住職のひとりごと

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幅広く仏教について考える

再掲載・靖国問題の本質

2013年06月17日 07時40分31秒 | 時事問題
靖国問題の本質
2006年08月16日 07時16分08秒 | 時事問題

昨日終戦記念日に小泉首相が公式に靖国神社に本殿参拝しその是非が問われている。中韓両国はじめアジアの諸国からも非難の声が挙がっている。政教分離という観点からの質問にはまともに答えず、心の問題と言って信教の自由を主張しての参拝であった。

はたしてこれが飛ぶ鳥を落とす勢いの中国との関係を悪化させ、韓国とも正常な外交関係を築けずにいる。昨日も近所の方が見えて、「何で靖国に行っていけないのか」と質問を受けた。ストレートにこう言われると別に良いのではないかと言いたくなってしまう。

しかし、やはりあそこまで中国、韓国が反対するのだから、やっぱり一国の首相としてそれはいけないのではないかなどと言いたくもなる。ではなぜそんなに中国、韓国が靖国神社にこだわるのか。外交カードとして利用しているとの声もあり、それはそれでそうした一面は当然のことあって然るべきであろう。

しかしそれでもなぜ靖国かと言われれば、やはりそれは諸外国人と日本人の宗教観、神に対する意識の違いということになるのではないか。私たちは名もない社に手を合わせ、信仰心もないのに毎年正月には元朝参りに行く。その神社に祀られた神様がどのような神様で、そこで手を合わせ祈るという行為がどのようなことなのかを一切考えずに作法として手を合わす国民である。

単に世の中が良くなりますように、願いが叶いますように、幸せでありますようにと思い手を合わせる。手を合わせた神様のこと、神様の願い、神社の沿革などおかまいなしに、一方的なこちらの思いを果たすために手を合わせているのではないか。そしてそうした行為はよいことだと思い、すかすがしく感じる。一般的にこのような感覚で私たちは神様を礼しているのではないかと思う。

私はこうした日本人の宗教感覚を批判するつもりもない。しかしそれはおそらく諸外国の人々にとっての宗教観、神様という尊格に対する姿勢とは違う、異質なのではないか。神とは、単なる畏敬の存在ではなく、人間を超越し、支配するもの、指図するもの、こうしなさいこうあるべきだと人間のあり方を規定するもの、その意志に反することは冒涜であると感じるほどに崇高な存在であろう。

つまり私たちの都合の良いように考えられる存在などではない、それが神様なのではないか。A級戦犯の各氏が獄中でどれだけ自らの行為に反省し悔いたとしても、特別にA級戦犯であるが故に合祀されたという事実は変わらない。その行為をもって合祀されたということは行ったことを評価し合祀されたということになろう。つまりはアジアへの侵略行為を神に祀るに値するものと考えていると解釈されても仕方あるまい。だから、神として祀られたA級戦犯の遺志、それを体現するために靖国神社に参拝するのだと受け取られても仕方がない。いくら追悼のため慰霊のためと言っても、通じない、ダメなのである。

まずは私たちの宗教観、神に対する姿勢が他国の人々と著しく異なっているという認識の元に、神社のあり方、合祀の是非、追悼のあり方を模索する必要があるのではないか。単なる個人の心の問題などでは決してない。私たち日本人の宗教心の問題なのであろう。一方的にこちらの思いを届けるためなら神様に祭り上げる必要もない。追悼慰霊ならお寺で供養すればよいのである。英霊はみな戒名をもって仏式にて葬儀をされた方々なのであるから。


靖国問題の本質こぼれ話

先に靖国問題の本質は私たち日本人の宗教観の問題であると書いた。神に対する思いが他国の人たちと著しく違う。私たち日本人特有の曖昧な感覚が災いしているのであると。つまり宗教とは神仏に対して一方的にこちらの思いを訴えるものでは無しに、神仏からの教えや戒めを受ける立場であることを私たち日本人は理解していないのではないかと思うのだ。

仏教では、在家者には五戒があり、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒とある。事あるごとにこの五戒を受け、また葬儀の際にも唱えられるものではあるが、こうした戒律をどの程度自らの戒めとして実感しているであろうか。

もう10年も前のことではあるが、インドの地でインド仏教徒の中で暮らしていたことがある。サールナートに一年暮らし、ヒンドゥー教徒の家族に招かれ食事をしたこともあった。ヒンドゥー教徒にはベジタリアンが多く、同じ階級でもベジタリアンかそうではないか、また卵を食べるか食べないかによってクラスが違う。

バラモンやクシャトリア階級の人たちとの付き合いが多かったが、彼らの中でも自己規制をしている方が上位に位置づけられる。そんな気高さを大切にするが故に彼らはより神に近いと感じてもいるようであった。お酒を飲んだりする人たちは門外であって、ならず者、ヤクザ者という目で見られているようであった。このような生活面で宗教がどれだけ私たち日本人の生活を規制しているかと言われれば誠に心もとない思いがする。

