅槃」(nibbāna これは後に「空」とも「仏性」とも単に「仏」とも呼ばれます)に到り成ること(=「成仏」)を説くが、このことは難行苦行の末にごく少数の人のみに可能になるといったようなことではなくて、誰もが自らに与えられた一々の生に徹し、誠実に一所懸命に生きることにおいて可能になることとして説かれていると、前回の投稿で申しました。なぜこの現実世界を超越した「涅槃」に到り成ることが、却ってこの現実世界の自らの生に徹することになるのでしょうか?「涅槃」は「悟り」の根本経験において悟られる当のものでありますが、この根本経験において「涅槃」はこの現実世界を離れ越えたどこかに経験されるというものではなく、それと一つに、それを貫き越えているものとして、したがって、それの真相として経験されるものであります(道元禅師の「この山河大地、みな仏性海なり」という言葉もこのような経験を表しています)。したがって、「涅槃」に到り成るためには、この現象世界の何か一つのものに徹し成り切ればよいわけであります。その「道」として釈尊によって説かれているものが「三昧」(samādhi定)です。釈尊は「比丘たちよ、涅槃と涅槃に到る道とを説こう。・・・比丘たちよ、いかなるものが涅槃に到る道であろうか?止、これが、比丘たちよ、涅槃に到る道である。」(「相応部」第4巻 371頁)と説いています。「止」(samatha)とは何かに心を止め定めることであり、「三昧」のことです。仏教では三昧の行として坐禅や読経や称名念仏やその他様々な行が実修されてきましたが、三昧行の対象は何でもよいわけであります。したがって、必死に仏法を問うたバーヒヤに対して、釈尊は「バーヒヤよ、汝はこのように学ぶべきである。見た時にはただ見ただけでいよ、聞いた時にはただ聞いただけでいよ、思った時にはただ思っただけでいよ、知った時にはただ知っただけでいよ。」(「自説経」8頁 前回挙げたものの前にある言葉)と答えたのであります。
 仏教をご住職様のように「輪廻説」として理解する理解の仕方や、今日の仏教学のように「縁起説」として理解する理解の仕方がありますが、これらは、釈尊の直接間接の説法の記録である原始経典を読む限り、釈尊の真意とは余りにもかけ離れたものであるように私には思われます。
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郷田様へ (全雄)
2013-09-16 08:48:19
お越し下さり、またコメントを何度も書き込み下さいまして、誠にありがとうございます。お元気そうで何よりでございます。

仏教とは輪廻説であるとはどこにも表記しておりませんし、そのような仏教を矮小化することを文章にした記憶もございません。

輪廻説は仏教の根底にある考え方であり、お書きのようにそこからどう解脱するかが仏教の教えです。輪廻があると考えるから、あるいは信じるから悟りを求め修行し、真理を得て解脱するというお釈迦様の教えが誠に尊いものとなるのです。

パーリ中部経典36大サッチャカ経をご覧下さい。お悟りになられる前にご自身の何万回とたどってきた前世をご覧になったとあります。だからこそその因果、業というものを理解しこの世の真理を悟られたのです。

輪廻を否定なさるのならば、死んだらどうなってしまうとお考えですか。仏教はそんなことは言わないのだとされる方もありますが、そんな無責任なことでお釈迦様の教えを貶めないで下さい。

日本人も他の仏教国の人々同様、江戸時代までは皆輪廻するという考え方を理解していました。だからこそ平安中期以降、地獄に行きたくない、出来れば極楽へと念仏が爆発的に流行したのです。

