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松長有慶先生著 『訳注 吽字義釈』(春秋社刊)を読んで

2021年09月11日 08時10分38秒 | 仏教書探訪
(六大新報令和3年7月15日号掲載)
松長有慶先生著 『訳注 吽字義釈』(春秋社刊)を読んで

松長有慶先生の新刊、訳注シリーズ第五巻『訳注 吽字義釈(以下『吽字義』と略す)』(春秋社刊)を拝読させていただいた。

実は昨年からこの時期に本書が発刊されることを承っていたので予習にといくつかの解説書を手にしたのではあったが、どれも難解で理解するに至らなかったのである。しかし本書を拝受し、その概説に続き本論特に【現代表現】を中心に読み進めてみると、私のような初学者にもとても分かりやすく、一日で最後まで読み通すことができた。

表紙の帯には、「文字と真理の密接な関係性を解き明かす、空海思想の代表作!」とある。早速頁をめくると、まず「『吽字義』の全体像」が説かれ、『吽字義』とは何かを簡潔明瞭に知ることが出来る。

『吽字義』は、言うまでもなく『即身成仏義』(以下『即身義』)『声字実相義』(以下『声字義』)とともに三部書の一つとされてはいるけれども、大師の多くの著作の中で、題名の最後に「論」ではなく「義」とするのは三部書に限られ、そこには何らかの意図があるはずであるという。

ところが近年の解説書には、『吽字義』に序文がないなどの理由から、『声字義』を補足するものであるとか、また三部書全体を即身成仏の書ととらえ、五大と識大の六大について述べる『即身義』のうちの、五大については『声字義』において、識大については『吽字義』において、それぞれの意義を明らかにしているとする説もあるという。

しかし先生は、三部書はそれぞれが別個の著作目的があるとされ、日常の言葉や文字がそのまま真実なる実在、宇宙の根源的な存在と直接的に繋がっているとする密教独自の言語観について論じるにあたり、特に「声」の問題について取り上げたのが『声字義』であり、視覚的な特色を持つ「文字」を主題に撰述されたのが『吽字義』なのであると解説される。

その文字とはなにか。そもそも大師は密教経典に綴られた文字や言葉では了解し得ぬものを感じ、唐に渡られ恵果阿闍梨に出遭い灌頂壇に上られて両部曼荼羅を拝した。そして、密藏の要点は曼荼羅の中に象徴的に表現されると考えられた。しかしその後、密教の核心を身体的に会得した結果、文字や言葉の中に込められた真実に気づかれ、文字それも悉曇文字の中に大自然の道理が凝縮されて存在していることに目覚められたのであると推察されている。

では、なぜ多くの悉曇文字の中から吽字が取り上げられたのか。サンスクリット文字は阿字に始まり吽字に終わる、その最後の文字だからではあるが、常用経典である『般若理趣経』の総主である金剛薩埵の種子が吽字だからであるとされる。人間の欲望の積極的展開と利他行を主題に金剛薩埵の瑜伽の境地を説く『般若理趣経』の、その利他行と瑜伽を一体化して説く独自の考えを説くものとして、この『吽字義』は大師の著作の中でも特別の意味あるものであるという。

そのことは、本論の最後に、金胎両部の大経は三句の法門に集約されるとしてその一体化を説き、大小乗それに顕密の一切の教説も三句を超えることはないと説くことで、それらが最終的に利他行に帰すことを解き明かしていることからも、『吽字義』の実践的主体性を問題とする姿勢を読み取ることができるとするのである。

撰述の年代については、これまで確定的な見解がないとのことではあるが、『吽字義』本文中に十住心に関連する箇所があり、その内容から未だ十住心思想の形成段階にあり、また本文の最終箇所において金胎両部不二の立場を明確にされた記述のあることから、弘仁末頃の撰述と推定されている。

そして本編に入ると、現代語訳にあたる【現代表現】は現代人の私たちが容易に理解できるよう簡潔な解説を補足した文章となっている。所々【読み下し文】や【原漢文】、【用語釈】などを参照しながら読み進めていける。【用語釈】においては参考文献の略記号に該当する頁数が記され、解釈の異なる重要箇所では多いところで十三もの文献を比較検討されているところもある。

『吽字義』は序文がなく、本文が「一つの吽字を相義二つに分かつ。」という一文から始まる。表面的な意味である字相と文字が含み持つ本来の意味である字義に分け、吽(hūṃ)字は賀(訶ha)字、阿(a)字、汙(ū)字、麽(ma)字の四字の意味を含め持っているとして、字相としてこれら四字のそれぞれの表面的な意味を説き、それから『大日経』『大日経疏』等を典拠に、字義として四字の本来の意味が説かれていく。

次に、それら四字一体の字相字義など吽字の総合釈が説かれる。

吽字を四種の仏身(阿字は法身・訶字は報身・汙字は応身・麽字は化身)にあてはめると現実存在のあらゆるものが含まれ、そればかりか吽字を四字に分けると各々の字が、それぞれすべての、真如、教え、行、その成果を包摂しており、吽字には理・教・行・果が悉く含まれると説く。

そして、両部の大経である『大日経』『金剛頂経』の教えは、ともに「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」という三句に集約されると説かれるが、これは金胎両部の一体化を意図するものであるという。さらに諸経論に説かれる真理のすべてもこの三句の法門に収まるとされ、この三句をまとめると吽字一字になり、さらに、その他すべての悉曇文字に含まれた教えも同様であると結論している。最後に吽字解釈の総括として六種の利他行について述べられる。

先に記したように、先生は『吽字義』を利他行と瑜伽を一体化して説くものであるとされるが、私どもにとっての瑜伽とは日々の修法に他ならない。修法において特に該当するのは道場観、字輪観であろうか。 

先生は、ご著書『祈りかたちとこころ』(平成26年春秋社刊)の「付録・阿字観の基礎知識7文字に含まれるそれぞれの深い意味」の中で、「インド人は仮名や漢字やアルファベットを使う人々とは違って、文字を見ただけで、その文字に含まれている深い意味を直感的に把握することができます。言語に対する感性の違いといっていいでしょう。このような言語に対する特別な感性を持ち合わせない、サンスクリット語圏外の人は、字輪観の中で、一々の文字に言葉による説明を付け加えながら観想する必要が生まれます。」(一六八頁)と記しておられる。

インド人のような文字に対する特別の感性を持ち合わせていない私どもに対し、大師は懇切にその深秘を『吽字義』において教示して下さったということであろう。そして、宇宙の根源的な真理と直接的に繋がるものとして言葉や文字をとらえ、感応道交するために、いかに工夫を凝らし観想していくかということが問われているように思われる。

『吽字義』は、悉曇文字が私たちの想像を遙かに超える奥深い意味あるものであることを教えつつ、それを心中に観ずるとき、そこにはすでに真実実相の世界が開けてあることを直感せよと迫っているようにも思えた。

大師の深淵なる思想を、現代に生きる私たちにもわかるように学ぶ機会を与えて下さいましたことに感謝申し上げます。皆様には御一読下さることをお勧めいたします。

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