しかし、そもそも僧侶自体が、僧侶の戒律を、つまり沙弥の十戒、比丘戒(四分律であれば二五〇戒)をどの程度自ら僧侶足るべき者として自戒し受け入れて居るであろうか。明治時代に肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事という太政官符が出され、仏教僧の戒律が全く保てない状態に陥って今日に至っている。

しかし、では、それまではきちんと整然と戒律が各々の宗団で維持されていたのであろうか。残念ながら史実はそのようには伝えていないようである。だからこそ、鎌倉時代や江戸時代に事あるごとに戒律が見直され、各宗派で律院が定められ、一部の心ある僧侶たちによって改革が行われてきた。鎌倉時代に生まれた新仏教には戒律を全く意識しないでよいとする宗派も現れている。

なぜ日本の宗教がそのような状態になったのかということになれば、伝えられた経典や教えすべてをそのまま受け入れるので無しに、好ましいものを一部だけ採用し強調して良しとする風潮が大きく作用しているのではないか。また、神仏が指し示す教えや戒め、仏教であれば世界基準の取り決めを守る必要を感じない島国特有の感覚も大いに影響しているのであろう。おらが島、おらが村だけの特例で生きられればいいという感覚である。

宗教を奉じる者として本来のスタンスを踏み外し、守るべき定めよりも地域感覚を優先するという自己規制のなさに加え、八百万の神という宗教観が輪を掛けて私たち日本人の曖昧な宗教観を作り出しているのではないかと思う。

すべての分野で、善い悪いは別にしてグローバルスタンダードと叫ばれる時代に、唯一宗教だけが世界基準から外れている現実を私たちは認識すべきなのではないかと思う。世界基準に立たねばならないということではない。神ということになればそれが必ずしもよいとは限らない。しかしまずは違うのだと気づく必要があるのだと思う。


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7 コメント

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Unknown (匿名)
2013-07-18 13:36:21
靖国神社に参拝する人にも色々いると思います。遺族の方、遺族ではないけれど慰霊目的の方、普通の神社と同じ感覚で参拝する人、右翼の方、など。靖国神社については普通の神社とは分けて考えた方がいいでしょう。慰霊のために参拝することは非常に大切な事です。私も英霊には感謝の念を持っています。しかし、靖国神社のあり方には違和感を感じます。私は、我が国の伝統として本来、死者の供養は仏法によって行われていた訳ですから、靖国神社は寺にすべきだと考えています。薩長の側の官軍しか祀られていないことも不満です。一般兵士の死者を「顕彰」し、神として祀る行為は死者を使役するものであって、官製新興宗教の国家神道によるもので、決して日本の伝統的な感覚ではないと思います。本来、神社に祀るべきは怨霊、即ち賊軍や敵軍の方々でしょう。
日本人の宗教感覚が特殊であると書いておられましたが、本当にそうでしょうか。明治維新以降の神仏分離や近代合理主義によってそれまでの宗教感覚が変わってしまったかもしれませんが、日本人の伝統的な感覚はそれほど特殊ではないのではないでしょうか。中国や台湾などの道教寺院に参拝している人をみると、案外日本人と似ているのではないかと思ってしまいます。「特殊」というのは、西洋のキリスト教的な感覚から見た話で、現在の日本の宗教学や宗教の定義が皆西洋の学問の延長にあることもそうした見方がなされることの一因だと思います。
仮に特殊であったとしても、特殊であることは良いことです。特殊であることは民族のアイデンティティのようなものに繋がり、それだけ日本人という民族が長続きすることに繋がるのではないでしょうか?(いい加減な理屈ですみません)そういう意味で違うということを意識するのは良いと思います。
グローバルスタンダードというのも、結局はアメリカ的なもの、キリスト教的なものを押し付けられているだけのようにも感じます。宗教や文化については、「これが正しい」と言えるものは無いのですから、日本人は日本人の感覚や文化を大切に守った上で、他国のものも尊重するという姿勢が大切でしょう。他国の文化にに自国の感覚でものを言ってはいけませんし、逆に我が国が何も他文化に合わせる必要ももありません。
歴史認識についても同じことです。中国や韓国も「違い」を認める姿勢を持つべきでしょう。例えば、韓国がハルビンに記念碑を建てたがってる安重根も日本から見ればテロリストなのですから。
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匿名様へ (全雄)
2013-07-19 13:21:39
神仏分離あたりから日本の宗教は歪なものになっていくのではないかと思います。そもそも神社は慰霊のために訪れる場所ではありません。亡くなった方を神に祀りあげること自体がやはり違例のことでしょう。

