報恩と題する古い経典がある。そなたたちに善ならざる人の立場と善なる人の立場を示すことにしよう、とお釈迦様が話し始めるこの経典では、恩を知り今あることの恵みに気づいている人が善なる人の立場であり、まことある人が習いとすることであると教えられている。
そして、その恩を知るべきものの筆頭に父母があり、この二人には容易には償いが出来ないと言明される。そして、例え、百歳の寿命の人がその寿命に達し、なおかつその年で母親父親のお世話をし、香を体に塗り、さすり、沐浴させ、もみほぐす。また尿や糞などの排泄物を処理したとしても、それでもなおかつ両親に対して何事かをなした、あるいは償いを果たしたことにはならないのである、とお釈迦様は諭される。
そしてさらに、七つの宝に満ちたこの大地で王者の位に上らせるほどに両親に対して勤めたとしてもその恩に報いるに足りない。なぜならば、母と父はその子に多くの助けを与え、支持し、養育し、この世界を子に示した人であるから、とお釈迦様の言葉は続く。
なれば、どうすれば私たちは父母に償いを果たすことが出来るのであろうか。この経典では、もしもその両親に信仰心がなく、行いが正しくなく、また欲が強く物惜しみをするならば、信仰に導き、正しい生活を示し、布施をするように誘う必要がある。また智慧浅ければ智慧の達成へと誘う、そうしてこそ父母の恩義に報いるに足り、それ以上に何事かをなしたと言えるのである、お釈迦様はこのように教えられている。
ただ従順に従い、付き従うことが私たちの恩に報いる道ではないことをお釈迦様は示された。もしも恩義あるものに誤りがあるのなら正しい道に誘い教え諭すことが必要なのであると教えられている。
仏教では、いのちをこの世で授かり生きていく上で、私たちが恩を知るべきものとして四つのものを挙げている。上に述べたとおり筆頭は、父母であり、それから衆生、国家、三宝であり、四恩と言われる。生きとし生けるものたち衆生があって初めて私たちの生活は成り立っているのであり、そのもとには私たちを守り保護している国家の存在があり、それから精神的に生きる上での支えとなる三宝があると考える。
報恩と題する経典から、今私たちは恩あるものに対する償いの仕方を学んだ。時あたかも私たちの命と財産を守り保護するはずの国家が誠に心許ない存在となりつつある。たった一つの法案を殊更に誇張して、この法案が通らなければ国家の骨格を揺るがせると言わんばかりの意味づけを施し、憲法を逸脱してまで衆議院を解散させた。
先の国会でこの法案に良識をもって反対した者たちを追い出し、刺客を差し向けるなどという穏やかならぬ表現が新聞紙上を賑わせる世の中になってしまった。他国から通告される「年次改革要望書」に則り、そのまま法案を上程し可決を謀るような傀儡とも取れる政権が長期にこの国を支配するようなことでいいものなのか。
エコノミックアニマルと罵られながらも私たちの祖父や父親たちが戦後の復興に血眼になって積み上げてきた国内経済も、いまや国債などの長期負債額は800兆円という途方もない借金で賄う誠に愚かしい状況にある。それに加え、どの業界もスキャンダルに巻き込まれて外国資本に乗っ取られようとしている。銀行や保険ばかりではない、通信事業や流通業界も、これから航空業界も狙われるのではないか。
アメリカ式経営スタイルが浸透し、リストラが奨励され、正社員が減少して、フリーター、パート労働者ばかりの不安定な国になりつつある。それにもかかわらず、配偶者控除が無くなり年金や健康保険料ばかり上がるなど重税国家になろうとしている。消費税も上がることになろう。
地方には市町村合併を強引に推進して、公務員や議員を減らす事を強いているのに、中央官庁の官僚や国会議員の削減、年金問題などについては何も具体的な話が聞こえてこないのはどうしたことか。
さらに首相の靖国参拝問題から発展した中国、韓国という隣国との緊張状態も、故意に別の作為をもって騒擾されたものではないか。その先には憲法改正や米軍の世界的再編計画の一端を担うべく準備されたものではないかとも思われる。イラクに派遣した自衛隊も話題に上らないほどその意義が曖昧なものとなり、ただ世界の体制を維持するための駒と成り果てている。
いずれにしても私たちは、過去の戦争で、新聞などマスコミがその時どのように振る舞うのかを学んできたことを忘れてはなるまい。マスコミの誘導に乗ってはならない。ただ、物事の推移を冷静に観察し残されていく事実だけを見続けることが必要なのではないか。そこから透けて見える真実をわが視点として物事を判断することが必要なのではないかと思う。
両親に信仰心がなく、行いが正しくなく、また欲が強く物惜しみをするならば、信仰に導き、正しい生活を示し、布施をするように誘う必要がある。また智慧浅ければ智慧の達成へと誘う、そうしてこそ父母の恩義に報いるに足り、それ以上に何事かをなしたと言えるのである、とお釈迦様は教えられた。
国家が国民に安寧をもたらす気持ちがないならば、国民の命と財産を守る本義を忘れているなら、自己保身のみに執心し国の富を保全する気持ちを失っているなら、また良識とまことを置き去りにしているようなら、私たち一人一人が非力とは思いながらも一票として、そのことを国家に教え諭すことが必要なのではあるまいか。私たち一人一人の強い意志こそが何にも代えがたい国家への報恩であることを忘れてはなるまい。
