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ラタナ・スッタについて考える-新型コロナウイルス感染終息のために

2020年05月05日 10時06分48秒 | 仏教に関する様々なお話
ラタナ・スッタについて考える-新型コロナウイルス感染終息の為に




新型コロナウイルス感染症の終息平癒を願って世界中で毎日唱えられているラタナ・スッタについて、それはいかなる経典なのか考えてみたいと思う。既に前回述べているとおり、これは、ブーターという、日本で言えば霊たち、沢山の目に見えない生存を取らざるを得なかったものたちに向けて、この世の宝とは何か、大切にすべきものは何か、と教え諭していき、人々に悪さをせずに、ともに幸せであれと祝福するお経である。つまり、本当に目指すべきは何か、どうあるのが幸せというのかと教える内容となる。

ラタナ・スッタは17の美しい偈文によって構成されている。初めの2偈は、これから説く内容についてよく聞きなさい、霊たちよと呼びかけ、この経典の総論である、人々を慈しみ守りなさい、ともに幸せでありなさいと説いている。そして、最後の3偈は、説いてきたこの世の最上の宝である三宝を礼拝し幸せであれと集まれし霊たちを祝福し経典を閉じている。

ではこの世の宝である三宝・仏法僧について、残りの12偈は、どのような構成になっているのかというと、仏宝については3偈、法宝については2偈、僧宝については7偈となっている。この構成から何を読み解くことができようか。三宝の徳というとき、私たちはどうしても仏様の偉大さ、その法のありがたさについて思い巡らすであろう。お釈迦様の生涯の尊さについて説き、法の確かな真理を敬う。しかし、ここでは、半分以上の項目にわたって、僧についてその何がありがたきことかと説いていかれる。仏の説いた教えを実践し法を継承していくことの尊さを説く。僧という、その存在がいかに大事なものか、そのあり方が大切なものか、いかにあるべきかを教えてくれている。

まず、仏宝についての3偈から見ていこう。ここでは、この世に如来に等しき宝はないと説き、夏に密林で花が一気に満開になるように最高の悟りを得られ、そこに至る道を知り、与え、取り出すことのできる勝れた法を示したとある。つまり、自らの試行錯誤の末に、誰に教えられることなく自らその道を進まれお悟りになり、多くの仏弟子たちに教えを垂れ、それぞれの人に相応しく教え諭し、自らと同じ最高の悟りを得させることに成功された偉大なる仏陀であるからこそ尊い宝なのであると説いている。

つぎに、法宝については、煩悩が滅尽し、貪りを離れ、涅槃に至る法であり、それは三昧によって、つまり瞑想によって、完全なる智に至るものであると説く。仏の教え・法とは、仏になるための教えであるのだから当然ではあるが、ここには私たちの想定しがちな、智慧と慈悲、真理と慈しみ、この世の成り立ちとありがたいお慈悲・お蔭、とでもいうような内容はない。いたってシンプルに悟りうる教えであるからこそ尊い宝なのであると説いている。

ではなぜ悟りとは尊いのか。私たち、生きとし生けるもの・衆生は、何度も生まれ変わり、死に変わる輪廻の中に生きているからであるという前提がある。どんなところに生まれ変わるともしれない苦しみの連鎖である輪廻を終わらせることができるのは悟りしかない。だからこそ悟りに至る教えを説いた仏は尊く、その教えはありがたいのである。だからこそ、すべての生存にとって、人間にもブーターたちにも、仏の法は最上の宝ものなのだということになる。(輪廻など仏教では説かないと考える方は、森 章司「死後・輪廻はあるか---「無記」「十二縁起」「無我」の再考---」(『東洋学論叢』第30号 東洋大学文学部 2005年3月)を参照ください)

では、僧宝について見ていこう。ここでは僧とは凡夫僧ではなく、四双八輩の聖者を対象としている。根本的な無智を破る無常の真理を体験して預流果(よるか)に悟り、更に修行を重ねて貪瞋癡の煩悩が薄くなると一来果(いちらいか)に悟り、欲界の煩悩がすべて断たれると不還果(ふげんか)に悟り、すべての無明が断たれると阿羅漢果(あらかんか)に悟るとされる。これらに向かい修行する段階にある聖者を、◯◯向(こう)といい、それらを併せて、預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果という順番に進む四つの対になった八衆の聖者を四双八輩という。彼らに供養すると大きな功徳があるとし、彼らは、日々堅固に努力して、最高の悟りを得て、その喜びを得た人たちであるとする。

四方からの風にも動揺しない柱のように、確かな真理・四聖諦(苦・集・滅・道の真理)を見て、それを理解した預流果の聖者たちは、どんなに怠惰な生活をしたとしても七回の生存のうちに最高の悟りを得るので8回目の生まれ変わりはない。預流果の聖者は、有身見(うしんけん・私がいるという邪見)、疑(ぎ・教えに対する疑念)、戒禁取(かいごんしゅ・苦行やしきたりなどへのこだわり)を捨て、四悪趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)に堕すことなく、六重罪(母を殺す・父を殺す・阿羅漢を殺す・仏陀の身体から血を流す・僧団の和合を破る・外教の師に従う)を犯すこともない。そして、たとえ身口意に悪いことをしても隠すことができず、古い業は尽き、新しい業は生起せず、未来世に生きたいという種は尽き、欲も生まれず、灯りが消えゆくように死後再生することがないと説く。僧とは、かくあれということでもあり、こうあってこそ命ある者たちの先を行く、先導するものとして殊勝の宝と言いうるということであろう。

誠に厳しき内容ではあるが、世界的にこの段階にある僧宝はどれほどあるであろう。しかし、世界中で、多くの僧たちがこうあるべく努力しているからこそ、僧宝とならんがために努力しているからこそ、教えが残り、実践が残り、その尊さが維持されているとも言えようか。大切なことではないかと思う。私たちは、ともすると仏や、祖師の偉大さばかりを説く。しかし、そもそもそれを伝えんとする人々のあり方、実践について触れることは少ない。ラタナ・スッタは、私たちに僧の大切さ、仏教を未来に存続させていく意味においても、僧、あるいは仏教徒たちがいかにあるべきか、何を大切にすべきかを教えてくれている。

最後に、ラトナ・スッタは、ブーターという霊たちにむけて、仏教のありがたさに目を向けさせて、その生き方そのものを転換せよと説いている。あなたたちに大事なものは何か。いまのその生存のままでいいのですか、つまらないことにうつつを抜かし、くだらない楽しみのために周りの人々を傷つけて喜んでいる、そんなことでいい訳がないでしょう、少し目の向け方を変えたらどうですか、どうしたらもう少しよいものになれるのか、よりよく生き換えるにはどうすればいいのか、それには何が大切で、いかに生きるべきかと説く。生きるものの最上の手本である僧たちのように生きよ、幸せであれと教え諭している。

つまり宝である僧たちが歩む先に、命あるものにとっての本当の幸せがあるということであろう。その至福の喜びに向かって生きるものたちを尊敬し礼拝して、そなたたちもその道をこそ理想として歩むべきだとするのである。今の私たちにも参考となる内容であろう。不平不満ばかりの私たちとブーターたちと何が違うのか。その意味を考え、生き方を私たちも変えていく必要があるのかもしれない。仏教とは、日々研鑽を重ね、少しずつでも向上していくことを勧める教えであり、お釈迦様は私たちにそれをこそ願っておられるのだといえよう。

この世の中の混乱が終息し、一日も早くもとの平穏が戻ることを願います。


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