時空を越えたすべてのことに精通されて教えを説かれたお釈迦様の教えを現代人の悟っていない人たちが理解できないからと捨ててしまうことは止めた方が良いと思います。

経典にあることはそのまま素直に学んで行かれることをお勧めします。
返信する
続々仏教理解について(横田様へ) (郷田只見)
2013-09-17 06:33:02
 愚見に対しコメントを賜り、まことに有難うございました。ご返事をいたすために、もう一度だけ出させて頂きました。
 さて、ご住職様は、仏教が輪廻説であるとはどこにも書いていず、そこからどう解脱するかが仏教の教えであると言われました。しかし、2012年9月12日「仏教小話」;「『ブッディストという生き方』出版記念講話」の中で、「輪廻は・・・お釈迦様がそこに業というものによる輪廻転生する生命のありかたを発見されたと分かる。仏教の教えの根幹をなす思想である・・。」と言われておりますし、その他のご法話でも仏教の中心的な教えであるかの如くに語っておられるように私には思われました。「そこからどう解脱するかが仏教の教えです」と言われておりますが、私が「仏教小話」十数篇を拝読させて頂きました限りでは、輪廻からどう解脱するかについての仏教の教えはほとんど触れておられないように思われます。
 ところで、輪廻説には、身体は滅びるけれども心は滅びず常住であるという考えも含まれているかと思います。ご住職様もしばしばそういうことを言われております。例えば、上掲「仏教小話」でも、「私たちはからだと心一つにあわさり生きている、五蘊という言葉があるように心と体は別のもの、身体の寿命が終えると遺体から心が抜け出る。死んでも終わりではない。心は消滅せず・・・」と言われております。ご住職様は、仏教は、身体は滅びるけれども心は滅びず常住であるということも説くものであると理解されているように思われます。
 しかし、原始経典は、その多くの箇所で、「色」が無常であることと同時に、「受」、「想」、「行」、「識」、すなわち心が無常であることも説いているのではないでしょうか?また、道元禅師も「(心は)この身滅するとき、もぬけてかしこにうまるるゆえに・・・ながく滅せずして常住なり」というこのような「見」を「心常相滅の邪見」とし、「仏法にあらず」と強く否定しておられる(『正法眼蔵』「弁道話」等)のではないでしょうか?
 「輪廻を否定なさるならば、死んだらどうなってしまうとお考えですか」とのことでありますが、道元禅師が「この生死は、即ち仏の御いのち也」(同「生死」)と言われましたように、仏教は、その根本経験によって、生も死もその他のものも全て仏であると見るのではないでしょうか?せいぜい百年の寿命の心と体は永遠のいのちの海の一波浪のごときものと見るのではないでしょうか?したがって、死んだら心と体とを去って完全に涅槃(仏)だけになる、或いは、完全に涅槃に還る(「完全涅槃する(parinibbāti)」)と見るのではないでしょうか?
 「一切のものは仏である」―これが仏教の根本説であると私は理解しております。釈尊の「四聖諦」(四つの聖なる真理)の説法は、まさにこのことを説いているものであると私は解しております。この説法で釈尊は、例えば、「比丘たちよ、四つの聖なる真理がある。いかなる四つのものが、であろうか。苦という聖なる真理が、苦の起因という聖なる真理が、苦の滅という聖なる真理が、苦の滅に至る道という聖なる真理が、である。」(「相応部」第5巻「真理相応」)と説いております。ここで、釈尊は、苦、苦の起因(=無明)、苦の滅、苦の滅に至る道の四つのものは「聖なる真理」であると言っています。しかるに、今証拠を挙げて言うことはできませんが、苦、苦の起因、苦の滅、苦の滅に至る道の四つのものは一切のものの代表であります。したがって、この説法は「一切のものは聖なる真理(=涅槃、空、仏)である」という仏教の根本説を説くものであると思います。
 最後に、申し上げたいことは、原始経典は約二万五千経から成り、その大部分は釈尊の直接の説法の記録ではなく、その大部分のものは直接に説法されたことに後生いろいろなものが付加されているものであると考えられます。その付加されたいろいろなものとは、例えば、釈尊をいわば〝神格化〟するための前生物語や当時のインドで広く信じられていた輪廻説等であると私は考えております。パーリ語原始経典「五部」の中で比較的釈尊の直接の説法の記録に近いものは、八千経近く存在する「相応部経典」であると言われております。
 長くなってしまいましたので、これで終わらせて頂きます。いろいろと失礼なことを申したと思いますが、どうかお許し下さいますように。
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茉莉花様へ (全雄)
2013-09-17 07:22:02
いつもコメント下さりありがとうございます。大変遅くなりまして失礼しました。

