先週10日、東京の西早稲田・放生寺にて秋の大祭・放生会があり法会に出仕させてもらった。当日の朝一番の7時50分発で広島空港から羽田に飛んだ。最近こうした出張の時だけ小説を読むことにしている。
今回読んだ小説の冒頭に、「人は一度巡り会った人とは二度と別れることは出来ない」とあった。「なぜなら人間には記憶という能力があり、いやが上にも記憶とともに現在を生きているからである」と続く。
その後主人公が昔学生時代に付き合っていた彼女から19年ぶりに電話があり、過去とともに生きてきた自分を知る。過去の出来事と現在進行中の事柄がからみ合いつつ、19年ぶりの再会を経て、その過去と一応の決別を果たし新たな人生を歩み出すといった内容になっていた。
過去の記憶は心の湖の底深くに沈んでいく。何かの切っ掛けでそれが湖面に浮かんでくることもあるという表現などからも、昔勉強したユング心理学を思い出した。私たちの記憶は様々な感情をともなって蓄積されていく。
普段忘れ去っていることでも何かの切っ掛け、刺激から記憶の表面に現れ、私たちを悩ますこともある。潜在する記憶に気づかぬ間に翻弄され振り回されて、私たちは様々な感情、反応を示すことがある。
私たちは、みんな過去のことごととともに生きている。仏教で言えば業、カルマということになるのであろう。私たちは業によって生き、業によって死に、業によって再生する。過去から決別することなどできない。永遠に引きずって行かねばならないものだからこそ、業を大切にすべきなのであろう。すべてが自業自得ということか。
業は、行いということ。行いには、身体でする行いと口でする行い、心でする行いとがある。何かをするのも、言うのも、思うことも行いだと仏教では言う。それらが業となって、その果報として私たちに襲いかかる。いや、襲いかかられないような行いを心がけねばならないのであろうが。
東京での法要の後、お斎の席で様々話の花が咲いた。何とは言わずそれらの話を聞いていて、年月の積み重ねを思った。彼らのひと言ひと言に、こうして毎年出会いを重ねてきた有り難さを思った。その人の年輪を知っているということは、自分のことも知っていてくれるということになる。一部かもしれないが、心の湖に同じものが沈んでいるということになるのであろう。
その翌日、8年ぶりである雑誌の編集をしている知人に会った。まったくブランクを感じることなく昔のままに、何の腹蔵なく話し込んだ。これからの日本仏教はどうなるのだろうか。私たちはこれでいいのか、という内容に終始したように思う。ありがたい出会いである。私と同じ年でごく近隣で学生時代を過ごしていたことをあらためて知った。
心の湖に沈殿した淀んだ記憶を清めることは大切だが、心沸き立つありがたい思い出はこれからも大切にあたためておきたいと思う。そんなことを思いつつ、帰りの機内、スカイオーディオで流れる、アンブロージアのベイビーカムバックに一人酔いしれた。
今回読んだ小説の冒頭に、「人は一度巡り会った人とは二度と別れることは出来ない」とあった。「なぜなら人間には記憶という能力があり、いやが上にも記憶とともに現在を生きているからである」と続く。
その後主人公が昔学生時代に付き合っていた彼女から19年ぶりに電話があり、過去とともに生きてきた自分を知る。過去の出来事と現在進行中の事柄がからみ合いつつ、19年ぶりの再会を経て、その過去と一応の決別を果たし新たな人生を歩み出すといった内容になっていた。
過去の記憶は心の湖の底深くに沈んでいく。何かの切っ掛けでそれが湖面に浮かんでくることもあるという表現などからも、昔勉強したユング心理学を思い出した。私たちの記憶は様々な感情をともなって蓄積されていく。
普段忘れ去っていることでも何かの切っ掛け、刺激から記憶の表面に現れ、私たちを悩ますこともある。潜在する記憶に気づかぬ間に翻弄され振り回されて、私たちは様々な感情、反応を示すことがある。
私たちは、みんな過去のことごととともに生きている。仏教で言えば業、カルマということになるのであろう。私たちは業によって生き、業によって死に、業によって再生する。過去から決別することなどできない。永遠に引きずって行かねばならないものだからこそ、業を大切にすべきなのであろう。すべてが自業自得ということか。
業は、行いということ。行いには、身体でする行いと口でする行い、心でする行いとがある。何かをするのも、言うのも、思うことも行いだと仏教では言う。それらが業となって、その果報として私たちに襲いかかる。いや、襲いかかられないような行いを心がけねばならないのであろうが。
東京での法要の後、お斎の席で様々話の花が咲いた。何とは言わずそれらの話を聞いていて、年月の積み重ねを思った。彼らのひと言ひと言に、こうして毎年出会いを重ねてきた有り難さを思った。その人の年輪を知っているということは、自分のことも知っていてくれるということになる。一部かもしれないが、心の湖に同じものが沈んでいるということになるのであろう。
その翌日、8年ぶりである雑誌の編集をしている知人に会った。まったくブランクを感じることなく昔のままに、何の腹蔵なく話し込んだ。これからの日本仏教はどうなるのだろうか。私たちはこれでいいのか、という内容に終始したように思う。ありがたい出会いである。私と同じ年でごく近隣で学生時代を過ごしていたことをあらためて知った。
心の湖に沈殿した淀んだ記憶を清めることは大切だが、心沸き立つありがたい思い出はこれからも大切にあたためておきたいと思う。そんなことを思いつつ、帰りの機内、スカイオーディオで流れる、アンブロージアのベイビーカムバックに一人酔いしれた。