『アジア的融和共生思想の可能性』第一章「梵天勧請思想と神仏習合」に学ぶ
昨年12月20日刊行の中央大学政策文化総合研究所研究叢書の一冊である。編著者の中央大学国際情報学部教授の保坂俊司先生は、これまでにも世界レベルの論文をいくつも世に問うてこられた。インドのヒンドゥー教とイスラム教が融合したシク教と大乗仏教との相似に関する研究、大乗仏教興起発展に関する西域から来たる異民族多民族統治のイデオロギーとしての思想展開論、インド世界から仏教がなぜ亡んだかということについてイスラム資料を渉猟されて仏教徒が非暴力を貫くが故に改宗していったとの推論、またイスラム教の宗派の中にあってインドに伝わるスーフィーという神秘主義者たちの思想による穏健なイスラム教徒の存在に注目すべきであるとする論文など、枚挙に遑ない。
そしてこの度は、本書第一章「梵天勧請思想と神仏習合」において、これまで保坂先生ご自身が、インドにおいて仏教が衰滅したのはなぜかと探求されてイスラム教側の資料である『チャチュ・ナーマ』に着目されて到達された推論には実は完全にはご納得が得られていなかった部分があり、その後も思索され続けたことにより、仏教の根幹ともいえる他宗教にない最も独特なる思想を見つけられ、それこそが仏教を広く世界宗教に押し上げたのであり、かつ、逆に衰滅にいたらせることになったのだと結論される。
その仏教の根本たる独特なる教えとは、そもそもの仏教の発端ともいえる「梵天勧請」にあるのではないかと言うのである。梵天勧請とは、ご存知の通り、お釈迦様成道後に、この悟りは深淵にして欲望燃えさかる世間の者たちには理解し得ないであろうから説くまいとされたお釈迦様の前に、インド世界の最高神である梵天が舞い降りて、このままでは世間は滅びてしまう、この世の中には欲薄く心清き者もあり、その者たちに教え諭すならばきっと最高の悟りを得られる者もあろうから法を説いてくれるようにと説得を受ける。そして、ならばもう一度この世の中を見てみようと天眼通によって世間の者たちを眺めてみるに、確かに心清き者たちの存在があることを知り、お釈迦様は法を説くことを決心したというエピソードである。
私自身は、この教えは、お釈迦様に対してインドの当時の宗教世界の最高神自らが教えを乞う、つまりは神々の立場よりもお釈迦様の悟りは上位にあり、その存在はより崇高なものであることを示す教えとして受け取ってきた。しかし、先生は、その教えはそれだけにとどまらず、他者からの働きかけが不可欠であるという仏教の性格、特に他宗教との融和融合共生を示すものであり、これこそが他の宗教にない、最も仏教的なる、独特なるものなのだとその意味を説いていかれる。
かつて『インド仏教はなぜ亡んだのか』(2003年北樹出版刊)において推論された、当時の仏教徒らが不殺生非暴力の教えを大切にするが故にイスラム教徒に改宗していって、それがためにインドにおいて仏教が亡んだのであれば、同様にジャイナ教という非暴力を説く教えも亡んでいなければならないが、未だに少数ながらジャイナ教は今日迄存在し続けている。その矛盾を解く鍵として、この梵天勧請があるのではないかと着目されたのであった。
先生は、この話はお釈迦様自らが早い段階から弟子たちに説いたのではないかと推量されている。パーリ経典中の「サンユッタ・ニカーヤ」、漢訳経典の「増一阿含」に収録されている『梵天の勧請』に経典としてまとめられていくのは、もちろんお釈迦様没後のことではあるが、お釈迦様自らこうしたエピソードを語り伝えてきていたのであり、それは他宗との共存協和共生のために必要不可欠なものであった。そして、これこそが仏教の伝統ともいえる、他を受け入れ自らを変容してでも融和して一体となって繁栄する相利共栄の思想になったといわれるのである。
当時バラモン教が主流だったインド世界にあって、仏教勢力が世間の中で一定の位置を得て、托鉢し、また昼食に招待されつつ社会の中に留まるためには、こうした教えに基づく融和共生の立場はとても大切なものであったのだと思われる。初期経典を読んでみれば当時のバラモンらがこぞってお釈迦様に疑問をぶつけ、討論しては論破され、教え諭されて信者になったり弟子となり出家をしている。
大乗仏教も、先生の他の著書(『国家と宗教』2006年光文社新書)にて学ばせていただいたことではあるが、西域からやってきた異民族による王朝の多民族を統治するイデオロギーとして、誰をも分け隔てなく受け入れる原理として自らを絶対視しない互いに他を尊重する教えとして空を説いた。そして、西域の文化を取り入れ誰もが菩薩であるとの平等思想を説き、民衆のために聖典の読誦や仏像ストゥーパを信仰し礼拝することを行とする現実的な教えを説いていくことで繁栄した。
そして、イスラム教徒のインド侵攻に際しても、もちろん当時のヒンドゥー教徒からの圧力に対抗する意味合いもあってのことではあるが、イスラム教徒との融和共生を模索するが故に、改宗と見られる様な立場となりながらも不殺生非暴力の教えを守ることになる。しかし、そこには仏教徒としての矜持として、仏教の教えをその中で活かし誇示する行動も記録されているという。八、九世紀の中央アジアでの事例として、改宗したかつての仏教徒一族がブッダ伝をアラビア語に訳したり、メッカのカーバ神殿の儀礼に仏教的な儀礼を導入したらしいといわれていると記される。