私が18で会社に勤めた先の社長がよくそのことを言われていました。人ではなく人間として物事を考えなくてはいけないと。

生きるとは何か、何のために私たちは生きているのかと問うことがなくなって、ただ経済的繁栄が人生の目的のようになってしまいました。

おっしゃるように、動物が餌を採る以下の、溜め込んで、自分の懐の肥えるためだけに生きている人も多いようですね。

返信する
郷田様へ (全雄)
2013-09-17 07:36:45
少し補足させていただきます。

日本仏教は、とても幅広く総合的な教えである仏教を、この教えだけが最高のものであると言い、その中でも、この行だけで良いとしてきました。そのことに慣れてしまった私たちは未だにそのアプローチの間違いを踏襲しています。

イヤイヤ人間は元々悟っているのだとさえ言い、そのことをただ自覚すればよいとも言ってきました。未だに日本仏教はその呪縛から解き放たれていません。

はたしてそれが仏教というものでしょうか。

人が生きること、何を目的にいかに生きるべきか、そのことを万民すべての生き物にも開かれて説かれた教えが仏教です。

三界の衆生すべてを対象に説かれたものとも言えましょう。何を最高の理想とし、いかにそのことを実現していくのかを説いた教えです。

お釈迦様は、一部の人たちにとって適当な行を万民すべてに向かって、これだけで良いともおっしゃらないし、ただ認識するだけですべてオッケーです、などとおっしゃるはずもありません。

悟るというのはそんなに簡単なことではありません。

私たちが溜め込んでいる業はそんなことで無くなるものではない。業がある限り私たちの因果はなくならないのです。三世にわたる業がある限り輪廻も終わることはないでしょう。

どうか経典を自己流に解釈するのではなく、世界の仏教徒の考え、つまり世界基準の仏教常識をご理解下さい。
返信する
郷田様へ (全雄)
2013-09-17 08:38:41
度々コメントを頂戴し恐縮です。大事なところですから、よく御理解いただけますようにお願い申し上げます。

輪廻について目障りのようにお考えなのは、現在の日本仏教が明治以降に捨て去った考えをあえてその欠を埋めるために何度も文章化していることに違和感をもたれるからだと思います。根幹をなすと書いているのであって、それが中心の教えであることを意味しているものではありません。

無我という言葉の解釈は、無くなるということではありません。そのものだけで存立するものではないということでしょう。すべてのものは縁起するものであるが故にということですから。常住とは書いておらないと思います。一瞬一瞬変化しとどまらないものですから。無くならないけれども変化する、それを生滅と見ることも出来ますが、心はそのまま存続すると考えます。

>仏教は、その根本経験によって、生も死もその他のものも全て仏であると見るのではないでしょうか?せいぜい百年の寿命の心と体は永遠のいのちの海の一波浪のごときものと見るのではないでしょうか?したがって、死んだら心と体とを去って完全に涅槃(仏)だけになる、或いは、完全に涅槃に還る(「完全涅槃する(parinibbāti)」)と見るのではないでしょうか?
 
パーリ経典のどこにそんなことが書かれているでしょうか。死んだら涅槃に入るとどこに書かれていますか。もしそうなら、仏教の教えも修行も必要ありませんね。何故お釈迦様は6年間も苦行され命を懸けて修行なされたのでしょうか。

四聖諦の解釈は認識論であり、実践論ですから、そこでいかに生きるべきかを説いたものと解釈すべきでしょう。これも伝統的な解釈がありますから、参考にされた方が良いと思います。一切のものは仏であるなどという解釈の仕方はないと思います。

四聖諦は仏教の根本的な教えですが、一切のものは仏であるとする解釈は仏教の根本説ではありません。独善的な解釈を交えた日本仏教と初期仏教を混濁してはいけないように思います。特に、初期仏教から日本仏教を理解することは大切ですが、日本仏教の考え方から初期仏教を解釈するのは本末転倒です。

原始経典、パーリ経典は、ほぼ現在の内容でお釈迦様入滅後になされた第一回の仏典結集でまとめられたとスリランカなどでは理解されています。多少の増幅、編集はなされているはずですが、私も同様に考えております。インド人、南方の仏教徒の比丘がたと接してきて、それだけの熱意と力量というのか才能が結集してきたからこそ今も立派な仏教が残されているのだと確信しております。

どうぞ、世界の仏教徒と交流されまして、新たに仏教を再認識なされることを願っております。仏教は素晴らしい教えですね。どうぞ益々仏教研究が深まりますようお励み下さい。私も精進して参ります。ありがとうございました。

