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松長有慶先生著 『訳注 弁顕密二教論』を読んで

2022年02月20日 17時20分38秒 | 仏教書探訪
【六大新報令和四年二月五日号掲載】
松長有慶先生著
『訳注 弁顕密二教論(べんけんみつにきようろん)』を読んで




松長有慶先生の新刊、訳注シリーズの最終巻となる『弁顕密二教論(以下『二教論』と略す)』(春秋社刊)を拝読させていただいた。表紙の帯に、『なぜ密教はすぐれているのか。法身説法(ほつしんせつぽう)を高らかに宣言した代表作!』とある。あとがきには、唐より自ら請来(しようらい)したすばらしい教えを一刻も早く日本宗教界に着実に伝えたいという大師の使命感に燃えた切実な思い、異常な熱気が漂う著作であるという。

『密教辞典』(法蔵館)には「真言宗の判教のうち横の判教を説く(竪の判教は十住心論)。専ら顕教(けんぎよう)と密教との区別を明瞭にした立宗宣言の書である。六経三論を典拠に挙げて縦横に論陣を張る。」とある。確かに一読してみると、多くが引用文献の叙述で埋められており、これまで読ませていただいた三部書に比べるとかなり難解に思われた。

しかし、これまでのシリーズ同様に冒頭「『二教論』の全体像」が説かれ、『二教論』とは何かを簡潔に知ることが出来る。『二教論』の主眼は、一つに法身説法の可否、二つ目に果分(かぶん)の説不、つまり覚りの境地を説きうるか否か。そして三つ目にきわめて簡略ながら即身成仏についてとある。本編も、これまで通り【要旨】に解説を添えられ、わかりやすい【現代表現】により難なく読んでいける。そして、【読み下し文】と丁寧な【用語釈】が続く。

本編は上下巻に分かれ、上巻は弘仁のごく初期に、下巻はやや遅れて撰述されたであろうという。

早速本編上巻を読み始めると、序論にて仏身を法身、応身(おうじん)、化身(けしん)の三身に分け、顕教と密教の違いについて説かれる。つまり、応身と化身の教えが顕教であり、法身仏の中でも自らの身から流出した眷属(けんぞく)に対し自らお覚りになった境地を説く自受用法身(じじゆゆうほつしん)の教えが密教であるとする。

本論では、まず問答があり、経典を読む人の見識素養によって内容の理解が違い、経の内容も聞き手によって異なるとして、顕教は相手に応じて説く仮の教えに過ぎないのに対し、密教は真実に言及した究極の教えである、と論を進めていく。

そして、先生が大師の教学に重要な地位を占めるとされる、大乗起信論(だいじようきしんろん)の注釈書『釈摩訶衍論(しやくまかえんろん)』による五重の問答が示される。これは本覚を具えた者がそれぞれ到達する覚りを五段階に説き、その五段階目を密教に配当し、それらの深浅を語るものではあるが、大師はこの五重の問答には甚だ深い意味があり、よくよく吟味し尽くし最終的な真理に到達すべきであると諭されている。何度も精読すべき箇所と言えよう。

次に、四家大乗と言われる華厳・天台・三論・法相(ほつそう)の各宗の教えにおいて、覚りの世界を表現することはできないとする経典論書の箇所を取り上げて、各宗ごとの果分不可説(かぶんふかせつ)を説明していかれる。それにより大師が各宗の覚りの本質をどう捉えていたか知ることができる。

たとえば華厳宗については、法蔵の『華厳五教章』を引用し、華厳の法界縁起の世界は因と縁が互いに関わり合い、あらゆる事象が永遠に自在に休みなく活動しているとするが、その世界は真理の世界(果分)と現実世界に分かれ、真理の世界について究竟果分(くきようかぶん)の国土海とか十仏の自体融義(じたいゆうぎ)などというが通常の言語文字では表現できない、つまり果分不可説であるとする。

天台宗についても、天台智顗(ちぎ)の『摩訶止観』を引用し、天台の教えの肝要は空・仮・中の三種の真理であり、一念の中にその三諦を悉く観じ取ることを極めつきの妙境とみなしているが、仏と仏との間だけが分かり合える境地で、どのような言葉でもってしても表現を超えているとしており、果分不可説であり、真言の立場からは入門の初期段階に過ぎないという。