そして、その恩を知るべきものの筆頭に父母があり、この二人には容易には償いが出来ないと言明される。そして、例え、百歳の寿命の人がその寿命に達し、なおかつその年で母親父親のお世話をし、香を体に塗り、さすり、沐浴させ、もみほぐす。また尿や糞などの排泄物を処理したとしても、それでもなおかつ両親に対して何事かをなした、あるいは償いを果たしたことにはならないのである、とお釈迦様は諭される。
そしてさらに、七つの宝に満ちたこの大地で王者の位に上らせるほどに両親に対して勤めたとしてもその恩に報いるに足りない。なぜならば、母と父はその子に多くの助けを与え、支持し、養育し、この世界を子に示した人であるから、とお釈迦様の言葉は続く。
なれば、どうすれば私たちは父母に償いを果たすことが出来るのであろうか。この経典では、もしもその両親に信仰心がなく、行いが正しくなく、また欲が強く物惜しみをするならば、信仰に導き、正しい生活を示し、布施をするように誘う必要がある。また智慧浅ければ智慧の達成へと誘う、そうしてこそ父母の恩義に報いるに足り、それ以上に何事かをなしたと言えるのである、お釈迦様はこのように教えられている。
ただ従順に従い、付き従うことが私たちの恩に報いる道ではないことをお釈迦様は示された。もしも恩義あるものに誤りがあるのなら正しい道に誘い教え諭すことが必要なのであると教えられている。
仏教では、いのちをこの世で授かり生きていく上で、私たちが恩を知るべきものとして四つのものを挙げている。上に述べたとおり筆頭は、父母であり、それから衆生、国家、三宝であり、四恩と言われる。生きとし生けるものたち衆生があって初めて私たちの生活は成り立っているのであり、そのもとには私たちを守り保護している国家の存在があり、それから精神的に生きる上での支えとなる三宝があると考える。
報恩と題する経典から、今私たちは恩あるものに対する償いの仕方を学んだ。時あたかも私たちの命と財産を守り保護するはずの国家が誠に心許ない存在となりつつある。たった一つの法案を殊更に誇張して、この法案が通らなければ国家の骨格を揺るがせると言わんばかりの意味づけを施し、憲法を逸脱してまで衆議院を解散させた。
先の国会でこの法案に良識をもって反対した者たちを追い出し、刺客を差し向けるなどという穏やかならぬ表現が新聞紙上を賑わせる世の中になってしまった。他国から通告される「年次改革要望書」に則り、そのまま法案を上程し可決を謀るような傀儡とも取れる政権が長期にこの国を支配するようなことでいいものなのか。
エコノミックアニマルと罵られながらも私たちの祖父や父親たちが戦後の復興に血眼になって積み上げてきた国内経済も、いまや国債などの長期負債額は800兆円という途方もない借金で賄う誠に愚かしい状況にある。それに加え、どの業界もスキャンダルに巻き込まれて外国資本に乗っ取られようとしている。銀行や保険ばかりではない、通信事業や流通業界も、これから航空業界も狙われるのではないか。
アメリカ式経営スタイルが浸透し、リストラが奨励され、正社員が減少して、フリーター、パート労働者ばかりの不安定な国になりつつある。それにもかかわらず、配偶者控除が無くなり年金や健康保険料ばかり上がるなど重税国家になろうとしている。消費税も上がることになろう。
地方には市町村合併を強引に推進して、公務員や議員を減らす事を強いているのに、中央官庁の官僚や国会議員の削減、年金問題などについては何も具体的な話が聞こえてこないのはどうしたことか。
さらに首相の靖国参拝問題から発展した中国、韓国という隣国との緊張状態も、故意に別の作為をもって騒擾されたものではないか。その先には憲法改正や米軍の世界的再編計画の一端を担うべく準備されたものではないかとも思われる。イラクに派遣した自衛隊も話題に上らないほどその意義が曖昧なものとなり、ただ世界の体制を維持するための駒と成り果てている。
いずれにしても私たちは、過去の戦争で、新聞などマスコミがその時どのように振る舞うのかを学んできたことを忘れてはなるまい。マスコミの誘導に乗ってはならない。ただ、物事の推移を冷静に観察し残されていく事実だけを見続けることが必要なのではないか。そこから透けて見える真実をわが視点として物事を判断することが必要なのではないかと思う。
両親に信仰心がなく、行いが正しくなく、また欲が強く物惜しみをするならば、信仰に導き、正しい生活を示し、布施をするように誘う必要がある。また智慧浅ければ智慧の達成へと誘う、そうしてこそ父母の恩義に報いるに足り、それ以上に何事かをなしたと言えるのである、とお釈迦様は教えられた。
国家が国民に安寧をもたらす気持ちがないならば、国民の命と財産を守る本義を忘れているなら、自己保身のみに執心し国の富を保全する気持ちを失っているなら、また良識とまことを置き去りにしているようなら、私たち一人一人が非力とは思いながらも一票として、そのことを国家に教え諭すことが必要なのではあるまいか。私たち一人一人の強い意志こそが何にも代えがたい国家への報恩であることを忘れてはなるまい。