返信する
続々々仏教理解について(横田様へ) (郷田只見)
2013-09-19 16:11:42
返信する
前コメント途中切れ補充 (郷田只見)
2013-09-20 10:26:18
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何だか… (茉莉花)
2013-09-20 12:38:18
何だか全雄和尚の揚げ足をとって居る様に思えてならないのは私だけでしょうか。
事ある毎に突っかかって来なさる。
『俺はこれだけ仏教の事を知っているんだぞ』と言うのが感じられてならないのです。
全雄和尚は、本当の仏教を求め、遥々インドに渡り、実際に上座部の修行を現地で体験な為れたお方。本物の仏教をよく分かって居られるからこそ、あれだけの素晴らしい説法が出来るのだと私は思うのです。
ただ仏典を読み漁るだけでは、本当に仏教を分かったとは言えないと私は思います。
知識として仏教を分かっていても、それは理屈の中でのお話。
仏教を本当に理解したいと言うのならば、自らが体験するしかないのです。
全雄和尚は、それを実践なさった方。
これ以上、全雄和尚の揚げ足を取るのは辞めた方が良いと思います。
あと、全雄和尚の姓は、横田ではなく、横山です。
返信する
コメント途中切れ補充(再) (郷田只見)
2013-09-20 22:26:29
 横山全雄ご住職様、お名前を間違ってお呼びいたしておりましたことを心からお詫び申し上げます。茉莉花様、ご指摘有難うございました。私は現在73歳になりますが、若い頃京都の大学で西洋哲学を専攻する傍ら、師匠について十数年間坐禅と公案参究という禅宗の臨済宗的なやり方で仏教を学びました。25年余り前、和訳の原始経典を読む機会があり、仏教学が教えるものとは異なる、私が体験的に学んだ仏教がそこにあると感じ、衝撃を受けました。それ以来、原始経典を読んでおりますが、途中世事多忙のため十数年研究がほとんど進展しなかったこともありました。私は仏教は今後なお世界史的な使命を有していると思っておりますので、残りの人生を根本仏教の研究に捧げたいと思っております。
 前回、前々回のコメント途中切れを補充したつもりでしたが、全く補充されていませんでした。upasampajjatiの直後の、この語を分解して説明している部分を省いてもう一度だけ投稿させて頂きます。茉莉花様にもお叱りを受けましたが、失礼なことを申した点がありましたことを重々お詫び申し上げます。

すなわち、涅槃に到達するという根本経験は、涅槃を現象において覚り知ると共に、涅槃に到り等しく成る(upasampajjati )という経験であります。
 このような根本経験が釈尊によってなされて、その内容が多くの説法によって語り出されているわけであります。このような釈尊の仏教において最も重要なものは、まず、「涅槃」であり、次に「涅槃に至る道」としての「三昧」であります。したがって、釈尊は次のように説いています。
「比丘達よ、汝達に涅槃と涅槃に至る道とを説こう。これを聴け。では、比丘達よ、いかなるものが涅槃であろうか。比丘達よ、貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽、これが、比丘達よ、涅槃と言われるのである。では、比丘達よ、いかなるものが涅槃に至る道であろうか。止(=三昧)、これが、比丘達よ、涅槃に至る道である。
 このように、比丘達よ、私によって涅槃が説かれ、涅槃に至る道が説かれた。比丘達よ、他の利益を願っている慈念ある師によって弟子達のためになされるべきことを、私は慈悲を垂れて汝達のためになしたのである。比丘達よ、これらの樹下これらの空閑処で禅定をなせ(jhāyatha)。比丘達よ、放逸になることなかれ。後日、後悔者となることなかれ。これが私からの汝達のための教誡である。」(「相応部」第4巻 371頁)
 釈尊が説く根本のものは「涅槃」(=「真理」、「真如」、「常恒」、「彼岸」、「終極」、「不死」等々)であります。そして、これに至る道は「三昧」(samādhi)とされています。したがって、釈尊は、この説法でも「禅定をなせ」とありますように、事あるごとに三昧行を勧めているわけであります。もし釈尊を尊び崇めるのであれば、釈尊のこのような「教誡」或いは勧告にも従うべきではないでしょうか?この三昧行の体験なしには仏教は理解され得ないものであると私には思われます。
 以上、ご住職様からの疑問や詰問に対する直接のお答えにはなっていないかも知れませんが(私は「四聖諦」や「縁起」や「無記」等の釈尊の重要説法の真意を明らかにすることを試みる論文を既に書いておりますが、ここではこれらについて説明することは到底できません)、私は釈尊によって説かれたことの全ては「悟道」(=「涅槃」を悟ること)とも、「成道」(一切のものと共に「涅槃」に成っていること=自らと他の一切のものとが「涅槃」であること)とも言われる「等覚」の根本経験の内に存すると思っておりますので、原始経典に従って主にこの根本経験のことを述べさせて頂きました。このことをもって、甚だ不十分ながら、一応の答とさせて頂きます。
 いろいろと有難うございました。
返信する
ご縁にお礼を (きりぎりす)
2013-09-23 16:15:48
全雄先生と郷田只見さまの真摯な論述のご様子は、まなびの最初のわたくしでさえも、知りたいことのまんなかにあることです。ですので、わかりの遅いおつむで、おふたりのむつかしいお言葉をくりかえし読んでおりました。

