住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

礼拝に込める思い

2021年01月22日 09時54分58秒 | 仏教に関する様々なお話
礼拝に込める思い(昨日の薬師護摩供での法話に加筆訂正しました)




今年も初大師初護摩の日を迎え、早朝からたくさんの皆様お参りをいただきありがとうございます。世界は混迷を深めておりますが、私たちの日常はそれぞれに置かれたところでしっかり生きていかねばなりません。そこで今日は仏教徒にとって最も大事でもあり、また基本となる礼拝の意味するところについて考えてみたいと思います。今護摩行の初めと最後に、「オンサラバタタギャタハンナマンナキャロミ」と唱え礼拝しました。これは正しくはサンスクリット語では、「オーン・サルワ・タターギャタ・パダ・バンダナン・カローミ」となり、すべての如来方の御足を頂戴し礼拝します、という意味となります。

インドの学校などに参りますと、子供たちが先生に挨拶する時、右手で先生の足を触りその手を自分の額に持っていき、それから合掌し、ナマスカールとニコニコして挨拶する光景をよく目にします。これはまさに身を低くして先生を敬い、自分を無にしてすべて先生の教えに従いますということを表す伝統的なしぐさとなっています。学校の先生ですから、様々な社会通念慣習も含め各教科の学びも頭を真っ白にして先生から一から学ぶ姿勢を表すのです。

私たちが仏様を礼拝する時もこれと同様に、身を低くして身も心も真っ白に清らかにして、すべて教えに従いますという気持ちで礼拝することが望ましいのです。そして学ぶべきは教えであり、決して当時のインドの人々が神を礼拝するような私たちの世界とは隔絶した超越的な存在としてただその恩恵を求める姿勢ではなく、私たちも仏様の所へ一歩でも近づいていくのだという思いで、人生を生きる目標として最高の存在である、つまり学び行ずる理想としての仏様を敬い礼拝するのだとの思いを持つことが大切なことであろうと思います。

お釈迦様という方は釈迦族の王子として産まれ、幼少の頃から物思いにふけることが多かったと言われています。出家時の四門出遊の伝説に語られるように、生きるとは何か、なぜ苦しみがあるのか、なぜ苦しみ多き命を生きるのかとずっと問い続けられました。そして、ヤショーダラ妃が、王子の役目として大事な跡継ぎを生んだのを確認して出家されました。苦行の末に禅定に入り、当時はすべては神の意向であり、定められた祭祀をその通り行う事こそが禍福を左右すると考えられていた世間の中で、神との合一、梵我一如ではなく、すべての真実、この世の真理を悟ることによって、あらゆる苦しみからの解放を成し遂げられたのでした。だからこそお釈迦様は尊いのです。

ある経典によれば、お釈迦様はお悟りに成られた晩に、はじめに深い禅定に入られて、自らの過去世について思い巡らされ、その何万回とも言われる過去世での、それぞれの名前から家族仕事行いの数々を回想されていき、功徳を積みつつ転生してきた自らの命の営みについてご覧になられました。それから、他の者たちの生存についてご覧になられ、様々な者たちがそれぞれの行いの善悪の業によって生まれ変わりしていく姿をご覧になられました。そうして、煩悩を滅する智慧について心を向けると、苦しみと煩悩について如実に知られ、欲と生存、無明のすべての煩悩から心が解脱したとされています。そして、生きるとは何か、なぜ苦しんでいるのか、いかに生きるべきかと教えられたのです。

ところで、昔、チベット仏教の瞑想会で、ラマ僧から仏教は問いから始まると教わりました。多くの経典はお釈迦様のところに訪ねてきた人が自らの心の煩悶を問うことから成立していると。ですから、自ら何が問題なのか、どうすべきかとの自分自身の心から発する問いがあって初めて私たちは教えを学ぶスタートに立つことが出来るということになるのです。お釈迦様が幼少の時から持ち続けられた問い。同じように私たちの心の中にある悩み苦しみを自ら認識し、どうあるべきかと問うことから学びは始まります。それを経典に求めることもありましょうし、人からの言葉にヒントを得たり、何か作業をしていてふと思いいたることもあります。さらには、生まれ変わり生まれ変わりしてきた私たちの業について考えることも必要かもしれません。それらさまざまなところから学びが得られることと思います。

そうして日々を過ごしながら、私たちはどう生きるべきか、どうあるべきかといえば、それは徳を積むということに集約されるのです。日常の中で、周囲の人々に挨拶をする、にこやかに話をする、各々がよくあるように行い過ごす、お寺にお参りをする、こうして護摩に参加する、法話に耳を傾ける、座禅会に参加する、それらは自分のためと思われがちですが、それらも皆自分のためであり、またすべての生きとし生けるもののためになされている善行為と捉えることが出来ます。みんなが善くありますようにと思いなされる清らかな行い学びは、自分にとっては徳を積むことであり、それはそのまますべての生きとし生けるもののためになります。言い換えますとそうして生きることは、たとえそれが牛歩のごとくであったとしても、かつてお釈迦様が過去世で生きられた歩みを私たちも生きることになります。

ですから、國分寺では座禅会をし、お話し会を開き、護摩供を修しています。皆様と共に仏道を歩み、共に私たちもお釈迦様のようなに何度生まれ変わっても真実を見いだして、最高の清らかな心になれるように努力する歩みの中にあるべきと考えます。このお護摩の火も、仏教以外の教えではただの現世利益を求めるものとされますが、私たちはそこに最高の悟りを実現するための行と捉えて祈願するのです。自分のことばかりか多くの縁者の名前でご祈願を皆さん書かれていますが、各々添え護摩木に書かれた願いを遙かに超えたその方の最高の幸せを願うものとしてあります。ですから、それは甚大な功徳ある行為となるのです。

最後に、対機説法という言葉を聞いたことがあると思いますが、みんな同じではない、それぞれの人の心に応じた教えが仏教にはあります。ですから、みんなと同じようにしていたら良いという発想は仏教にはありません。個々の問題意識から思いを重ね、解決していく、そこに各々に応じた教えがあると考えます。だからこそこれだと自ら教えの確かさを確認し真実を見いだしていくことも出来ます。今の時代特に仏教徒は何が真実か、この世の有り様について自ら問い、そして、いかにあるべきかと問い続ける役割を担っていると考えられます。お釈迦様を私たちの人生の最高の理想として生きる、何度生まれ変わっても真実を求め、問い続けることによって最高の幸せである真理を求めていくことを誓い、そうした万感の思いを込めて礼拝したいと思うのです。


(教えの伝達のためクリックをお願いします)
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« うれしい友からの電話 | トップ | 世の中と仏教 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

仏教に関する様々なお話」カテゴリの最新記事