住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

「ダライラマとの対話」を読んで-1

2010年08月04日 19時42分01秒 | 仏教書探訪
今年五月十四日発行の講談社文庫の新刊である。単行本としては、三年前の六月にNHK出版から『目覚めよ仏教!ダライラマとの対話』として刊行されている。文化人類学者で、東工大大学院准教授の上田紀行氏が、二〇〇五年一二月にインド・ダラムサラにダライラマ法王猊下をお訪ねして二日間にわたって対談がなされた。その記録である。

上田氏には『頑張れ仏教!』という著作があり、以前読ませていただいたことがある。何人かの様々な社会的な活動を通して注目を集める僧侶を紹介しつつ、日本仏教の活性化、その再生を期する内容の本である。その根底には、寺院内に閉じこもり、葬式法事、仏事に勤しみ、社会の様々な諸問題を見過ごして、積極的な活動を閉じてしまったかの今日のお寺に対する不満がある。

上田氏は何度か世界的な仏教者会議でのダライラマ法王の発言を聞き、強く感化され今回の対談が実現した。英語でなされた白熱した対談はダライラマ法王庁の側近達にもその特異さが実感されるほどのものであったという。日本からやっと対論出来る人物が来たと歓迎された上田氏は、それまでにない法王の一面を引き出すことに成功したようだ。その対論の中から、特に私が印象深く思ったところを紹介し、感想を述べたいと思う。

まず、「日本の教育について」法王は、恵まれた家庭を持ち、ほとんどの人の教育水準は高いけれども、一人一人が自分の人生だけを生きていて、そこには深い人間的な価値の重要性には注意が向けられず、愛情、思いやりの必要性などが芽生えていない。教養や知識、知性といった面の教育ばかりが当然とされ、人間のより深い価値、人間が本来持つべき愛情とか思いやりとかに注意が払われてはいない。それらは本来宗教がなすべきことではあるが、宗教も金儲けに走ってみたりして表面的なものになってはいまいか。

そして、たとえ慈悲がいかに大切かと僧侶たちが説いても、それは言葉のレベル、知識としてのレベルにとどまり、実践しようともせず、本当に人生において決して欠かすことの出来ないものだという強い思いも持ち得ていない。よって結果的に社会全体が近代的な教育システムによってのみ形成されることとなり、つまりは、人間的な優しさという人間にとって欠かすことの出来ない一番大切なものを育むことに完全に失敗している。

愛情や思いやりという深いレベルにおける人間価値の必要性を説くことの出来ないそのシステムは、社会全体が間違った認識を元に人生を歩ませ、機械や植物のようなレベルの愛情を必要としない存在であるかの間違った認識を植え付けてしまっている。だからこそ今日の社会はお金次第の社会に成り下がっているのではないか。お金次第の社会は攻撃的な社会で、いじめの問題も出てくるし、権力者が思うままに力を使い、残酷な行いをする。それによって益々社会不安が増す。そういう社会では、愛とか思いやりという人間価値こそ大切なものだという考え方をする人は全く愚か者だという扱いを受ける。(P53~P57)

上田氏は、市場原理主義、競争競合を極限まで奨励する経済に反対する著作もなしているが、それに関連して述べるならば、まさに、市場原理主義が導入されて以来、攻撃的な社会、意見を異にする者に対するいじめを自ら行い、国民の財産であった公共サービスを民営化との名目で思うままに私営化した。

さらには、大企業の国際競争力が必要との口実のもとに労働力を搾取、子会社にも残酷なまでに隷属化を強いているかに見える。自らが襟を正し国民にあるべき姿を示すべき人々が率先して異なる意見の者たちを排除して、社会不安をあおっているかに見える。それでは、子供のいじめ対策、少子化問題などのれんに腕押しと言えまいか。

もちろん、宗教者に対するご指摘は当然のことであろう。僧侶が説く教えが表面的な言葉のレベルに留まっているとの指摘もうなずける。自ら人生に苦悩しその教えに触れ、それによって心の平安を得て、そのすばらしさを縁ある人々に説くというのが本来あるべき姿なのであろう。自らの感激、葛藤の末にたどり着いた境地というものを持たないのであるなら、他にそのすばらしさを語り伝えようもないのは当たり前のことであろう。

本来宗教家とは、法王が指摘する愚か者を演じる立場なのかもしれない。社会のその他大勢と同じ価値観のもとに生きてしまってはいけないのではないか。お金など二の次三の次で、愛とか思いやりこそ大切なものなのだということを人生を通して示す、人々の見本となるべき存在なのであろう。お金次第と思っている多くの人たちから、たとえ救いようのない愚か者だと思われようとも。

