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先週金曜日、恒例の懇話会があった。この度は、前回申し上げたことの訂正と、「法の六徳」と「五戒について」お話した。その後、毎回ご出席の男性から、高野山参拝の感想と以下のような質問があった。
「今回高野山に参らせてもらって、何年かぶりで参ったのだが、それなりに有り難かった。しかし、奥の院の弘法大師の御廟の前で、多くの参詣者が行き交う中でお経を上げたのだが、何かこんなものだろうかという感慨が残った。つまり真言宗の宗徒にとって一番有り難いはずの場所で、立って手を合わせるだけで、あそこへ跪いて額づいて手を合わせるという気持ちにならなかったのは、どうしてだろうか」と言われた。
イスラム教の人でも、また他の仏教国の人たちもきちんと五体を投げて礼拝するのが習慣となっている。キリスト教でも神の前に跪き胸の前で手を合わせる。昔「ニクソン」という映画を見たが、その中にニクソン大統領と国務長官キッシンジャーがともに跪き神に感謝を述べる印象的なシーンがあったのを思いだす。
私たち日本人は、お辞儀をする習慣があり、腰の低い国民性があるのに、神仏を前にして跪いて手を合わせたり、五体を投げて礼拝するということをしない。なぜなのだろう。神や仏というものに対する畏敬、崇拝の念が小さな頃からの生活習慣の中で育っていないということなのだろうか。
神とはどれだけありがたいものか。仏とは私たちが生きていく上でなくてはならないものだという意識が、私たちにあるだろうか。毎日仏壇や神棚に御供えをし、手を合わせていても、その神仏と先祖とを実際のところ混同して手を合わせてはいないだろうか。
神仏とご先祖とを同じように思っていて、改めて神とは何か、仏とは何か、と考えずにそれほど特別ありがたいものとも思っていないのではないか。私たちは、神や仏から、生きることに、また日常の生活に、そして人生に、規範となり、指針となり、教えとなるものを、はたして受け取っているであろうか。
もしもそのような受け取るものがなければ、真摯に身を投げて、手を合わせ礼拝しようという気持ちになれないのは当然のことなのかもしれない。ただ、あるせっぱ詰まった状況に追い込まれて、本当におすがりするしかない、もう追い込まれて、誰にも助けを求められない、神仏に救いを求めるしかない。
そういう気持ちになっときには、心から神仏にひれ伏し、願い祈る、すべてをお頼みするそういう気持ちになって、思わず神仏を前に跪き額づくということがあるかもしれない。逆に言えば、そういう状況に追い込まれてみないと、私たちは本当に神仏のありがたさを理解できないということなのではないかと思う。
昨日ある大手のエレベーター管理会社の幹部の方にお会いして話を伺った。50代のその方の話によれば、人の命に関わる仕事をしているからか、自分も含め同僚も、結構毎朝出社前であるとか、外出の折などにお寺や神社に立ち寄っては、手を合わせ、今日も1日無事でありますようにと祈るのだ、ということを聞いた。
この話を聞いてなぜかとてもうれしくなった。そうして、企業戦士も神仏へ手を合わせ、心から事故などトラブルが起こらないことを祈り安寧を得ている。そして、それがまた自らのストレス解消にも繋がっているのであろうと思う。そんなことをあれこれ話し合った。
近年、米国式経営の影響からか他社との競争やノルマ、社内の競争と人間関係、家庭の問題などで精神的に疲弊した中堅社員に心の病を抱える人が急増している。10月17日の朝日新聞には、上場企業の30代で6割近い人がメンタルヘルスに問題を抱えているとある。ストレスをいかに解消するか、その方法の一つとして神仏との自分なりの関わり方を模索してみては如何であろうかと思う。
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日記@BlogRanking
「今回高野山に参らせてもらって、何年かぶりで参ったのだが、それなりに有り難かった。しかし、奥の院の弘法大師の御廟の前で、多くの参詣者が行き交う中でお経を上げたのだが、何かこんなものだろうかという感慨が残った。つまり真言宗の宗徒にとって一番有り難いはずの場所で、立って手を合わせるだけで、あそこへ跪いて額づいて手を合わせるという気持ちにならなかったのは、どうしてだろうか」と言われた。
イスラム教の人でも、また他の仏教国の人たちもきちんと五体を投げて礼拝するのが習慣となっている。キリスト教でも神の前に跪き胸の前で手を合わせる。昔「ニクソン」という映画を見たが、その中にニクソン大統領と国務長官キッシンジャーがともに跪き神に感謝を述べる印象的なシーンがあったのを思いだす。