お勉強をさせていただきどうもありがとうございます。
先にたくさん学びを進まれている方々のディベートの迫力に、どきどきしました。

ドグマがゆるめの仏教のおしえは魅力的ですが、はるか末法に下ったお弟子の方々がこのようにご苦労なさるのも、ブッダはお見通しであったでしょうね。

郷田只見さまには、ナマステブッダの掲示板のほうでも、あるいは是非に福山の全雄先生のお寺ででも、論壇の場を引き続きもたれることを、あるいはご友情の発芽の機会をもたれることを、差し出がましくも希望いたします。
なあなあ、ずぶずぶ、予定調和的ではない、おふたりに憧憬いたしますゆえ、なおさら。  

さて、郷田さまは岐阜のほうですか?
返信する
郷田様へ (全雄)
2013-09-24 08:41:40
返信が滞りまして、失礼致しました。

まず、等覚についてですが、sambodhifは、おっしゃるとおり正しい悟りですが、この言葉に等しく成るという意味はないように思います。漢訳語の漢字から意味をとられない方が良いと思います。

結跏趺坐して端座されたことを坐禅と言われていますが、いわゆる禅宗の坐禅とは違うと思います。坐禅瞑想には様々なものがありますので。特に釈迦様の瞑想は止観のうちの観に重きを置かれていると考えられています。つまり観とは、内観、ヴィパッサナー瞑想であり、四念処のことです。中部経典にはいくつも関連経典が集録されています。

また、三昧という言葉はインドの宗教にもともとあった言葉です。バラモン教、ヒンドゥー教でも、仏教でも用いられていますが、それは一つの段階を示しているに過ぎず、その先をお説きになられたのがお釈迦様です。智慧の瞑想として観法、インサイトメディテーションを重視されています。

最後に、一連の問答の最初にご指摘だった輪廻の問題に戻りますが、私たち凡夫が死んでも涅槃に還るなどということはありません。生前に悟りの寸前までいけた人は天界に逝き修行すれば解脱します。最高の悟りを生前に得られた人のみ輪廻から解放されると考えます。そうしたことも中部経典に書かれています。経典にあることはそのまま受け入れるべきだと私は思っております。(中部経典68ナラカパーナ経)

自分の好む一部の経典だけを取り上げて推量するのではなく、全体を見て、総合的に仏教を理解されることをお勧めいたします。何度も沢山のコメントをお書き下さいまして、誠にありがとうございました。

