元旦護摩祈祷後の法話
あけましておめでとうございます。ご苦労様です。今年もこうして皆様の読経の中元旦のお護摩を焚いて年越しすることができ誠にありがたく、感謝申しあげます。護摩札をお加持していて気がつかれたかもしれませんが、今年は特に除災招福、無病息災を祈願される方が多く、昨年立て続けに豪雨や地震、台風に見舞われた影響かと思われます。お陰様でこの福山特に神辺では余り被害が大きくなかったわけですが、私たちの所も例外ではあり得ないというひしひしとした危機感が感じられました。
今年は何とか災害のない年であって欲しいと願う所ですが、そのことを誰よりも願われているのが今上陛下ではないかと思います。平成最後の年になるわけですが、平成の時代は戦争がなくその点ではよかったのですが、阪神大震災から以降毎年のように地震や台風などの被害にあい続けました。何とか今年退位して新しい天皇に譲位する年、何事もなく穏やかな年であって欲しいものです。
いろいろと心配の種は尽きず、天災ばかりでなく、皆様の身の回りには常にいろいろな問題が降りかかることと思われますが、護摩のご祈祷は、いつも申しているとおり、私たちの心にある様々な思い、願い、悩み、計らい、憂い、わずらい、そうした心を護摩の火にくべて、仏様にお預けする、放下と申しますが、仏様にお任せする、ゆだねてしまい、心をきれいに、さっぱりと、願いが叶うとか、かなわないとかは二の次であって、すべてのことは仏様の思し召し次第として受け入れる、そういう心がととのって、心しずまる、おだやかになる、それこそが眼目であります。
仏教の学問的にも心の清らかさとは、心を憂鬱にするもの、わずらうものがない、まったく自由な心のことを言います。私たちは何を見ても聞いても、好き嫌い、良し悪し、役に立つ立たない、損か得か、そう一瞬にして判断して、好きなものよいものには欲が、嫌いなもの悪いものには嫌悪感が生じます。そうして、あれこれと考え、わくわくしたりクヨクヨしたり、浮かれたり落ち込んだりと心弾ませることになります。
それは自分にとってどうか、自分中心に自分の尺度でものを考える習慣が、自分という思いがある限り、どうしても抜けることがありません。江戸時代の小釈迦と言われた慈雲尊者という偉いお坊様が、「身を思う心こそ先ずこの世より身を苦しむる心なりけれ」と詠んでおられますが、身とは、身どもとも申しますが、自分のことですから、自分を思うその心がいまこの世で自分を苦しめているのだぞということです。
私たちは人のためと思いながら、よくよく考えてみれば、みんな自分の損得と感情で物事を考えているものです。人のことを心配しながら、自分にとって困るとか、悲しいとか、厄介だからという思いが裏側に隠れていたりするものです。思い悩み、思いわずらい気が重い、くたびれるというようなとき、自分に執着はないか、結局は自分のことばかり心配しているのではないかと考えてみると、案外にすぐに気持ちが楽になったりいたします。
あれこれと考えても考えなくても、結局は結果は同じ事で、何にもならないことは多いものです。それよりも心配ごとは仏様にお預けして、今執るべきこと、先に必要なことは何かと適切に判断し行動するだけでよいのではないかと思います。思い計らいは仏様にお預けして、余り考えすぎないで、この一年をゆったりと過ごしたいものだと思います。本年もどうぞ宜しくお願い致します。
平成31年元旦護摩祈祷
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あけましておめでとうございます。ご苦労様です。今年もこうして皆様の読経の中元旦のお護摩を焚いて年越しすることができ誠にありがたく、感謝申しあげます。護摩札をお加持していて気がつかれたかもしれませんが、今年は特に除災招福、無病息災を祈願される方が多く、昨年立て続けに豪雨や地震、台風に見舞われた影響かと思われます。お陰様でこの福山特に神辺では余り被害が大きくなかったわけですが、私たちの所も例外ではあり得ないというひしひしとした危機感が感じられました。
今年は何とか災害のない年であって欲しいと願う所ですが、そのことを誰よりも願われているのが今上陛下ではないかと思います。平成最後の年になるわけですが、平成の時代は戦争がなくその点ではよかったのですが、阪神大震災から以降毎年のように地震や台風などの被害にあい続けました。何とか今年退位して新しい天皇に譲位する年、何事もなく穏やかな年であって欲しいものです。
いろいろと心配の種は尽きず、天災ばかりでなく、皆様の身の回りには常にいろいろな問題が降りかかることと思われますが、護摩のご祈祷は、いつも申しているとおり、私たちの心にある様々な思い、願い、悩み、計らい、憂い、わずらい、そうした心を護摩の火にくべて、仏様にお預けする、放下と申しますが、仏様にお任せする、ゆだねてしまい、心をきれいに、さっぱりと、願いが叶うとか、かなわないとかは二の次であって、すべてのことは仏様の思し召し次第として受け入れる、そういう心がととのって、心しずまる、おだやかになる、それこそが眼目であります。
仏教の学問的にも心の清らかさとは、心を憂鬱にするもの、わずらうものがない、まったく自由な心のことを言います。私たちは何を見ても聞いても、好き嫌い、良し悪し、役に立つ立たない、損か得か、そう一瞬にして判断して、好きなものよいものには欲が、嫌いなもの悪いものには嫌悪感が生じます。そうして、あれこれと考え、わくわくしたりクヨクヨしたり、浮かれたり落ち込んだりと心弾ませることになります。
それは自分にとってどうか、自分中心に自分の尺度でものを考える習慣が、自分という思いがある限り、どうしても抜けることがありません。江戸時代の小釈迦と言われた慈雲尊者という偉いお坊様が、「身を思う心こそ先ずこの世より身を苦しむる心なりけれ」と詠んでおられますが、身とは、身どもとも申しますが、自分のことですから、自分を思うその心がいまこの世で自分を苦しめているのだぞということです。
私たちは人のためと思いながら、よくよく考えてみれば、みんな自分の損得と感情で物事を考えているものです。人のことを心配しながら、自分にとって困るとか、悲しいとか、厄介だからという思いが裏側に隠れていたりするものです。思い悩み、思いわずらい気が重い、くたびれるというようなとき、自分に執着はないか、結局は自分のことばかり心配しているのではないかと考えてみると、案外にすぐに気持ちが楽になったりいたします。
あれこれと考えても考えなくても、結局は結果は同じ事で、何にもならないことは多いものです。それよりも心配ごとは仏様にお預けして、今執るべきこと、先に必要なことは何かと適切に判断し行動するだけでよいのではないかと思います。思い計らいは仏様にお預けして、余り考えすぎないで、この一年をゆったりと過ごしたいものだと思います。本年もどうぞ宜しくお願い致します。
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