住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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認知症終末期を経て亡くなられた檀家さんの満中陰法話

2016年07月18日 13時55分51秒 | 仏教に関する様々なお話
本日は遠方からも早朝よりご参詣をいただきご苦労様であります。ご一緒にお経をお唱えくださり、また長いお経を聞いて下さいましてありがとうございました。5月○○日、午後一時頃奥様とご子息さんがお寺に見えられて、あまり様態が良くないのだとのお話を伺い、早速病院にかけつけお見舞い申しました。急性肺炎で入院され胃ろうをするかどうかという段階で、すでにたくさんの管が取り付けられ、その間を縫うように血圧やら脈拍やらを計測されているところに行き、それを待って、いろいろと話しかけはしたのですが、反応もなく、帰り際にわずかに目が動き視線があったかなというような感じで失礼をいたしました。それが最後となり、そのあと二三時間後にお亡くなりになってしまいました。

丁度今、中国新聞で僧侶による看取りという特集記事が何度か見受けられまして、死んでからではなく死の間際にも私たち僧侶の役割というものがあるのではないかと取りざたされているときでもあり、私に取りましても誠に貴重な機会となったわけではありますが、今回は看取りということではなく、もう一度元気になってお寺に参って下さいというようなことしか申し上げられなかったことが残念に思われます。

通夜、葬儀、そして、七日のお参りを近隣のご親族で熱心にお勤めされ、今日満中陰のお勤めを済ませたわけですが、この法要のご功徳をもって来世に旅立って行かれる、だからこそこうして、この四十九日の満中陰忌には法要を盛大に行うわけでありますが、中陰とは、中有とも申しまして、亡くなる瞬間を死有と言い、来世に生まれる瞬間刹那を生有、そして、死有と生有の間の四十九日を中有と言います。そして私たちは、生有と死有の間の本有を今生きているのでありまして、その間に沢山の行いを為して、業を前世過去世の業に積み増し相続していくのが私たち衆生でありまして、そうしてこの四有を私たちは何度も何度も繰り返していると考えます。

業には善い業も悪い業もある訳なのですが、私などは坊さんになるときにあんたは業が深いんだねとある方に言われまして、まるで悪いことをしてきた罪滅ぼしに坊さんになるんだろうと言われた様な気がしたものですが、善い業もあるのであって、坊さんになるような業があるという意味で言われたことだったのだと今では思っております。

故人は、そう考えますと確かに長患いをする、晩年に十年間も認知症を患われ気の毒なことではありましたが、そうなる業がおそらく過去世にあったのではないか、それでご家族には大変な看護介護の長い日々を過ごされたわけですが、こうして亡くならたからには、その長患いする業がこれで解消されて、その善くない業がなくなって来世に旅立って行かれる。来世は健康で長生きをされるはずであると思えるのです。そこで、通夜のお勤めの後、仏教で言う死とは、体と心の分離であり、心は身体から離れて今この会場の上の方におられて皆様を見ていると申し上げ、そして、その時、身体の束縛を脱して、清々しい気持ちでこれまでの人生を振り返り満足し感謝の気持ちでおられると思うとも申したのでありました。

ですが、その後、認知症について少し不安になり、少し調べをしました。認知症とは心の病なのか身体の病なのかということで、心の病なら身体の束縛を脱しても心が清々しくなれたのだろうかと不安になったからです。しかし、やはり認知症は心の病ではなく身体の病なのだということが解りホッとしたのであります。

ところで、國分寺の檀家さんで、十一年間寝たきりで、その間ほとんど反応もなく、植物状態で過ごされ亡くなられた方があります。その方は交通事故で脳挫傷となり、しばらくは意識もあり反応もあったのですが、しばらくして無反応になり、それでも息子さんご夫婦は懸命に看護を続けてとても明るく励まれていたわけですが、亡くなる少し前にお孫さんが来られたとき何かそれまで見せなかったような反応を示し、それで亡くなられていきました。その時も通夜になんと申すべきか、長患いでお気の毒でしたではその息子さんご夫婦には何のお悔やみにもならない、そこで調べましたところ、たとえ植物状態にあっても、脳波もなく反応もなくても、ちゃんと意識があり物事の判断をされているという研究結果があるということを知りました。

英国の脳研究者で、エイドリアン・オーエン博士が、二十年間も植物状態にある患者さんにMRIを使い、テニスをしているところをイメージして下さいというと脳の運動野が、家の中を歩き回っているところをイメージして下さいというと海馬が活性化としたと言います。それを用いて、あなたの名前は○○さんですか、間違いなければテニスをしているイメージをしてくださいという具合に質問をして、今までずっと意識がありましたか、事故後ずっと意識がありましたかなどと様々な質問をしたところ、そのどれにも明確な反応があったというのです。脳波も現れず、何を言っても反応がない植物状態の人であっても、きちんと意識があり、質問にも判断をすることができていた、つまり心ありという研究結果が出ているのです。通夜の晩そのことを話しとても意味のある十一年間だったはずでありますと申しました。

おそらく○○さんも、周りのことがみんな解っていて、ただ認知症が進み適切に反応することができずにいただけで、亡くなってからは、つらかった身体を抜け出て、四十九日の間は行きたいところにも行き、来世の逝くべき所も見つかり、今生の家族ご親族である、皆様に感謝の気持ちを表されて、皆さんから沢山の功徳もいただかれて、悪い業も消えて来世はとても善いところに旅だって行かれることと思います。来年には一周忌また三回忌と続きますが、今度は前世の家族から来世におられる○○居士に向けて功徳を手向けてあげて欲しいと思います。



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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ありがとうございます (徒然人)
2016-07-31 17:29:54
コメント掲載並びにご返信頂きありがとうございます。抄録を掲示板に再掲しました。ご都合ございましたら御一報下さいませ。削除致します。

http://ryoshiki-111.bbs.fc2.com/
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徒然人様 (全雄)
2016-07-31 08:04:02
ご覧くださり、またコメントを残してくださってありがとうございます。

インドの仏教などでも看取りは最後の布施をさせる功徳を積ませる機会ととらえているようです。そうして安らいだ心で亡くなってもらうということなのでしょう。

ターミナルケアーは平服でもちろん問題ないことでしょう。

金の数珠も古鈴にも関心はありません。
返信する
はじめまして! (徒然人)
2016-07-27 02:13:40
壇務ご苦労様です。初めて書き込み致します。昔のことになりますが、僧侶による看取りは自身引導作法や往生要集に起源をもつ事例を調べた経験があります。儀礼を整備し、まっとうに修法すべきである、と、仏教儀礼事典の藤井師がよくお話しされていました。宗旨によって考え方は異なるのでしょうが、第6結集時点での古代言語による葬儀提案や、ターミナルケアへ平服で僧が参加することに意義を感じています。どだい、小戒棄捨の宗是がなければ、分通大乗ですから、律蔵による超宗派的な儀礼創案は可能なはずです。ある葬儀へ伺った際にホテルのデスクに入っていた仏教聖典をめくって、ふと考えました。臨死体験には諸説ありますが、認知症や深昏睡は生として、脳死や移植を生死の刹那にどう位置づけるか、ご家族と供に煩悶したことがあります。日本の現状で、どのように執行するのか、根本的な勘案が必須ですね。閑話休題。もう20年以上前のエピソードです。四○兵衛の純金本装束はズッシリでしたが、西○の金庫入り古鈴にはぶっ飛びました。僧正様は山内修学ありとのことですが、ご覧になりました?古今諸事あるところにはあるものですね。
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