住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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史跡・備後國分寺について

2020年06月06日 09時12分15秒 | 備後國分寺の風景
國分寺は、今からおよそ1280年前、天平13年、西暦では741年に聖武天皇が、「國分僧寺尼寺建立の詔」という詔勅を発せられまして創られたお寺です。全国66州、それに島に二つ、都合68の國分寺が出来て参ります。

なぜ聖武天皇は國分寺を造ろうとされたのか。その詔の100年くらい前に乙巳の変と言われるクーデターがありましたが、当時都の政治は度重なる不穏な事件が立て続けて起こり、また饑饉や災害疫病が蔓延する混迷を深めた時代でした。そこで、聖武天皇には仏教という進んだ精神文化の中心となる施設を諸国に造ることで日本国を刷新し、つくり換えたいという志があったと考えられます。当時仏教は先進国で導入する最先端の建築技術、木工、金属工芸、芸術、文化、思想を象徴するものでした。

天武天皇の時代にすすめられた、中国に倣った律令制度によって政治経済が調えられつつあり、そして聖武天皇の時代に、中央には東大寺を造り、政治経済の中心である都への中継拠点として各国の国府に隣接する國分寺國分尼寺を創建したのです。鎮護国家、それに五穀豊穣、万民豊楽を祈願するという信仰の場であるとともに、それは当時の最高の文化、技術、芸術であり、国の権威を人々に示すものでした。

そのように当時の粋を凝らし作られた備後國分寺は、古代の山陽道に面して南大門があり、少し参りますと、右側に七重塔、左に金堂があり、その少し奥中央に講堂がありました。金堂は、東西30メートル、南北20メートル、七重塔は、基壇が18メートル四方あり高さは50メートル。講堂は東西30メートルあったと、昭和47年の発掘調査で確認されております。大きな建物が参道中程に林立していたわけです。

これは、奈良の法起寺式の伽藍といわれます。また、寺域は600尺四方、およそ180メートル四方が築地塀で囲まれた境内だったと言われております。この他に僧坊、食堂、鐘楼堂、経蔵などがある七堂伽藍が立ち並び、最盛期には12の子院があったと言われています。その発掘では、たくさんの創建時の瓦が発見されており、重圏文、蓮華文、巴文の瓦などが確認されております。

当時の金堂には、丈六の釈迦如来像が安置されていました。これは、立ち上がると約5メートルの大きなお釈迦様の座ったお姿、おそらく座像であったであろうと思われます。七重塔には、國分寺の詔において聖武天皇が発願された金光明最勝王経10巻が安置されておりました。正式な國分寺の名称は『金光明四天王護国之寺』ということもあり、その経巻こそが國分寺の中心であったであろうと思われます。

それは、護国経典として、とても当時重要視されたもので、その「紫紙金字金光明最勝王経10巻」、この備後の國分寺にあったとされるその経巻は、衰退した時代に沼隈の長者が手に入れ、その後、尾道の西国寺に寄進されて、今では、奈良の国立博物館に収蔵されて国宝に指定されています。奈良国立博物館のホームページ名品紹介をご覧ください。

その後、平安時代になりますと、律令体制が崩れ、徐々に國分寺も衰退して参りますが、鎌倉時代中期になりますと、中国で元が勢いを増し、元寇として海を渡って攻めてくる。そうなりますと、もう一度、國分寺を鎮護国家の寺として見直す動きがありまして、その時には東大寺ではなくて、奈良の西大寺の律僧たちが盛んに西国の國分寺の再建に乗り出して参ります。

おそらく、その時代にはここ備後にも来られていたと考えられます。14年前に仁王門前の発掘調査がありまして、その時には、鎌倉室町時代の地層から、たくさんの遺物が出て参りました。当時の再建事業の後に廃棄されたものではないかと言われておりまして、創建時から今日に至る國分寺の盛衰を裏付ける資料となったのであります。

そして、時代が室町戦国時代になりますと、戦さに向かう軍勢の陣屋として國分寺の広大な境内が使用され、戦乱に巻き込まれ、焼失し、また再建を繰り返す、江戸時代には、延宝元年、1673年という年にこの上に大原池という大きな池がありますが、大雨でその池が決壊して、土石流となり、國分寺を流してしまう、たくさんの人が亡くなり、その後、この川を堂々川と言いますが、その川に、砂留めが造られて、文化財となっております。

そして、その水害によって失われた國分寺は、その後、福山城主水野勝種侯の発願によりまして、全村から寄付を集め、城主自らが大檀那となりまして、用材、金穀、役夫の手配を受けて、この現在の地に移動して再建されたのが今日の伽藍です。元禄7年にこの本堂が出来ました、今から320年前のことです。

それから、徐々に伽藍が整備されていきますが、伽藍が今日のように整った頃、神辺に登場して参ります、儒学者菅茶山先生は、何度も國分寺に足を運ばれまして、当時の住職、高野山出身の如実上人と昵懇の仲になられ、鴨方の西山拙斎氏と共に来られ聯句を詠んだりしています。

それが仁王門前の詩碑に刻まれております。茶山先生も交えてここ國分寺で歌会も何度か開かれ、当時の文人墨客の集う文化人のサロンとして國分寺が機能していたようです。今日では、真言宗の寺院として、江戸時代から続く信心深い檀家の皆様の支えによって護持いただいております。

創建当時の様子などを想像しながら、是非、ご参詣ください。

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