次に、「社会と宗教とのスタンスについて」法王は、多くの人が貧しさに苦しんでいるとか、社会の不正が起きてしまっているというときに仏教徒がそれに無関心であってはならない。経済的な分野、その他のいかなる分野においても社会的な不正に直面したとき、宗教者がそういった社会問題に無関心な態度をとるのは全く間違ったことだと思う。宗教的な立場に携わる者こそそういった問題を何とか解決していこうという積極的な態度で取り組むよう心がけるべきである。

怒りには慈悲の心から起こる怒りがある。他の者に対する思いやりとか愛情とか、慈悲の心が存在していて、その心を動機として怒りが生まれる場合には、その怒りは相手を害そうとする悪い動機はない。社会にある不正、人々を苦しめる間違った破壊的な行為などに対して、心から関心を寄せて、何とか社会の不正を正していきたいという気持ちから生じてくる怒りは、その問題が解決するまで、維持すべきである。

上田氏が、これに関連して、日本では社会活動に積極的な僧侶に対して他の僧侶たちの評価が低いのだが、それは、そうして社会に対して憤りを持つこと自体が、悟っていない、ないし境地が低いなどと揶揄されたりするからで、どんなに社会的な不正があろうが、目の前でひどいことが行われていようが怒りを持つというのは仏教的でないと思われている、と説明すると。

法王は、捨てるべき偏見のある欲望に対して、悟りを求める心などの偏見のない心が持つ価値ある欲望は捨てるべきではない。それと同様に、社会活動を行っている僧侶たちが持つ怒りや憤りも、決してその境地が低いなどと言われるべきものではなく、何事も怒りや執着を悪いもの、なくすべきものと考えるのは単に理論的な言葉上のことであって、現実の社会にあってその実践的な立場では理論と実践を区別すべきである。(P89~P101)

ここでの発言は、まさに法王庁のスタッフたち自らがそれまで聞いたこともないような驚くほど過激な発言であったようだ。しかし、そこで言われていることは、まさに今の時代に不可欠な視点ではないかと思う。チベットは自治権を失いインドへ亡命して久しいわけではあるが、私たち日本人も本当は同じような状況に置かれているのではあるまいか。自分たちの土地にあって、仕事も家族も財産も所有していて何が同じものかと言われればその通りかもしれない。

しかし私たち一人一人の意志が全く繁栄されない社会に私たちは住んでいるのではないか。未だに占領下にあるが如くではないか。六月に『今、この国を思う』で書いたとおり、日本にいるのかも分からない一握りの人たちの意志でこの国が動かされている。政治も経済も何もかも、私たちの意志など眼中にない者たちがすべてを操作し、マスコミを動かし、大多数の国民を誘導し、あたかも自らの意志で選択したかに見せながら、すべてが彼らの匙加減の中にある。

格差社会、一部の者たちだけが多くのパイをつかみ、さらに吸い上げられた残りのわずかなものを大多数の者たちが分け合う。大企業の多くの株を所有する人たちが企業の利益を吸い取り、本来日本企業が大切にしてきた労働者への分配を可能な限り減らし、外国籍の株主・役員がその大半をせしめてしまう。そのためにも消費税が俎上にある。何のための企業であろうか。さらには生産ラインもその多くが海外に展開される。国内には何も残らない展望のない国になりつつある。この国の現状に宗教者は決して無関心であってはならないであろう。つづく

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福徳門を舐めるな! (忠武飛龍)
2010-08-05 12:24:00
以前ネットで懇意にしていた三人文殊氏

http://plaza.rakuten.co.jp/totteiwakusyokyo/

三人文殊さんとは政治的な意見はかなり違うので相互にリンクはしてないですが、いろいろお教えはいただきました。
中で、「近代以降、神仏分離・農地解放で、寺院の経済力が失われたのも多い」という説も納得してます。

が、違う思いもあります。

先日、高野山奥の院で頂いた弘法大師御影の前で、お経を唱えて、ご法号を唱えながら
「お大師さんに、就労を願っても、関帝{三国志の関羽・財神でもある}でないから、少々無茶かな・・」と思っていたら、突然心中で「俺の福徳門を舐めるなよ!」というようなことを大師がいったように思いました。

真言宗って現世利益は日本仏教ナンバーワンですよね。
福徳門と大師は言ってます。

大師・叡尊さんら社会的弱者救済に尽力した方も多いです。
が、今ワーキングプアとか格差・弱者問題では、一向宗・日蓮宗系の僧侶は見えても、真言宗の僧侶は、皆無に近いです。

