般若心経は、私たちに何を語りかけようとしているのか。お釈迦様が亡くなり四〇〇年も経って心経は著された。その後インドは勿論のこと伝えられた国々で多くの解説者によって様々に解釈されてきた。
しかし、心経が作られた当時、はたしてどのような意図をもってこの絶妙なる経が生み出されたのか。心経が誕生した正にその時代の人々の仏教理解から出発して経文を解釈すべきではないか。そう考え、浅学の身ながら私なりに解説した一文、「般若心経私見」が既にある。
そこで、ここでは単に心経が現代に生きる私たちに投げかけているメッセージを一語一語から読み取っていきたいと思う。
仏教は私たちの生活の中に生きている
経題は、「摩訶般若波羅蜜多心経」という。「摩訶」とはインドの言葉でマハーの音訳。「まか不思議」の摩訶であり、日本語にもなっている。辞書には大きなこと優れたことを言うとある。
これと同じように日本語にもなっている仏教語は数多い。地獄を意味する奈落、娑婆、摩尼など。漢訳の仏教語にいたっては、縁起、方便、有頂天、退屈、自愛と枚挙にいとまがない。
仏教は誰かが死んだときだけのものではない。私たちの生活の中に既に入り込みそれと分からないうちに私たちの物の見方考え方のバックボーンになっていることを教えてくれている。
分別を断ちきる智慧を身につけるべし
次の「般若」も同様で、パンニャの音訳語。般若の面などと言うが、面打ち般若房がはじめた悲しみと怒りの両面を表現した角のある能面の名前となって使われるようになった。般若ずらなどと使われ、嫉妬心をたたえた女の顔を喩えて言うとある。
ところで、一般に、分別は一人前の人間として身につけるべき思慮判断と思われがちだが、仏教の世界ではこの分別があるから大小、美醜、優劣、善悪を取り違えたり、他と比較しより良くありたい、思われたいという欲の心が生じると考える。この分別を断ちきる智慧こそ智慧の代表者ともいえる文殊菩薩の智慧。すぐ他人が秀でていたり得をすれば嫉妬していると般若のような面になってしまうよ、ということか。
めざすは究極のさとり
「波羅蜜多」とはパーラミター。パーラとは向こう岸、彼岸とも訳す。春秋の彼岸会もこの言葉から生まれている。彼岸の中日には真東から日が昇り真西に沈む。日の沈む方角に向かい西方浄土におられる阿弥陀さまに手を合わせ、極楽へ迎えてくれることを願ったのが始まりか。
パーラミターとなると彼岸に到達せることを言う。彼岸とはこちらの娑婆世界に対してあちらの世界。ただし死んで身体の束縛が無くなれば簡単に行けるというわけではない。仏教で言うあちらとはさとりの世界。極楽浄土はほんの一里塚に過ぎないことを肝に銘じておくべきか。
陀羅尼なり
そして「心経」とは心臓そのものを指す。なぜならばインドの原典には経の文字は見あたらず、本来の題名は般若波羅蜜多心までというのが今日の仏教学の常識となっている。それは心髄であり神髄のこと。心は心髄万境転と言うが如く様々な境遇で転変する。その心を智慧によって手なずけ彼岸に導く奥義そのものということか。
弘法大師の『般若心経秘鍵』には、心経とは「諸経を含藏せる陀羅尼なり」とある。陀羅尼とは誦すれば諸々の障害を除いて種々の功徳を受ける秘密呪のこと。だからこそ心経は多くの人々に愛され読誦され続けているのかもしれない。
菩薩は私たちとともにある
ここから経文にはいる。はじめに「観自在菩薩」とある。普通お経のはじまりには如是我聞と有り、「かくの如く我聞く」として、かつて釈迦入滅後の雨期に五百人の阿羅漢(完全に悟った人)が集まり、経と律の結集を行ったことに因み、経を誦出したアーナンダ長老の言葉として如是我聞をお経の出だしとしている。
また続いて経を聞いた場所や説き手、聞き手などを特定するのだが、心経ではそれらが省略されている。そしてこの経の説き手として唐突に観自在菩薩が登場している。観自在菩薩と観世音菩薩は単に訳し方の違いに過ぎない。因みに観世音と訳したのはクマーラジーヴァという西域出身の有名な訳僧で、観自在と訳したのは西遊記でおなじみの玄奘三蔵。いずれにしてもこの二つの訳のお陰で、この菩薩の性格がより良く知れることになった。
世の中の音、つまり様子有様を観察することが自在にお出来になるお方だということ。観察できるということはそれらの現場におられるのと同じことになる。もっと簡単に言えば、すべての者たちと共にあり、理解し助けて下さるということになる。どんな境遇にある人にでもその人を理解し救済する人、観音様のような人が必ずいるものだということか。
いまに生きよ
そして「深く般若波羅蜜多を行ぜしとき」と続く。「般若」とは前回述べたように分別を乗り越えた智慧のこと。「般若波羅蜜多」で智慧の完成の意。全体では、智慧の完成という行を深く修したとき、ということになる。ところで、説き手である観音様の「観」とは仏教では智慧の修行を指す。観は、仏教の瞑想である止観の観のこと。
