住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

万燈会法話①

2018年08月24日 09時11分45秒 | 仏教に関する様々なお話
ことのほか暑い猛暑に責任を押しつけるわけではないが、今年の万灯会5ヶ寺の法会後の法話を担当するとなっても、何も頭に浮かばず、初日から皆さんに何か質問があればと問うてみることになった。初日のお寺には丁度中学生がお参りになっており、その子から早速に「餓鬼とは何ですか」と質問がいただけた。何も質問がなければ、お施餓鬼の作法をお参りの方々にもしていただいているので、そのあたりのことでもお話ししようかと思っていたところだったので、ありがたい質問であった。

「餓鬼とは、私たちのような身体を持つことなく、心だけの存在で、暗いところで、私たちのすることを見ていて、何か食べていたりすると物欲しそうに指をくわえて見ていたりするのですが、姿はとても醜いと言われています。私たちも死ぬ瞬間に暗い心で死ぬと餓鬼になると言われていて、生前自分さえ良くありたいと人をうらやみ妬んだりしていると死ぬときにも暗い心で亡くなる、そうすると餓鬼になると言います。

私たちは亡くなると六道に輪廻するといって、六つの世界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天のどこかに生まれ変わります。生前の行いによって、それに培われた心にしたがってどこかに転生すると考えられていますが、皆さんのようにこうしてお寺に来て徳を積み、勤行次第にもある十善をまもる生活をしていたら人間界以上の世界に転生するとされています。

間違っても地獄や餓鬼の世界に逝かないように、常にみんなと共に良くあるようにと明るく何があっても思い詰めたりせずに暗くならないように生活することが大切ですが、インドのお釈迦様の時代にはこんな話もあります。お釈迦様には沢山の在家の弟子もいましたが、中インドの大きな国にコーサラ国があり、その国のパセーナディという王様も熱心なお釈迦様の弟子でしたが、元々信仰心ある人ではなかったのに、敬虔な仏教徒であったマッリカーというお気に入りの妃の感化により足繁くお釈迦様に教えを乞うようになったのでした。

このマッリカーは若くして亡くなってしまうのですが、沢山のお坊さんたちに施食をして法話を聞いた功徳があり死後は良いところに転生するに違いないと言われていましたが、亡くなる寸前に生涯に一度だけついた嘘を思い出して、暗い心になり、餓鬼の世界に逝ってしまいました。ですが、餓鬼の世界に逝き、二三分して、何で自分はこんな所にいるのですが、生前沢山のお寺さんに供養して法話も聞き教えを学んできたのに、と思った瞬間に兜率天に逝ったと言われています。

餓鬼の世界は人間界よりも遙かに寿命が長く、あるいは寿命がないという説もあり、この餓鬼の世界の二三分は人間界では七日間ほどだとのことなのですが、亡くなった翌日からパセーナディ王は、マッリカーがどこに転生したか聞こうとお釈迦様の所を訪ねます。ですが、お釈迦様はそのことを神通で知ると、敬虔な信者であったマッリカーが餓鬼に転生したとも、嘘を言うこともできないので、質問をさせずに王様をお城に帰してしまいます。

二日目も、三日目も、そして、七日目に来たときには、毎日毎日こちらにお越しになりますが、王様何か聞きたいことでもあるのですかとお釈迦様が問うと、そうなのです、マッリカーはどこに逝ったか聞きたかったのですというと、お釈迦様は、マッリカーは兜率天にいますよと応えられたのでした。

暗い心で亡くならないようにすることが先ず大切です、が、万が一餓鬼にいったら、生前の功徳、善いことをしたこと、お寺に沢山の寄付をしたことなどを思い出して、皆さんも、何でこんな所に来たんですかと思えるように、自分のなした沢山の功徳をよく憶えておかなくてはいけないということですね。

それで、今日の施餓鬼の作法は、洗ったお米にナス、キュウリを采の目に切って混ぜた水の子を蓮の葉に盛り、そこに樒の葉で水を掛けて供養しますが、これは餓鬼は私たちが食べるご飯をそのまま食べることが出来ないため、わざと腐らせたようにして餓鬼に供養しているわけですが、無数にいるとされる餓鬼の供養は誠に大きな功徳があり、その功徳を御先祖様、近くに亡くなられた精霊の菩提の為にふり向ける、回向する法会がこの施餓鬼会ということになります。」

次に、「悪霊と浮遊霊の違いについて教えて下さい、以前夜中に家に白い三角巾を頭に巻いた人が立っているのを見たことがあるのですが・・・」という質問があった。

「悪霊と言えば、人を恨み、憎んで亡くなった人の霊が、ずっとこの世に、それも特定の人の周りにとどまって悪さをするような霊のことで、浮遊霊は、亡くなっても、それが急な事故であったり、人知れず亡くなったりして葬式もしてもらえず死んだこともわからずにこの世にとどまっているような霊のことです。

そうした霊は見える人にたよるところがあり、ちょうど貴方がその頃見える状態にあり、現れたのだと思いますが、私も高野山にいた頃同室のお坊さんが霊が見える人で、ある晩に寝苦しく起きたことのあった翌朝、その方から、昨晩白衣を着た坊さんの霊が貴方の顔を覗いていきましたよと教えてくれました。

またお施餓鬼という夕方暗くなってからする作法の最中にはちょいちょい白衣を着た霊が来ていたということは聞いています。ですから、沢山そうした浮遊霊はいるのですが、見える人を頼り姿を現すようです。今はもう見えないのなら寄ってきませんから安心してお過ごし下さい。」つづく



にほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 勅封心経に願う | トップ | 万燈会法話② »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

仏教に関する様々なお話」カテゴリの最新記事