そもそも日本で神に祭り上げられるような人は祟りを恐れるが故に祀られたのです。祟られそうな人が恐れて祀りあげた。それが日本の神社の起こりです。

慰霊はお寺でするものでしょう。おっしゃるとおりで、英霊はみんな立派な戒名を付けられて葬式をし、供養されてきています。

国民の特殊性が悪いということではありません。そういう違いを理解して説明する必要があるということです。

歴史認識についても何度も私たちの考え方を説明することが大切です。自国の主張を繰り返すのではなく、何故理解されないかを知り、丁寧に説くことをこころがけるべきでしょう。双方が理解できるように。
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大東亜戦争は日本人対白人の戦いですヾ(@⌒ー⌒@)ノ (幸福の科学松原俊)
2013-12-15 17:14:33
アジア諸国は戦前欧米の植民地でしたヾ(@⌒ー⌒@)ノ
アジア諸国を欧米から解放したんですヾ(@⌒ー⌒@)ノ
英霊達は大東亜共栄圏という理想の為に殉死したんですヾ(@⌒ー⌒@)ノ
決して侵略など行っていないし、戦犯として扱われる言われもありませんヾ(@⌒ー⌒@)ノ
そう言った根拠は渡部昇一さんの著書に書かれておりますヾ(@⌒ー⌒@)ノ
南京大虐殺や従軍慰安婦も証拠を捏造したデタラメに過ぎませんヾ(@⌒ー⌒@)ノ
あなたの主張は英霊達や生き残り組の戦士がたに対する侮辱ですヾ(@⌒ー⌒@)ノ
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Unknown (三土修平)
2013-12-17 11:03:23
ブログ拝読いたしました。
靖国問題については、いちおう一家言ある人間と思われている東京理科大学教授の三土でございます。

仏教界内でも、靖国神社問題に関しては、浄土真宗と他宗派では温度差があるようで、先日、とある真言系の住職とお話をしていたところ、「全日仏では首相の靖国参拝に異議を唱えるような声明を出したりしますが、あれは主に真宗系の方々が中心になってやっていることで、わが宗派では本当を言うと、ああいう政治的なことについて一方の立場のことを言うのはどうかと疑問に思い、乗り気でない者のほうが多いのです」などと聞かされました。まあ、日本の土着仏教の平均的な檀家層の意識を考えると、それを逆なでするようなことを言って、菩提寺住職として浮き上がってしまうのは、好ましくないというお考えなのでしょう。

が、ブログ主さまは、インドの宗教界とも交流なさった経験がおありだとかで、「真言系=保守」というような枠には収まらない自由闊達さでものをお考えのようで、視野の広さに感銘を受けました。

私が8年前に『靖国問題の原点』を出しましたときには、それなりに、「なるほど、そういうことだったのか」と、打てば響くように反応してくださった方がかなりおられて、「世の中さほど捨てたものじゃない」と思いましたが、今年、幻冬舎ルネッサンス新書から『靖国問題の深層』を出して主に若い者にこの問題をより深く考えてもらいたいと呼びかけたときは、さほど活発な反応が見られず、時代の推移(中・韓のナショナリズムに「国」としてどう対処するかの議論のほうが中心になってしまって、政教分離問題や、日本の宗教風土を反省するといった議論への関心が薄れてしまった)を感じました。

同書の最後の章に引用しておいた「戦犯刑死者元海軍軍医中佐上野千里の遺書・遺詠」というものを、立場を超えて多くの人に読んでいただきたいというのが、目下の私の希望です。

「ひじる日々」のブログ主さまとも交流がおありのようですね。あの方からはむかしEメールをいただいたことがあるのですが、今年こちらからEメールを出したところ、メールアドレスが変わっていて、不着になってしまいました。三土がメールいただきたいと言っていた、とお伝えいただければ幸いです。
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幸福の科学松原俊様 (全雄)
2013-12-23 07:57:31
初めまして、お越し下さりコメントまで残して下さり恐縮です。

恐れ入りますが、もう一度よくお読み下さり文章の主旨を御理解頂きたく存じます。
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三土修平様 (全雄)
2013-12-23 08:05:12
初めまして、沢山あるブログの中からこちらにお越し下さり、またコメントを頂戴し恐縮致します。

靖国問題について深く研究している者でもございません。ただ宗教的な感覚の違いから双方の主張の隔たりが生じていると思い認めました。

先生のご著書も機会ありましたら学ばせていただきたいと存じます。

また、ひじる日々の佐藤氏へは、SNSから連絡をしてみます。

ありがとうございました。
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連絡がとれました (三土修平)
2013-12-23 16:43:08
「ひじる日々」の佐藤哲朗さまより、さっそくEメールをいただくことができました。仲立ちしてくださって、ありがとうございました。全雄さまも、真言宗に属しておられながら上座部仏教にも通じておられ、視野がお広いですね。今後とも貴ホームページを参考にさせていただきます。
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