今をそのままに分別解釈無しにつぶさに見ること。ふつう解釈とは過去の自分の記憶からあれこれ分析し判断することであるが、その解釈無しに、今の自分に意識を据えるのが観ということになる。過去の出来事に心を動揺させ、これから起こることに心躍らせたり憂いることなく今だけに生きることの大切さを教えている。
みんないずれは消えて無くなるものと観念すべし
そしてその時、「五蘊が皆空であると照見して一切の苦厄を度した」という。五蘊とは、五つの集まりとの意で、色・受・想・行・識という私を取り巻く物と心の世界を指す。それは、目を閉じて静かに座るとき、体と心のうごきとして現れる。
空とは、お釈迦様の言われた無我ということ。すべてのものが因と縁によって起こり移り変わる。何ごとも他の助けにより一時的に成り立っている、確かな私と言えるようなものは何もないということ。私たち一人一人もこの地球環境の中で、様々な人たちものたちの助けのもとに存在している。今の思いもこれまでの沢山の過去の織りなした一時の感情に過ぎない。
苦しみとは、思い通りにならない心の葛藤。すべてのものは移ろい変わりやすいものだから。なにごとも、これでいい、完璧と思っていても、気が付くと満足いかないことばかり。心落ち着けようと静かに座っても、心は様々に妄想し、考え、わずらうもの。けっして思い通りになどならない。
身体も何も問題ないと思っていても、かぜをひいたり、足腰を痛めたり。新しい品物もすべてその日から痛みが出て、いずれ失われる。私、私のものと言えるものではない。物も心もみな移ろいゆく不確かなものだと知るならば、どんな苦しみも私のものではないしいずれ流れ去っていってしまうと知られる。思い煩うことの多い私たちではあるけれども、それもこれもみんな、いっときのものだということか。
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しかし、心経が作られた当時、はたしてどのような意図をもってこの絶妙なる経が生み出されたのか。心経が誕生した正にその時代の人々の仏教理解から出発して経文を解釈すべきではないか。そう考え、浅学の身ながら私なりに解説した一文、「般若心経私見」が既にある。
そこで、ここでは単に心経が現代に生きる私たちに投げかけているメッセージを一語一語から読み取っていきたいと思う。
仏教は私たちの生活の中に生きている
経題は、「摩訶般若波羅蜜多心経」という。「摩訶」とはインドの言葉でマハーの音訳。「まか不思議」の摩訶であり、日本語にもなっている。辞書には大きなこと優れたことを言うとある。
これと同じように日本語にもなっている仏教語は数多い。地獄を意味する奈落、娑婆、摩尼など。漢訳の仏教語にいたっては、縁起、方便、有頂天、退屈、自愛と枚挙にいとまがない。
仏教は誰かが死んだときだけのものではない。私たちの生活の中に既に入り込みそれと分からないうちに私たちの物の見方考え方のバックボーンになっていることを教えてくれている。
分別を断ちきる智慧を身につけるべし
次の「般若」も同様で、パンニャの音訳語。般若の面などと言うが、面打ち般若房がはじめた悲しみと怒りの両面を表現した角のある能面の名前となって使われるようになった。般若ずらなどと使われ、嫉妬心をたたえた女の顔を喩えて言うとある。
ところで、一般に、分別は一人前の人間として身につけるべき思慮判断と思われがちだが、仏教の世界ではこの分別があるから大小、美醜、優劣、善悪を取り違えたり、他と比較しより良くありたい、思われたいという欲の心が生じると考える。この分別を断ちきる智慧こそ智慧の代表者ともいえる文殊菩薩の智慧。すぐ他人が秀でていたり得をすれば嫉妬していると般若のような面になってしまうよ、ということか。
めざすは究極のさとり
「波羅蜜多」とはパーラミター。パーラとは向こう岸、彼岸とも訳す。春秋の彼岸会もこの言葉から生まれている。彼岸の中日には真東から日が昇り真西に沈む。日の沈む方角に向かい西方浄土におられる阿弥陀さまに手を合わせ、極楽へ迎えてくれることを願ったのが始まりか。
パーラミターとなると彼岸に到達せることを言う。彼岸とはこちらの娑婆世界に対してあちらの世界。ただし死んで身体の束縛が無くなれば簡単に行けるというわけではない。仏教で言うあちらとはさとりの世界。極楽浄土はほんの一里塚に過ぎないことを肝に銘じておくべきか。
陀羅尼なり
そして「心経」とは心臓そのものを指す。なぜならばインドの原典には経の文字は見あたらず、本来の題名は般若波羅蜜多心までというのが今日の仏教学の常識となっている。それは心髄であり神髄のこと。心は心髄万境転と言うが如く様々な境遇で転変する。その心を智慧によって手なずけ彼岸に導く奥義そのものということか。