このまま庶民のために、福徳門を用いることなければ、真言宗が滅亡しても、大師も「当然」とはき捨てるでしょう。

で、私の提案ですが、
「失業・ワーキングプア・自殺撲滅。健康・景気回復の大護摩会」を催したら如何でしょう。
企業家・経営者やワーキグプア・失業対策のNPOや引きこもり・ニート支援のNPOも集めて、普通の信心厚い人や檀家さんで理解ある人も集まってもらい、その人たちの交流の場として、「大護摩会」を催すが良いように思います。
引きこもり・ニートはボランティアとして、社会復帰の訓練に、失業者・ワーキグプアは、就労機会を得る場所に、企業家・経営者は、滅罪と社会貢献と人材発掘に、一般の人は、失業者やニート・引きこもりも普通の人であることの再認識の場所にと。

まあ浅知恵ですが、なに為すべきに思います。

ご尽力と健康をお祈りします。

返信する
過激ですが・・ (忠武飛龍)
2010-08-06 10:52:29
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

真言宗は「現世利益」の「二利円満」{自他の円満}と「即身成仏」{さっさと仏陀として生きる}が看板です。
で、その「現世利益」で「自他の幸福」のための技能でもあるものに「護摩」ってあります。
まあ本来は「即身成仏」の修行ですけど。

で、それで「自殺・失業退散!ワーキングプア・格差拡大の鎮定!健康・景気回復」で、県単位か本山単位で大護摩会をして、企業やら失業者支援・ニート引きこもり支援のNPOとその当事者や自殺対策NPO・活動者とを集めて、彼らが集い交流する「場の提供」も含めて、やれば良いのです。

ってまあそれをやる器量の坊主は居らんでしょう。まあイデオロギーに汚染されているか、愛も慈悲も無いのをもっともな正論でごまかすでしょうから。
まあ早急にそれができないなら、まず真言宗が滅びて、組織宗教で慈悲・慈愛のないモノの末路を見せてやるのが、せめてもの天地神仏・先師へのご恩返しです。
空海や叡尊らの名前を辱めて滅びたら良いのです。できなければね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と自身のブログに書きました。真言密教においてはド素人なので誤解過ちもあると思いますが、過激な言い方で書きました。

組織宗教の終焉と時々耳目にします。
大師も「秘蔵宝ヤク」で「坊さんにも悪いものがいるのはやむない」という趣旨をしてますが、あまりに慈悲・仁徳の人・僧侶がないと、仏法そのものの存在を疑問視されると思います。

経済的には少々苦しいでしょうし、人材も「二世三世の、保守{というよりも右翼}の事なかれ主義」が多いの僧侶の世界なので難しいでしょうが、慈悲の光明が真言宗からも見えるように、尽力してください。

一応、真言宗の檀家の忠武飛龍より
返信する
生者に酷く死者に厚い、日本の僧侶 (忠武飛龍)
2010-08-06 12:48:01
余談ですが、
日本って、生きている人には冷淡で、死者には厚いですよね。
死ねば、これ以上欲しがらないですから・・・。

二世三世とか世襲の坊さんは、民主党政権というよりも小沢・鳩山路線には辛らつというか無理解ですよね。

世襲坊主は、結局は自民党世襲議員と同じですよね。
結局は檀家や働き口さえあれば、他の無名な無辜の庶民が飢え死にしても平然そうしてます。
また先日偶然坊さんたちと少し話しましたが、どうも世襲の坊主の方が、無条件に在家から発心した坊さんよりも地位なり権威が高いみたいです。
その「セレブ」さまな坊主から見たら、ここの和尚さんのような人は「異端児」で、ワーキングプアに困る若者は「怠け者」なだけで自殺者は「脆弱な鍛えてない意志薄弱者」でしょう。
そのような無慈悲・不仁な坊さんがその組織宗教の指導層を占めたら、大多数であれば、それは庶民・市民から遊離しますし、地方の檀家さんだけを守って自分は安楽しても、何も批判されません。

ふとそういうことを思うと慄然とします。

多くの庶民が飢え死にしても「小沢は悪い」「愛国心」「尊王」「自由競争」とか抜かして、多くの善良な庶民を、心中馬鹿にして、奇麗事いって売国奴を応援していると思うと、怒りがあふれ出ます。

後周の世宗・柴栄
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3753/binannbijo/retudenn/godai_saiei.htm
のような英傑が出てきて、そのような無慈悲な坊主どもを粛清・排斥しないと、もう日本の仏教はだめになりかねない瀬戸際なのかも知れません。

