住職のひとりごと

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木村泰賢博士の『原始仏教思想論』(第二篇第四章「業と輪廻」)を概説し、業と輪廻の正論を学ぶ-2

2010年06月07日 20時16分44秒 | 仏教書探訪
四、前生と後生との間における人格的関係

お釈迦様によれば、生命は刻々に変化しつつ前生から今生へそして後生へと輪廻相続される。それが無意識的な性格によって相続されていくとするならば、その人格的な関係はどのようになるのであろうか。有我論で輪廻を説くならば、すべてが変化してもその我体なるものは同一常住であると考えるので、少なくとも論理的には自己の同一が成立すると言える。しかし、お釈迦様はその我体なるものも変化していくと見る限り、その人格的なつながりが問題となる。

しかしその観点は、生命のもつ流動的変化の真相を理解せず、固定的な我を念頭に考えるからである。今私たちは自身の生命を持続的に存在するものと認識しているが、お釈迦様は、同とも異とも言われず、その中道にあるという。私たちは常に様々な行いによって、性格を変えつつ人生を歩み、死を迎える。そして、後生にあっては表面上前生とは全く違うものに見えるけれども、その根底には前生の無意識的性格を相続している。だから、皆生まれながらにして、その能力、境遇、その他種々の点において異なるのである。

さらにそれは前生ばかりかその前の何度となく輪廻してきた過去世の様々な経験的な集積をも具有している。今もたらされている結果はどの過去世の因によるものなのか。また、一生涯でも無数の経験の中の何れが未来の大運命を決定する主因となり、また何れが副因となるのか。これはアビダルマにいたり種々に論究されることとなるのだが、これを三世因果と言う

そしてお釈迦様はこの場合の果報を受ける者とその原因をなした者との関係を同とも異とも言われず、これは変化の法則、すなわち縁起の系列をもってなされるとされたのである。これは蚕の変化の如くあると理解できよう。つまり、蚕は幼虫よりサナギになり、サナギより蛾となる、外見的には全く違ったものではあるが同一の虫の変化であり、幼虫と蛾を同とも異とも言えずただ変化であるというのと同様なのであると述べている。

いわゆる霊魂が空間を駆け巡り種々の身体を得ていくというような有我論での輪廻説と、この点が大いに異なるのである。無限の輪廻は、お釈迦様によれば、因果によって規定された無始無終に続く変化によってもたらされるとするのである。そして私たちの生命は業自らが変じて、畜生になり、地獄の住人になり、天人になるのであって、与えられて地獄や天があるのではなく、自らの業が生死の境を超えてこれを創造していく。私たちの魂が畜生に託するのではなく、私たちの業がその変化の経過において、人類たるべき五蘊を畜生たる五蘊に代えたに過ぎないと見るのである。お釈迦様の輪廻論の真意はまさにここにあるのであって、これは近代の学者の中にはショーペンハウエルなど仏教を哲学的に取り扱おうとする人々の承認するところでもある。

五、業と果との性質、及びその倫理的妥当性に関して

人は蒔いた種と同じ果を受ける。善行者には善果が来たり、悪行者には悪果が待っている。しかしてこの場合の善悪の意味はいかなるものなのであろう。お釈迦様はこの因果に間における性質関係を二重に考えられていた。第一には、因と果を同性質から見たものであり、これを同類因等流果の関係と言い、第二は、異なる性質から見たものであり、異熟因異熟果の関係と言う。

第一の関係は、主に心理的なものであり、前業と同じような結果、さらにはそれを一層前進させるような結果が得られるとするものである。たとえば、今生においてよく勉強した者は来世において賢明な素質を得て生まれる。逆に怠惰であれば来世では愚鈍に生まれる。また、獣の心を養う者は獣となり、鬼の心を抱く者は鬼となり、天人の心を養う者は天に生まれるなどと言われ、輪廻の報いは他の第三者から与えられものではなく自らの性格に応じて自らこれを作るのである。いかにも自然のことと言えるのであり、この意味において、善行者は善果を受け、悪行者は悪果を受けるという同類因果説は直接的な心理的根拠を有すると考えられる。

次に第二の関係については、善行をなした者は幸福になり、悪行をなした者は禍を受けるというような規則についてであり、この場合、善悪は倫理的な価値判断ではあるが、禍福は倫理的な意義を有するものではなく、意に適うものかどうかというものであって、この場合因と果を同質と見なすことが出来ない。しかしこの関係は種々の人生現象を説明するに際してお釈迦様が始終お説きになられたものである。