弘法大師の『般若心経秘鍵』には、心経とは「諸経を含藏せる陀羅尼なり」とある。陀羅尼とは誦すれば諸々の障害を除いて種々の功徳を受ける秘密呪のこと。だからこそ心経は多くの人々に愛され読誦され続けているのかもしれない。
菩薩は私たちとともにある
ここから経文にはいる。はじめに「観自在菩薩」とある。普通お経のはじまりには如是我聞と有り、「かくの如く我聞く」として、かつて釈迦入滅後の雨期に五百人の阿羅漢(完全に悟った人)が集まり、経と律の結集を行ったことに因み、経を誦出したアーナンダ長老の言葉として如是我聞をお経の出だしとしている。
また続いて経を聞いた場所や説き手、聞き手などを特定するのだが、心経ではそれらが省略されている。そしてこの経の説き手として唐突に観自在菩薩が登場している。観自在菩薩と観世音菩薩は単に訳し方の違いに過ぎない。因みに観世音と訳したのはクマーラジーヴァという西域出身の有名な訳僧で、観自在と訳したのは西遊記でおなじみの玄奘三蔵。いずれにしてもこの二つの訳のお陰で、この菩薩の性格がより良く知れることになった。
世の中の音、つまり様子有様を観察することが自在にお出来になるお方だということ。観察できるということはそれらの現場におられるのと同じことになる。もっと簡単に言えば、すべての者たちと共にあり、理解し助けて下さるということになる。どんな境遇にある人にでもその人を理解し救済する人、観音様のような人が必ずいるものだということか。
いまに生きよ
そして「深く般若波羅蜜多を行ぜしとき」と続く。「般若」とは前回述べたように分別を乗り越えた智慧のこと。「般若波羅蜜多」で智慧の完成の意。全体では、智慧の完成という行を深く修したとき、ということになる。ところで、説き手である観音様の「観」とは仏教では智慧の修行を指す。観は、仏教の瞑想である止観の観のこと。
今をそのままに分別解釈無しにつぶさに見ること。ふつう解釈とは過去の自分の記憶からあれこれ分析し判断することであるが、その解釈無しに、今の自分に意識を据えるのが観ということになる。過去の出来事に心を動揺させ、これから起こることに心躍らせたり憂いることなく今だけに生きることの大切さを教えている。
みんないずれは消えて無くなるものと観念すべし
そしてその時、「五蘊が皆空であると照見して一切の苦厄を度した」という。五蘊とは、五つの集まりとの意で、色・受・想・行・識という私を取り巻く物と心の世界を指す。それは、目を閉じて静かに座るとき、体と心のうごきとして現れる。
空とは、お釈迦様の言われた無我ということ。すべてのものが因と縁によって起こり移り変わる。何ごとも他の助けにより一時的に成り立っている、確かな私と言えるようなものは何もないということ。私たち一人一人もこの地球環境の中で、様々な人たちものたちの助けのもとに存在している。今の思いもこれまでの沢山の過去の織りなした一時の感情に過ぎない。
苦しみとは、思い通りにならない心の葛藤。すべてのものは移ろい変わりやすいものだから。なにごとも、これでいい、完璧と思っていても、気が付くと満足いかないことばかり。心落ち着けようと静かに座っても、心は様々に妄想し、考え、わずらうもの。けっして思い通りになどならない。
身体も何も問題ないと思っていても、かぜをひいたり、足腰を痛めたり。新しい品物もすべてその日から痛みが出て、いずれ失われる。私、私のものと言えるものではない。物も心もみな移ろいゆく不確かなものだと知るならば、どんな苦しみも私のものではないしいずれ流れ去っていってしまうと知られる。思い煩うことの多い私たちではあるけれども、それもこれもみんな、いっときのものだということか。
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恨みや不満の奥底にある深い怒りを気概として勇気の根底に置くことも気骨を持つには不可欠だと思います。お茶を濁すのみの日本社会であってほしくはないのです。
世の中の様々な情報を分析して一つの見解を導き出す。分析レベルの知恵。
それに対し、その情報の深層を解析する。いかなる立場、いかなる目的をもって作られた情報か。それによってどう周りが展開していくのか。
私たちはいかにあるべきか。損得よりもその先を考えられる人の立場。より多くの者たちの真のしあわせを創造する智慧。
日本も含め各国の為政者たちはもっと賢くあって欲しいものだと思いますが。為政者とはそういうものとも言えましょう。とすれば、市民一人一人がその深層に知悉し、その先を見据えることが何よりも大切な事なのでしょう。