>「仏は人を救うためには、自らの身を捨ててでもするという。 朕にもし自らの身を供することで人民を救えるなら、これをなげうっても後悔はしない」

俗人の廃仏の皇帝でもこう言います。今の坊主にそれに近いことをいう人が日本に居ますか?悲しいです。


返信する
忠武飛龍様 (全雄)
2010-08-06 19:23:26
重ねてコメントを頂戴しまして、恐縮いたします。たしかに、僧侶もその地位に安泰となり、また日頃の檀務にいそしむあまり、世情に疎くなり、また、忙しさから、世間のことごとについて無関心となっている人も多いことと思います。やはりここでダライラマ法王が仰っているように、常に社会と共にあり、その苦しみを感じ取っていくべき立場であることを認識すべきなのでありましょう。

江戸時代のようにあまりにも、官僚化してしまっている人たちもいるのかもしれません。大いに慎むべきであると思いますし、おそらく次第に時代に淘汰されていくのではないかとも思えます。

関心を持つ、決して騙されない、この世の中の真実に常に気づきつつある、そうして、縁ある人々にその本当のことを伝えていく、そうして多くの人たちの目が開かれることによってこそ社会全体が、この国が少しずつ良くなっていくのではないかと考えます。

多くの人たちがこの世の中の真相を理解されることを願います。
返信する
御礼と。 (忠武飛龍)
2010-08-07 09:52:40
全雄さま

お返事ありがとうございます。

以前、2009年ある兵庫県のある真言宗の本山の奥の院の法話で、そこの管長さんが、西松疑惑のことで小沢民主党党首{当時}を攻撃するようなことを言って、大変失望しました。
しばらく、その奥の院の法要に行かなくなりましたが、一年後再び奥の院の法要に参加しましたが、変わらず鳩山政権の攻撃をしていて、嫌になりました。
そのお寺の奥の院には参りますが、しばらくはその管長さんの法話は聞きたくないです。

また一時期真言宗の坊さんのブログを探してみたこともありますが、政治的には「アンチ民主党・反中国反韓国{と言っても人種差別的な傾向が強い}が多いので、怒りがとまらなくなったこともあります。

昨年小沢前幹事長が、高野山に参拝して高野山真言宗の管長さんと会見しましたが、それもあってか高野山に参っても、小沢氏や民主党への誹謗中傷・冤罪のことは聴くことがないのは、ほっとしてますが、どうもいつも参拝する南院さんの住職さんくらいの高位の高徳な高僧くらいしか、通常は
「この世の嘘{マスコミ・悪徳ペンタゴンの所業}の裏側の事実」
が共通の認識になってないように思います。

E・フロムという仏教にも理解がある思想家が
「政治的立場の支持・表明は、その人の人柄・在り様を表している」
といいます。
社会に疎いだけなら「小沢攻撃」も結構でしょう。
でもそれで「ワーキグプア」や、大量に増えて民主党政権になってマシになった「自殺者」のことや、失業者や心の病に苦しむ人への理解やその援助の社会活動への評価を勘案すると、どうも「真言密教を伝える」にふさわしくない僧侶が、ウヨウヨいるのでないとか思うと、ゾットします。
大師は大日経の言葉を引いて「衆生の心がよくわかる」ことが、真言密教の伝承者の条件と言っていた様に思います。その辺は勘違いかもしれませんが・・。
大昔の平安のころは、真言宗の僧侶が、皇位争いのために政敵を呪殺するという外道なことをしてますが、今の僧侶も残念ながら消極的に「何もなさないこと」で、非道を行っているように思われます。
はたして、彼らのどれだけが、大師の大日経のいう条件に合致しているのでしょうか・・!

ただここでくじけても駄目ですし、全雄さまのような慈悲・聡明な人の光明が、心が暗い多くの僧侶の「漆黒の悪魔の心」を照らして、善道に目覚めさせることを祈ります。
また愚生も、おろかで微力ながら、多くの人の心に光明あふれること祈り、微力ながらブログや口頭や行為で、それをなせるように、少しでも力を尽くしたいです。

つたない乱文にお付き合い頂いてありがとうございます。

南無大師遍照金剛
返信する
余談のいい話。 (忠武飛龍)
2010-08-07 19:06:35

余談です。

時々参拝する播州清水寺 
http://kiyomizudera.net/

さんは、「引きこもり」のお子さんを持つ親御さん・当事者向けの相談・カウンセリングを実施されてます。関東・北海道では豊山派のお寺でも同様なことをしてます。

引きこもりになりかけた私は、少しほっとして、そういう輪がもっと大きくなれば良いなと思います。

失礼しました。
返信する

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