それに対し、密教の果分可説について、先生は有力な典拠として下巻にある『分別聖位経(ふんべつしよういきよう)』をあげておられる。その部分を要約すると、「法身大日如来の自受用法身仏は、その心髄から無量の菩薩衆を流出し、これらの諸仏諸菩薩は他者に説くのではなく、自受法楽のためだけに、自ら覚った境地を説く」とあることから、自受用法身として覚りの境地を説く果分可説であるとせられる。

そして、上巻の最後に、即身成仏について述べられる。『菩提心論』の中に、顕教と密教の深浅、成仏の遅速、勝劣がすべて説かれているとして、真言の教えの中だけに秘密真言独自の瑜伽の体験内容が明らかにされていると述べる。

下巻は、まず、密教の勝れていることを『六波羅蜜経』と『楞伽経(りようがきよう)』を引用し論述していく。『六波羅蜜経』からは、三蔵に般若蔵、陀羅尼蔵を加えた五蔵について説く第一巻を引用され、五蔵を乳・酪・生蘇・熟蘇・醍醐の五種の味に譬え、陀羅尼門(密教)こそが微妙第一とされる醍醐の味に該当し、諸病を除き人々を心身安楽ならしむものとして経典類の中で最高であるとする。

そして、『分別聖位経』、『瑜祗経(ゆぎきよう)』、『五秘密経』、『大日経』、『大智度論』などを典拠とされ法身説法とは何かを論じていく。その中には様々な示唆に富む文言が綴られ多くの傍線を引くことになった。

それらの引用文中に、不読段が三ヶ所ある。それは中世の事相家によって自己の流派の伝承を尊重し秘伝を重んじる影響と説明されるが、先生は本来日本に初めて請来した密教を朝野に広く認識されるために撰述された本書の中に、読まれては困る箇所がいくつもあるのは矛盾するとされて、すべてを他と同様に解説されている。

筆者には、その不読段部分に、日々の実践において参考になる内容が多く含まれるように思われた。そうした内容を、わかりやすい【現代表現】によって読めるのも誠に得がたいことである。例えば『五秘密儀軌(ごひみつぎき)』に「阿闍梨は普賢の覚りの境地に住して弟子の心中に金剛薩埵を引き入れると、弟子は阿闍梨の不思議な力によって密教の核心を身につけ、弟子の自我に執着する生まれつき持つ種子(しゆじ)を根本的に変えてしまう(要約)」と記されている。灌頂の儀礼にあたってとはあるが、日頃から心掛けていたい内容に思えた。

また、『瑜祗経』の説く法身説法において、その引用文中に「(法身とは)五智の光明は常に過現未の三世に及び、暫くの間も休むことなく衆生教化に努める平等の智身である。・・・智とは心の働きで、身とは心の本体。平等とはそれらが宇宙全体に遍満することである」、また『大智度論』には「仏に二種の身がある。一つは法性の身、二つには現実の父母より生まれた身である。初めの法性、すなわち真理そのものを身とする仏は、常に光明を放ち常に説法されている。衆生の心が清らかな時には仏が見え、心が清らかでない時には仏が見えない(抄録)」という記述がある。お釈迦様は覚りえた真理である縁起の法は自らの出世にかかわらず永遠に存するといわれたが、つまりは三世に及ぶ真理そのものである法身の説法からすべての教えは転じられているということであろうか。そして、今この瞬間にも時空に遍満する法身の、その光と声を感じとるためにも心清らかにありたいものである。

大師の教学が私たちの日常の信仰や教化、また自らの人生に意味あるものとしてどう捉えられているか。寺院を支え、檀信徒を導く上で、それはどういう働きとなっているか。そこに意味を見出せぬなら何の価値もないものとなる。どう大師教学をいかに今の時代に活かせるかが私たちの仕事であろう。

この『二教論』が、現実に私たちの力となるには何をどのように読み取るべきか。急激に変化する時代への対応、社会的問題への取り組み、地方の再生・活性化、災害や環境問題などについて考えるにあたり、どの宗派寺院も宗派色より協調、融和、共同を重視する傾向にあると言えようか。そうした時代だからこそ、密教としての真言宗はその独特なる発想が求められているのではないか。思想の原点にある違いを改めて学び直すことはそういう観点からも意味あることに思われた。

今年九十四歳になられる松長先生が、高野山大学の密教文化研究所において大学の先生方と祖典研究会を開いて、七年間も講読を続けてこられたという。その五冊目の成果が本書である。是非御一読をお勧めしたい。


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