たとえば、今生の短命は前世において殺生を行ったためであり、反対に長寿なる者は前世で慈心をもって他の命を憐れんだがためである。今生に病気がちなのは前世において衆生を悩まし苦しめたからであり、無病なるは慈心をもってこれを愛し可愛がったため、また今生において姿形の醜悪なるは前世において多く怒れるためであり、反対に端正なるは柔和だったためである。さらに今生に貧しいのは前世に慈善をしなかったためであり、反対に富めるのは前世に慈善したためであるという。

殺生と短命、貧富と慈善など論理上異なる概念について因果関係を結びつけているが、これは単なる勧善懲悪を説くがためばかりではなく、お釈迦様は人生現象の種々相を解釈するために説かれた極めて重要な教理となされたのである。前世において殺生したからその習慣で今生も殺人鬼に生じたというならその根拠は明らかではあるけれども、殺人鬼の代わりに短命に生まれるというのはいかなる根拠があるのであろうか。同様に前世で衆生を悩ましたために今生で疫病神になる、衆生を慈しみ可愛がったならば福の神になるのならその根拠は分かりやすいのだが、悩ましたがために病弱となる、可愛がったがために健康となるのはどのようにその妥当性が証明されるであろうか。

そもそも私たちの意志的な活動は、どんなに簡単に見えるものでも極めて複雑な根拠と経過によってもたらされる。従ってその活動が自分にどう影響していくのかも単純なものではない。だからその影響のもとでどのような性格を作り、どのような自己の世界を作っていくのかということも一通りのものではなく、種々の方面に結果していくであろう。こうして一生の間にも無数の業を作り、前世からの業も相集い、それらが根底になって自己の運命を作っていくとすれば、その果報にも複雑な意味が生じてくると考えることが出来よう。

しかしそれらをここでは、一つの業を心理的な事実としてその果をみる場合と、これに倫理的な価値を持って果をみていく場合とに分けてみる。心理的な事実として見てみると、その因と同類の果を導くであろうし、倫理的な価値をもって見ると賞罰の果、つまり異類の果を得るであろう。一つの業によってこのように大きく二様の意義があり、心理的な事実としての方面からは同類因果となり、倫理的価値としての方面からは賞罰を伴う異類因果となる。

たとえば、慈善心をもって布施を行ずる時、その結果として自己の性格がますます慈しみに富み博愛の心を持つにいたるのは心理的な事実であり同類因果と言えよう。そして、それと同時に倫理的な価値として善き行為を行ったことがその性格となり、やがて自らの世界を作るに当たっては多くの人との交流を形成し富み栄える異類因果をもたらすと考えられる。同様に、前世において人を悩ましたことは、今生または来世でますます人を悩ます凶暴な心を作ると同時に、自らの心にも悩みの世界をもたらし自ら病弱、短命となるであろう。私たちの世界はすべて私たちの性格が作るとするのがお釈迦様の真理からの見方であるからである。因果論における難題であった異類因果にも理論的な根拠がこうして見いだされるのである。

このように、これら二方面からの因果は相伴って同時に結果するものと限らず、時を異にして現れることが往々としてあり、正義の人なのに苦しみ多く、凶悪な人なのにかえって栄えるというようなことはこの例と言える。また、同類因果は特に意識的に養われたものであるので後天的な努力によって、ある程度まで変更しうる。たとえば、前世の業により愚鈍な素質を持って生まれたとしても今生での本人の努力によって、賢明なる性格を養うことも出来る。逆に賢人としての素質を持って生まれても、怠惰によって愚かな性格を養いその素質を無駄にしてしまうこともある。前業の影響の大きさを認めながらも、後天的な修養を大いに奨励されて、その宿業を転じて智慧を獲得するところにお釈迦様の仏陀たる使命があったと言えよう。この点が宿命論者であったマッカリゴーサーラらと大いに異なるところであった。

しかし、来世でどのような生まれになるかなどといった運命的な因果、ここで言うところの異類因果については、無意識的に植え付けられたものであり、その果の発生を防ぐことは出来ない。従って心理的な性癖などについてはどんなに悪性なものでも、これに打ち克って至高のところに導くことを任務とされながらも、幸不幸の運命に関しては自然の法則として、お釈迦様といえどもこれをいかんともしがたいと教えられた。すなわち、生死輪廻と業報とは、誰あろう何人も逃れることが出来ないものであり、お釈迦様の役目はこの厳然たる事実を知らしめて、ついに絶対的にこれを離脱せんがための道を教えるところにあったと言えよう。つづく

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