また何か疑問点などございましたら、どうぞお気軽にお越し下さい。
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きりぎりす様へ (郷田只見)
2013-09-24 14:57:24
 横山全雄ご住職様との仏教理解に関するコメントのやり取りを興味深くお読み下さっていたとのことで、まことに有難うございます。別の場での議論のお誘いを頂きましたが、私は未熟者であり、膨大な量の原始経典を読んでいる最中であります。学者によって釈尊の直接の説法に最も近いものとされている「相応部経典」(7762経。56の重要テーマに関してそれに相応した経をテーマごとに集めたもの。例えば、「真理相応」の下には「真理」に関する釈尊の説法が130経集められております。)は和訳書(「南伝大蔵経」)によって2回以上読み、重要なものは私なりにパーリ語原書から和訳しておりますが、それ以外の「増支部経典」、「小部経典」、「中部経典」、「長部経典」は読み込みが不十分で、まだ読んでいないものがかなりあります。現在は「中部経典」を重要と思われるものは和訳しつつ読んでおります。こういう次第で、せっかくのお誘いではありますが、現在の私の、年齢のことも含む、このような状況では議論よりも重要と考えます原始経典の読み込みと理解したことのまとめ(論文作成)とを急ぎたいと思っております。どうかお許し下さいますように。
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横山ご住職様へ (郷田只見)
2013-09-24 17:43:43
 仏教理解に関する愚見に対し再々コメントを賜り、まことに有難うございます。いろいろとご指摘や疑問を頂いておりますのに、このままで去ってしまうのは大変失礼に当たると思い直し、再びこれが最後と思いつつ出て参りました。
 前回の投稿では、ご住職様の仏教理解に関する愚見に対する様々なご指摘や疑問に間接的にお答えするつもりで、仏教の始源に存する釈尊の「等覚」の根本経験についての愚見を述べさせて頂きました。この根本経験は原始経典「聖求経」の記述によれば、「涅槃に到達した」という経験であり、さらにこれは、より具体的には、<涅槃を見られた法(=現象)において悟り、涅槃に到り等しく成った>という経験でありました。涅槃が<現象において>悟られるとされるのは、涅槃は一切の現象を越えているものではありますが、現象のどこか外にあるといったものではなく、現象を貫いてあるものであるからであります。このような経験は、本当に真剣になって坐禅等の三昧行を行った時、多くの人が経験したような経験ではないでしょうか?私は、ピアノの演奏者やスポーツの選手の何人かの人がこのような経験をしたというのを聞いております。この経験は、宇宙を貫いている涅槃を見るだけではなく、自分が、他の一切のものと共に、涅槃に成って宇宙を貫いているという経験であります。この経験から、<一切のものは涅槃(聖なる真理)である>という仏教の根本説が出て来るものと思います。
 涅槃は、前に挙げました「貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽、これが、比丘達よ、涅槃と言われるのである」という説法の言葉にも見られますように、「・・・の滅」として説かれております。仏教学者は、涅槃は「貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽」であると言われていることから、涅槃は一切の煩悩や欲望がなくなった心の理想の境地であると主張していますが、しかし、釈尊の説法では「・・・の滅」の「・・・」のところにはありとあらゆるものが来ています。一例を挙げます。「世尊は涅槃に関する法話によって比丘達に教示し、激励し、鼓舞し、欣喜せしめた。・・・『比丘達よ、このような処がある。そこは地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなく、この世も他の世もなく、日月の両者もない。それを私は、比丘達よ、来とも言わず、往とも言わず、住とも言わず、没とも言わず、再生とも言わない。これこそはまさに住なく、転起なく、縁境なき処であり、これこそ苦の終りなのである。』」(「自説経(Udāna)」80頁)
 「涅槃」はこのように<一切のものの滅>と表されていることになりますが、「涅槃」(←涅槃那)はnibbāna の音訳であり、nibbānaは「消尽、滅」(←nibbāti 消尽する)という意味を有しています。そして、<一切のものの滅>とは<一切のものを貫き越えたもの>ということを表しています(今は証拠を挙げて述べることができません)。
 以上、涅槃は<一切のものの滅>とされているということを申しましたのは、「般若波羅蜜多心経」の「空」がまさにこの涅槃のことであるということを申すためでありました。原始経典は「涅槃」を説くものでありますから、その至る所で「・・・の滅」とか「無・・・」とかといった表現に出会いますが、これに慣れている者にとっては「涅槃」が「空」と表現されても何の驚きでもありません。同経は「五蘊は皆空なり」と説いていますが、これは「一切のものは涅槃である」ということと同じであります。これが仏教の根本説であると私は思っております。なぜなら、これが仏教の根本経験の内容をなすものであるからであります。
 前に私がこのことを申し上げた時、ご住職様は、とんでもない、あきれたといったようなことを言われ、もし人間を含む一切のものが涅槃であるのならば、釈尊の6年にわたる苦しい修行は何だったのかといったようなことを言われました。これは若き道元禅師の疑問でもありました。これに対しては、後に次のように答えられております。「この法[=涅槃]は人人の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるにはうることなし。」(『正法眼蔵』「弁道話」)涅槃は、原始経典の多くの箇所で、「非時間的なもの」、したがってあれこれの現象ではないものであるが、「現に見られるもの」であり、「ほら見よと言われるようなもの」であり、「各自に経験されるべきもの」であると言われております(「相応部経典」第1巻158頁等)。しかし、「涅槃」は、三昧行の修行をしなければ、このように見られ、経験されないのであります。
 仏教は、このような「涅槃」には極めて限られた人しか行けない、したがって極めて限られた人しか救われないということを説くものでは決してないのではありませんか?誰もが永遠のいのちとも言うべき「涅槃」にすでに行っているのではありませんか?誰もがすでに救われているのではありませんか?ただ多くの人はそのことを気付かないだけであるのではありませんか?
 余りにも長くなり、大変失礼いたしました。ご住職様のご健康とご活躍をお祈りいたします。
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郷田様へ (全雄)
2013-09-25 18:20:38
再度の書き込みをいただきましたので、もう一度書きます。