そしてこの梵天勧請という思想構造は、私たち日本人にとっての「神仏習合」に他ならないのだと解りやすく説いていかれる。梵天勧請とは、仏教側に他宗教が教えを乞い、それによって相手を救済していくという構造にある。百済からもたらされた仏教が蘇我氏によって進んで取り入れられはしていたが、用明天皇によって帰依を受けることによって初めて公認された宗教となったのであり、神道の最高なる主宰者としての天皇が帰依することによって法が説かれ、神社に仏が祀られ、寺院に神が祀られてともに発展繁栄していく。この神仏習合の形態は正に梵天勧請と同じ構造と言えるのだという。これは比較宗教学を専門とされつつも日本仏教文化に精通された保坂先生の慧眼による一学説となるものであると言えよう。
そして、日本において江戸時代まで国教の立場にあった仏教が今日の様な位置に貶められた切っ掛けとなった明治の神道国教化に基づく仏教排斥も、正にインド仏教が亡んだように、自分の中に他の宗教と融和し共生するが故にその内包した他者によって内部から破壊されると大変もろく衰亡に繋がる一事例に他ならないと説明されている。
最後に、先生は、こうした仏教の特質は、今日の宗教間の確執によって抗争する国際情勢にあって、「異なる他者を受け入れ、自己犠牲を厭わず、平和裏に共生関係を持とうとする仏教の教えは再評価する意義があるのではないか」といわれる。これは正に仏教の他にない最も大切なアピールポイントであって、だからこそ今世界的に仏教の瞑想が普及し得たとも言えようか。先生も近年欧米でもてはやされる「マインドフルネス」と喧伝される仏教瞑想が普及することで仏教の平和思想への共感が急速に高まっているといわれていると指摘される。単にビジネスに活用するスキルとしての瞑想ではなく、根本の仏教思想にまで彼らの関心が及び、これからの世界を平和に導く原動力となることを先生共々に願いたい。今回こうした最先端の仏教論文を読ませていただき、仏教の仏教たるゆえんを新たに知ることができましたことに感謝申し上げます。
最後にはなるが、皆様には、是非この中央大学の研究叢書『アジア的融和共生思想の可能性』を直接手に取り、先生方の論文からさらに多くのことを学んで欲しいと思う。
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昨年12月20日刊行の中央大学政策文化総合研究所研究叢書の一冊である。編著者の中央大学国際情報学部教授の保坂俊司先生は、これまでにも世界レベルの論文をいくつも世に問うてこられた。インドのヒンドゥー教とイスラム教が融合したシク教と大乗仏教との相似に関する研究、大乗仏教興起発展に関する西域から来たる異民族多民族統治のイデオロギーとしての思想展開論、インド世界から仏教がなぜ亡んだかということについてイスラム資料を渉猟されて仏教徒が非暴力を貫くが故に改宗していったとの推論、またイスラム教の宗派の中にあってインドに伝わるスーフィーという神秘主義者たちの思想による穏健なイスラム教徒の存在に注目すべきであるとする論文など、枚挙に遑ない。
そしてこの度は、本書第一章「梵天勧請思想と神仏習合」において、これまで保坂先生ご自身が、インドにおいて仏教が衰滅したのはなぜかと探求されてイスラム教側の資料である『チャチュ・ナーマ』に着目されて到達された推論には実は完全にはご納得が得られていなかった部分があり、その後も思索され続けたことにより、仏教の根幹ともいえる他宗教にない最も独特なる思想を見つけられ、それこそが仏教を広く世界宗教に押し上げたのであり、かつ、逆に衰滅にいたらせることになったのだと結論される。
その仏教の根本たる独特なる教えとは、そもそもの仏教の発端ともいえる「梵天勧請」にあるのではないかと言うのである。梵天勧請とは、ご存知の通り、お釈迦様成道後に、この悟りは深淵にして欲望燃えさかる世間の者たちには理解し得ないであろうから説くまいとされたお釈迦様の前に、インド世界の最高神である梵天が舞い降りて、このままでは世間は滅びてしまう、この世の中には欲薄く心清き者もあり、その者たちに教え諭すならばきっと最高の悟りを得られる者もあろうから法を説いてくれるようにと説得を受ける。そして、ならばもう一度この世の中を見てみようと天眼通によって世間の者たちを眺めてみるに、確かに心清き者たちの存在があることを知り、お釈迦様は法を説くことを決心したというエピソードである。
私自身は、この教えは、お釈迦様に対してインドの当時の宗教世界の最高神自らが教えを乞う、つまりは神々の立場よりもお釈迦様の悟りは上位にあり、その存在はより崇高なものであることを示す教えとして受け取ってきた。しかし、先生は、その教えはそれだけにとどまらず、他者からの働きかけが不可欠であるという仏教の性格、特に他宗教との融和融合共生を示すものであり、これこそが他の宗教にない、最も仏教的なる、独特なるものなのだとその意味を説いていかれる。
