住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

ある講義録を読んで

2009年07月03日 08時05分38秒 | 仏教に関する様々なお話
これはある宗派の僧侶方によるシンポジウムでの発言を収録した講義録である。「死について」と題して二時間半にわたり様々な議論がなされたようだ。冒頭基調講演として、昨今の死にまつわる事情として、自然な死と受け入れがたい死とがあると語られる。その後者の場合にどう僧侶が対処したらいいのかということが議題として提示される。

なぜならば、今日医療が進んだがために産科や老人医療の現場でも様々な搬送の問題や医療ミスなどの訴訟問題を含め、死を簡単に受け入れ難い状況を生むなど、昔では考えられなかったような死にまつわる問題があるとする。しかしいつの時代も身近な人の死は受け入れがたいものなのではなかったか。ただ現代人はその原因を本人や近親者にではなく、みんな他者とくに直接その場に居合わせる医者や病院に責任を押しつけるがためにややこしいことになるのではないか。

そして、このような様々な思いを抱える現代にあっては、なおさら葬儀の場面で、導師が実際に何をしているのかということを遺族に語る必要があるという。では何をしているのかというと、①この世を去って仏さまのいのちの根源に還って逝く人は仏の仕事をされますようにと祈る、②逝く人の誓願を成就せしめたまえと祈ることをしているのだという。そしてこの場合の仏の仕事とは後の世に生きる人々の幸せを見守ることだと述べられる。

さらには、死後四十九日の法要から一周忌、三回忌と十三仏の信仰に基づいた年忌法要がなされるとき、「それからぽんと切れて成仏すること。それが目的ではないでしょうか。輪廻転生などが目的ではない」ともある。

また死をどのように受け取るかという段になると、①死後の世界はないとする人、②輪廻転生はいかに生きるかということに利益があるとする大学教授の考えを紹介し、輪廻するという考え方をする人、③遺伝子として子孫に何かを託すという考え方の人、④死後は大いなる命に融合すると考える人、大きくこのような考え方があると紹介する。そして様々な考え方をする人に添って話を聞きケアしてあげることが大切だと述べられる。

さらには、死後のことをあまり語ることをしないようだが、あの世に行ったらお袋にも会える、師匠にも会える兄にもあの世で会えると自分は思っていると語る人もあった。「自殺は一概に悪いとは言えない」「自殺はその人にとって運命的なものですからいいのでしょうけれども」というような気になる表現もなされていた。

大変期待して読んだのではあったが、一言でいうと疑問に感じる発言が多く、また残念ながら仏教の死生観が示されない。それぞれの体験からいろいろな事例についての話は誠に興味深く参考になった。しかし様々な学者たちの見解を採り入れて権威ある考え方であるかのように発言されてもいるが、仏教としてはどのように考えるべきかという指針が示されないままに終わっているのは残念に思った。

少し前にまた別の宗派の同じようなシンポジウム後の感想を参加していた人が書いた物を読んだことがある。そこにも僧侶がまったく死後のことを話せないことに愕然としたと書かれてあったことを思い出す。お釈迦様は確かに死後のことよりも今どう生きるかということを語られた。しかし、こんなことをしていると死後こうなるよということは多くの経典に残されている。つまりは輪廻するのだから地獄に行きたくなかったらこう生きなさい、輪廻して苦しみの生を重ねたくなかったらこうしなさいと。

都会では、長患いした病院から直接火葬して納骨する直葬という葬法が増えているという。その場合、もちろんお葬式もしないらしい。はたしてお葬式もしないでいいではないかとする人にどのように語ればその大切さを伝えることができるのであろうか。命の大切さと言われて久しい。しかしそう語る現代人が自ら近親者の命を軽く扱っているのが現実の姿である。

人は誰しも一人では生きていけない。みんな周りの人たち生きもののお陰で生きている。生まれてからこの方、何十年も他の人々の手を煩わせ良くも悪くも沢山の人々のお世話によってともに生きてきたことを考えるなら、亡くなったからといって、「はいさようなら」で済ませていいはずがない。やはりそういういろいろなことに人として感謝を述べる、喪主は故人に変わってそうせねばならないだろう。華やかでなくても、ささやかにもそのような場がやはり必要なのではないか。

亡くなったら何もないと考える生き方は危険な生き方ではないか。亡くなるまでしたことが何もあとに残らないとすれば、人に知られなかったら何をしてもいいという生き方になるであろう。法に触れなければ、ないし隠し通せるならばいくらでもしたい放題の世の中になるのではないか。だからこそ今、私たちの社会は軌道を外れどこへ向かうとも知れずさまよっているのではないか。

そもそも生まれて来た家族、周囲の環境、持って生まれた才能容姿の不平等もどう説明されるのであろうか。とてつもない不平等なこの世の中にあって、まったくこの世だけ一度だけの人生などと言って済ませるならば、この格差をどう説明するのか。来世があると、何度も生まれ変わってきた過去世があり、生き方によって来世が違うのだとしてはじめて私たちのそうした現実を意味あるものとして説明することもできよう。

昔から「そんなことしてたら後生が悪い」という言い方があったように、来世がある。そのようにおそらく江戸時代までの日本人は考えていたであろう。だから葬儀の場面では、残された者、親しい人は故人に来世もしっかり生きて欲しいと功徳を手向ける。その儀式を執行する僧侶は、きちんと戒律を授け、沢山の生前の功徳、死後手向けられた功徳を持ってより良い来世に逝きなさい、できれば来世でも仏教徒としてきちんと物事を考えられる、自分で判断できる人生を歩みなさいと来世への旅立ちを見送る。これが本来の仏教としての人の生き死にに関する定説ではなかったか。

来世があると考える仏教は、自殺することもけっしてそれで楽になれるものではないとはっきり言うことができる。暗い心恨みの心怒りの心をもって自らの命を粗末にして来世に逝ったら大変なことになるよと。輪廻転生が生きる目的なのではない、供養の目的ではない。そこから抜け出るために私たちは何度も生まれ変わりながら教えを学び徳を積み心清めていかねばならないとするのである。

明治時代に、浄土宗の福田行誡師は「宗旨で仏法を語るなかれ、仏法をもって宗旨を説くべし」と言われ、兼学ということを特に勧められた。今各宗派は宗派の教義に閉じこもり専門化して、根本にある仏法が説けなくなってはいまいか。広く兼学の精神をもって、もっとおおもとから学び直す必要があるのではないか。第一には、まずはお釈迦様の教えから紐解き、それぞれなしている一つ一つのことの何たるかをもう一度見直すことが必要なのではあるまいか。

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