私たち日本人は、お辞儀をする習慣があり、腰の低い国民性があるのに、神仏を前にして跪いて手を合わせたり、五体を投げて礼拝するということをしない。なぜなのだろう。神や仏というものに対する畏敬、崇拝の念が小さな頃からの生活習慣の中で育っていないということなのだろうか。
神とはどれだけありがたいものか。仏とは私たちが生きていく上でなくてはならないものだという意識が、私たちにあるだろうか。毎日仏壇や神棚に御供えをし、手を合わせていても、その神仏と先祖とを実際のところ混同して手を合わせてはいないだろうか。
神仏とご先祖とを同じように思っていて、改めて神とは何か、仏とは何か、と考えずにそれほど特別ありがたいものとも思っていないのではないか。私たちは、神や仏から、生きることに、また日常の生活に、そして人生に、規範となり、指針となり、教えとなるものを、はたして受け取っているであろうか。
もしもそのような受け取るものがなければ、真摯に身を投げて、手を合わせ礼拝しようという気持ちになれないのは当然のことなのかもしれない。ただ、あるせっぱ詰まった状況に追い込まれて、本当におすがりするしかない、もう追い込まれて、誰にも助けを求められない、神仏に救いを求めるしかない。
そういう気持ちになっときには、心から神仏にひれ伏し、願い祈る、すべてをお頼みするそういう気持ちになって、思わず神仏を前に跪き額づくということがあるかもしれない。逆に言えば、そういう状況に追い込まれてみないと、私たちは本当に神仏のありがたさを理解できないということなのではないかと思う。
昨日ある大手のエレベーター管理会社の幹部の方にお会いして話を伺った。50代のその方の話によれば、人の命に関わる仕事をしているからか、自分も含め同僚も、結構毎朝出社前であるとか、外出の折などにお寺や神社に立ち寄っては、手を合わせ、今日も1日無事でありますようにと祈るのだ、ということを聞いた。
この話を聞いてなぜかとてもうれしくなった。そうして、企業戦士も神仏へ手を合わせ、心から事故などトラブルが起こらないことを祈り安寧を得ている。そして、それがまた自らのストレス解消にも繋がっているのであろうと思う。そんなことをあれこれ話し合った。
近年、米国式経営の影響からか他社との競争やノルマ、社内の競争と人間関係、家庭の問題などで精神的に疲弊した中堅社員に心の病を抱える人が急増している。10月17日の朝日新聞には、上場企業の30代で6割近い人がメンタルヘルスに問題を抱えているとある。ストレスをいかに解消するか、その方法の一つとして神仏との自分なりの関わり方を模索してみては如何であろうかと思う。
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日記@BlogRanking
いつも、興味深く読んでいます。私も、仕事柄 海外の人と接する機会が多いのですが、日本人は最初の挨拶、別れるときお辞儀をします。私が今まで接した海外の方で、お辞儀をする人はいませんでした。(アメリカ、中国、韓国、ドイツ、ネシア、タイ、インド、パキスタン、トルコ)日本人だけなのでしょうか?
やはり、外国の方に「なぜ日本人は、お辞儀をするのか?」と言われたことがありますが、答えられませんでした。これは、仏教とは関係なく、武士道ですかね?
私も仕事の途中でお寺や神社を通ったりするときは、手を合わせますね。私の場合は、そのときは心の中を空っぽにしようとしています。(これ、晴兵衛流です)
そういえば、友人の母親の話ですが、水道を使うとき必ず、手を合わせるというのです。昔は、井戸しかなく、水道が出来て、蛇口をひねるだけで飲料水が出ることに対する感謝の気持ちだそうです。頑なにその習慣を守っているその姿には、心の美しさがあるように思います。
そうですね、インドなどでは、手を合わせて挨拶する程度で、確かに、お辞儀というのとは違いますね。
お辞儀をするというのは、平和な社会、単一民族の象徴でしょうか。頭を下げた途端にドカーンとやられる物騒な社会ではとてもできることではありませんから。
頭を下げて人を敬う、相手を大切にするという日本の習慣は、茶道や剣道などとの関連でしょうか。この辺りから、人を大切にする感覚が強く出て、神仏を敬う程度が相対的に低くなっているのでしょうか。・・・
名前からして印度料理がお好きですか?
ガラムマサラは、食べたときは熱くなりますが、その後は、意外とひんやりするものですね。熱く練習して、印度料理でも食べて、それからどちらかお参りされて、冷静な試合を心がけてください。
またお越し下さい。