かつて『インド仏教はなぜ亡んだのか』(2003年北樹出版刊)において推論された、当時の仏教徒らが不殺生非暴力の教えを大切にするが故にイスラム教徒に改宗していって、それがためにインドにおいて仏教が亡んだのであれば、同様にジャイナ教という非暴力を説く教えも亡んでいなければならないが、未だに少数ながらジャイナ教は今日迄存在し続けている。その矛盾を解く鍵として、この梵天勧請があるのではないかと着目されたのであった。
先生は、この話はお釈迦様自らが早い段階から弟子たちに説いたのではないかと推量されている。パーリ経典中の「サンユッタ・ニカーヤ」、漢訳経典の「増一阿含」に収録されている『梵天の勧請』に経典としてまとめられていくのは、もちろんお釈迦様没後のことではあるが、お釈迦様自らこうしたエピソードを語り伝えてきていたのであり、それは他宗との共存協和共生のために必要不可欠なものであった。そして、これこそが仏教の伝統ともいえる、他を受け入れ自らを変容してでも融和して一体となって繁栄する相利共栄の思想になったといわれるのである。
当時バラモン教が主流だったインド世界にあって、仏教勢力が世間の中で一定の位置を得て、托鉢し、また昼食に招待されつつ社会の中に留まるためには、こうした教えに基づく融和共生の立場はとても大切なものであったのだと思われる。初期経典を読んでみれば当時のバラモンらがこぞってお釈迦様に疑問をぶつけ、討論しては論破され、教え諭されて信者になったり弟子となり出家をしている。
大乗仏教も、先生の他の著書(『国家と宗教』2006年光文社新書)にて学ばせていただいたことではあるが、西域からやってきた異民族による王朝の多民族を統治するイデオロギーとして、誰をも分け隔てなく受け入れる原理として自らを絶対視しない互いに他を尊重する教えとして空を説いた。そして、西域の文化を取り入れ誰もが菩薩であるとの平等思想を説き、民衆のために聖典の読誦や仏像ストゥーパを信仰し礼拝することを行とする現実的な教えを説いていくことで繁栄した。
そして、イスラム教徒のインド侵攻に際しても、もちろん当時のヒンドゥー教徒からの圧力に対抗する意味合いもあってのことではあるが、イスラム教徒との融和共生を模索するが故に、改宗と見られる様な立場となりながらも不殺生非暴力の教えを守ることになる。しかし、そこには仏教徒としての矜持として、仏教の教えをその中で活かし誇示する行動も記録されているという。八、九世紀の中央アジアでの事例として、改宗したかつての仏教徒一族がブッダ伝をアラビア語に訳したり、メッカのカーバ神殿の儀礼に仏教的な儀礼を導入したらしいといわれていると記される。
そしてこの梵天勧請という思想構造は、私たち日本人にとっての「神仏習合」に他ならないのだと解りやすく説いていかれる。梵天勧請とは、仏教側に他宗教が教えを乞い、それによって相手を救済していくという構造にある。百済からもたらされた仏教が蘇我氏によって進んで取り入れられはしていたが、用明天皇によって帰依を受けることによって初めて公認された宗教となったのであり、神道の最高なる主宰者としての天皇が帰依することによって法が説かれ、神社に仏が祀られ、寺院に神が祀られてともに発展繁栄していく。この神仏習合の形態は正に梵天勧請と同じ構造と言えるのだという。これは比較宗教学を専門とされつつも日本仏教文化に精通された保坂先生の慧眼による一学説となるものであると言えよう。
そして、日本において江戸時代まで国教の立場にあった仏教が今日の様な位置に貶められた切っ掛けとなった明治の神道国教化に基づく仏教排斥も、正にインド仏教が亡んだように、自分の中に他の宗教と融和し共生するが故にその内包した他者によって内部から破壊されると大変もろく衰亡に繋がる一事例に他ならないと説明されている。
最後に、先生は、こうした仏教の特質は、今日の宗教間の確執によって抗争する国際情勢にあって、「異なる他者を受け入れ、自己犠牲を厭わず、平和裏に共生関係を持とうとする仏教の教えは再評価する意義があるのではないか」といわれる。これは正に仏教の他にない最も大切なアピールポイントであって、だからこそ今世界的に仏教の瞑想が普及し得たとも言えようか。先生も近年欧米でもてはやされる「マインドフルネス」と喧伝される仏教瞑想が普及することで仏教の平和思想への共感が急速に高まっているといわれていると指摘される。単にビジネスに活用するスキルとしての瞑想ではなく、根本の仏教思想にまで彼らの関心が及び、これからの世界を平和に導く原動力となることを先生共々に願いたい。今回こうした最先端の仏教論文を読ませていただき、仏教の仏教たるゆえんを新たに知ることができましたことに感謝申し上げます。
最後にはなるが、皆様には、是非この中央大学の研究叢書『アジア的融和共生思想の可能性』を直接手に取り、先生方の論文からさらに多くのことを学んで欲しいと思う。
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