郷田様は自説を述べられているだけでこちらの書いていることに、真摯に対応なされていないことにお気づきですか。

大乗仏教の知識が先にあり、原始経典をお読みになられてもそのそれに叶うものだけを抽出し解釈することになるのではないですか。そして大乗教との折衷により自説をおたてになる。

だから自説に反することは切り捨てられる。

郷田様の頭には原始経典に触れる前に沢山の仏教知識がおありでした。それをすべて取り払ってもう一度原始経典に当たられることをお勧めします。

道元禅師もおられず、般若心経もなかった時代に原始経典は誕生しています。是非原始経典をご研究なされておいでなら、そのまま理解されますことを念願致します。大変な御努力をなされておられ、とても素晴らしい研究をなされておいでです。

日本人仏教徒があたりまえのように思っていることが実は他国の仏教徒には理解できないことが多々あります。

みんな仏なんだ涅槃なんだ、などということは世界では通用しません。死んだら仏だとかですね。

思い込みをすべて捨てて、原始仏教をご研究なら、ただお釈迦様の教説のみにて仏教をお考え下さい。

大乗仏教を捨てられないのなら、原始仏教と大乗仏教を切り離してご研究を深められることをお勧めいたします。


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再度郷田様へ (全雄)
2013-09-26 11:23:41
封書を送られていたことを思い出し、お名前を確認致しました。立派な論文を再読しました。

ご自身の坐禅中の体験にも触れられていたことを拝読し、ここまで自身のご研究に没頭される郷田様の熱心さが理解できました。

出来たらその経験をさらに乗り越える坐禅に励んでみられることをお願いいたしたく存じます。何度もこれまでにも励まれたことでしょうが、そのご記憶を捨てて、新たに挑戦なされてみて欲しいと思います。

その立派な体験がありましても、その状態は記憶としてしか残っておられないことでしょう。私自身も含め、友人にも沢山皆表現は違うものの瞑想体験を持っております。その先に進むためには一つの経験が邪魔をすることもあるようです。

一生精進を続けることも必要なのかもしれません。それがすべてと思ったら、成長は止まったままなのだと思います。心が完全に清らかになり、最高の悟りを得られまでともに励んで参りましょう。ありがとうございました。
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郷さま (きりぎりす)
2013-09-30 10:41:56
郷 田只見 さま
わたしのようなものにまでお返事をくださって、おそれいります。
ご研鑚に伴う論文完成を楽しみにしています。どうぞ悔いのないよう、ライフワークにお励みくださいませね。
取り急ぎ、お返事くださったことへの御礼まで。  
  きりぎりす秋霖葉かげの濡れそぼり
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善行のネタが浮かばない (困ったー)
2018-07-31 22:48:06
来世をより良くする為に、良い事をいっぱいしましょうと
言う事ですね
何しようかなぁー・・・・
霊供養位しかデカイ事は出来ない
この世の生き物に善行と言うと・・・親孝行位しかない・・・
親には永代供養やろうとか・・・(僧侶の懐大喜び)
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